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第四章 籠の鳥と、夜の逃避行

神城透亜という少年は、残酷なほどに美しかった。


中性的な顔立ちに、色素の薄い髪と瞳を持ち、十歳にして大人を魅了するその容姿は、神城の権力者たちにとって、他家との繋がりを強固にするための「最高級の外交カード(政治の道具)」に他ならなかった。


冬真が失脚してからの数ヶ月、透亜は親族の大人たちに連れ回され、有力政治家や他財閥の重鎮たちが集まる夜会に、毎日のように「飾り人形」として出席させられていた。


「まあ、なんて可愛らしい。神城の未来は安泰ですわね」


「透亜くん、私の隣へおいで。おじさんに君の賢いお話を聞かせておくれ」


向けられるのは、純粋な好意ではない。値踏みするような視線、神城の血を自分の懐に引き込もうとする、ドロドロとした大人の欲望。


透亜はその中心で、いつも通り完璧に愛らしく、品のある「人形の笑顔」を振りまいていた。


(……気持ち悪い。反吐が出る。どいつもこいつも、全員まとめて消えてしまえばいいのに)


心の中でどれほど呪詛を吐き散らそうとも、十歳の彼には、まだこの状況を拒絶する力はなかった。



その日の夜遅く、ようやく離れの自室へと戻った透亜は、ひどい頭痛に襲われていた。

タキシードのネクタイを乱暴に毟り取り、ベッドに倒れ込む。


コンコン、と微かなノックの音。


「透亜様……入ってもよろしいですか?」


入ってきた翡翠は、いつもの気の抜けた表情ではなく、どこかひどく痛ましいものを見るような目で透亜を見つめていた。


「……何、翡翠。おやつなら、今日は食べる気分じゃないんだ。疲れてるから、もう下がって」


透亜はベッドに顔を伏せたまま、冷たく言い放った。いつもの意地悪な余裕すら、今の彼には残っていなかった。


翡翠には、難しい政治のことは分からない。仕事に必要な教養は一通り叩き込まれているが、頭を使う事は苦手だ。


けれど、人の心の動き――特に、呼吸の深さや、肌から立ち上る「気配」を敏感に感じ取る力は、誰よりも長けていた。


「透亜様……」


翡翠は音もなくベッドに近づくと、透亜の前に膝をついた。


「今日の透亜様、すごく苦しそうです。お部屋の空気も、なんだか泥みたいに重くて……透亜様が、死んじゃいそうな気配がします」


「……馬鹿なこと言わないでよ。僕は完璧にやってる。一馬兄さんだって、僕の有能さに気づき始めて――」


「嘘です」


翡翠は、透亜の言葉をまっすぐに遮った。


「主に嘘をつかない」と言った少女が、初めて、主の言葉を「嘘だ」と拒絶したのだ。


「私、難しいことは分かりません。

でも、透亜様が毎日、あのお城みたいなところで、怖い大人たちに笑っているとき………もう、壊れちゃうんじゃないかと…いつも…。

透亜様、もう、笑えていません」


「っ……!」


透亜は息を呑み、ベッドから跳ね起きた。


「君に何が分かるんだよ! 僕は神城の人間だ! ここで勝ち残るためには、これくらい――」


「いきましょう」


翡翠は透亜の手を、ぎゅっと強く握りしめた。


「え……?」


「お外に行きましょう。神城の誰もいない、静かなところへ。今夜は、もう笑わなくていいです」


透亜の目が驚愕に見開かれる。


「何を言ってるの!? 僕が夜中に勝手に抜け出したなんて知れたら、大問題になる! 君だって、専属護衛の任務放棄で、どんな罰を受けるか――」


「お仕置きなら、百叩きでもなんでも受けます! でも、今は透亜様をここに置いておけません!」


翡翠の瞳には、一切の迷いがなかった。


自分は護衛だ。だから、目の前で静かに壊れかけている十歳の主を救いたいという、それだけのための、あまりにも無鉄砲で、純粋な優しさ。


透亜は、言葉を失った。


これまでの人生で、自分の利益のためではなく、ただ「僕のためだけ」に、自分の身を危険に晒してくれた人間なんて、一人もいなかった。


「……本当に、馬鹿な狐だ」


透亜は小さく呟いた。


怒鳴る気力は、もう消えていた。代わりに、頑なに閉ざされていた胸の奥が、じんわりと熱くなっていくのを感じる。


「……捕まったら、君のせいだからね」


「はい! 私の背中に、しっかり捕まっててください!」


翡翠は嬉しそうににこっと笑うと、透亜を軽々と背中におんぶした。


そして、月明かりの差し込む窓から、音もなく夜の闇へと飛び出した。





警備の目を盗み、高い外壁を重力無視の体術で飛び越え、二人がたどり着いたのは――神城の領地から遠く離れた、小高い丘だった。


草の匂いと、冷たい夜風が吹き抜ける。


地べたに座った透亜は、神城の屋敷では決して見られない、どこか呆然とした顔で夜空を見上げていた。


「透亜様、これ、買ってきました! 飲んで下さい!」


翡翠が、走って戻ってきて、温かい缶ココアを透亜の手ににぎらせた。


「……あったかい」


缶を通じて、じんわりと手のひらに熱が広がる。


夜会で出される最高級のシャンパンや、どんなに高価な料理よりも、この150円のココアのほうが、今の透亜には温かかった。


ココアを一口すすると、体に溜まっていた毒が溶けていくように、ふう、と深い溜息が出た。


数ヶ月ぶりに、本当に呼吸ができたような気がした。


隣では、翡翠が「お外の空気は美味しいですね!」と、寒そうに身を縮めながらも、嬉しそうに夜空を見上げている。


いくつもの星の光に照らされた彼女の横顔は、いつもと変わらず素朴で、何の計算もない。


それを見つめる透亜の胸の奥で、微かな、けれど確かな変化が起きていた。


これまでの「有能な猟犬を手に入れた」「お気に入りのおもちゃを独占したい」という昏い執着とは、何かが違う。


ただ、隣で寒そうに鼻をすすらせている小柄な少女の姿が、どうしようもなく愛おしく、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。


他人の嘘や悪意はどんなに微細なものでも見抜けるのに、十歳の透亜には、自分の胸に芽生えたこの未知の温かい感情が何なのか、まだ上手く言葉にできなかった。


ただ――今、自分の隣で無邪気に笑っている彼女の笑顔を、心から「可愛い」と思った。


「ねえ、翡翠」


「はい?」


翡翠が不思議そうに振り返る。


透亜は、ココアの缶を両手で持ったまま、顔に貼り付いていたすべての「仮面」を完全に外した。


そして、この数ヶ月で一度も他人に向けたことのない、10歳の子供らしい、本当に優しくて穏やかな微笑みを浮かべた。


「……ココア、美味しいね。」


「! はい! すっごく美味しいです!」


翡翠は、透亜がいつもの作り物の笑顔ではなく、心から柔らかく笑っているのを見て、本当に嬉しそうにくしゃりと破顔した。


神城のドロドロとした権力争いも、自分を縛る美しい容姿の呪いも、今この瞬間だけは、遠い幻のようだった。


満天の星空の下、夜風に揺れる2人の小さな影は、静かに、けれど確実に、運命を共にし始めていた。


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