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第三章 罠と狐 二人の大作戦

神城の本邸で行われる月一回の親族会議。それは、一族の権力者たちが互いの手札を探り合い、足の引っ張り合いをする醜い社交場だった。


「おや、透亜。今日も隅っこで大人しくしているのかい? 賢いことだ。お前のような無能は、そうして息を潜めているのが一番お似合いだからな」


会議の休憩時間、豪奢な廊下で透亜を見つけるなり、十二歳の兄・神城冬真が勝ち誇った笑みを浮かべて近づいてきた。

後ろには、彼の専属である「狐狸」の護衛を引き連れている。


「こんにちは、冬真兄さん。今日も素晴らしいお召し物ですね」


透亜はいつも通り、無害で愛らしい「完璧な笑顔」で頭を下げた。


「フン、お前の世辞など反吐が出る。……そういえば、先日の不審者は無事に処理できたようだな。私の護衛が『離れの近くで鼠を仕留めたようだ』と言っていたぞ」


冬真は声を潜め、意地悪く目を細めた。数ヶ月前の暗殺未遂が自分の仕業だと、暗に匂わせているのだ。十歳の子供なら、恐怖で顔を青くするはずだった。


しかし、透亜の仮面はピクリとも動かない。


「ええ、おかげさまで。僕の護衛がとても優秀なもので、鼠一匹、部屋に入れる前に噛み殺してくれました」


透亜の背後で、翡翠がすっと長袍の裾を正し、無表情のまま冬真を、正確には冬真の背後の護衛をじっと見つめた。冬真の護衛の男が、翡翠の視線にわずかにはっとしたように身を硬くする。


「チッ、小癪なガキめ。せいぜい今のうちに吠えていろ。お前が頼りにしているその資金源の『神城ロジスティクス』の株、来週にはすべて我が派閥の傘下に収まることが決まった。

お前にはもう、一銭の価値も残らんのだよ」


冬真はそれだけ言い捨てると、肩をそびやかして会議室へと戻っていった。


それを見送った瞬間、透亜の唇が、すうっと三日月のように歪んだ。

仮面が剥がれ落ち、昏い愉悦の笑みが浮かび上がる。


「……ねえ、翡翠。かかったよ。あの馬鹿、本当に僕がわざと流した偽の買収情報に飛びついた」


「さすが透亜様です! あのお兄さん、嬉しそうに顔を真っ赤にして、まるで大きなエサを見つけたイノシシみたいでした!」


翡翠は物陰に隠れると、声を殺してクスクスと嬉しそうに笑った。


冬真が言った「神城ロジスティクス」は、一見すると優良な流通会社だが、裏では莫大な隠し負債と違法な取引を抱えた、破滅寸前の泥船だった。


透亜は数ヶ月かけて、そこが自分の隠れた資金源であるかのように偽装し、冬真がそれを「奪い取る」ように誘導したのだ。


「これで冬真兄さんの派閥は、一兆円近い負債を抱えて自滅する。

……でも、ただ自滅するだけじゃつまらないよね。もっと、立ち上がれないくらい派手に転んでもらおうか」


透亜は形のいい瞳を輝かせ、翡翠を見た。


「翡翠。冬真兄さんが今持っている『本物の買収契約書』、あれを今から会議が始まるまでの十分間で、本物そっくりの『神城ロジスティクス全負債引き受け同意書』にすり替えてきて」


「お任せください!」


翡翠は嬉しそうに胸を張った。


「あのお兄さんの護衛、さっき私と目が合った時、すごく怯えていました。私のほうが強いって、本能で分かっちゃったみたいです。風のように行って、風のように奪ってきます!」


「頼んだよ。一馬兄さんたち大人の目が届かない、この十分間が勝負だ」


翡翠は小さく頷くと、次の瞬間には、廊下の影へと文字通り「消えた」。




五分後。本邸のVIP用控室。


冬真は、間もなく始まる親族会議で長男の一馬に自分の成果を誇る瞬間を想像し、鼻歌を歌っていた。


机の上には、神城ロジスティクスを強奪した証明である、厳重に封印されたアタッシュケースが置いてある。


その時、部屋の照明が一瞬だけ、チカチカと不自然に明滅した。


「ん? なんだ……?」


冬真が天井を見上げた、わずか一秒の隙。

パァン、と乾いた音が室内に響いた。


「が、はっ……」


冬真の背後に控えていた護衛の男が、声も上げられずに白目をむいてその場に崩れ落ちる。


天井裏の通気口から音もなく舞い降りた翡翠が、着地の勢いのまま男の顎へと正確に掌底を叩き込んだのだ。脳を揺らされたプロの護衛が、一瞬で無力化される。


「ひっ……!? な、なんだ、何が――」


目の前で自慢の護衛が倒れ、冬真は恐怖に顔を引き攣らせて椅子から転げ落ちた。


パニックになり、叫ぼうと口を開いた冬真の視界に、ひらりと翻るチャイナ服の裾が映る。


次の瞬間、冬真の首筋に、翡翠の鋭い手刀が容赦なく叩き込まれた。


「う、あ……」


冬真は短い声を漏らし、そのまま床へとしなだれかかる。完全に意識を失う一歩手前、激しい脳震盪のうしんとうで視界がぐにゃりと歪み、体の自由が一切利かなくなる。


(な、にが……だれ、だ……?)


霞む視界の中、冬真が見たのは、机の上のアタッシュケースに手をかける「自分と同じくらいの小さな影」だった。


翡翠の指先は、すでに手持ちの細い金属棒を鍵穴に差し込んでいる。冬真の意識が朦朧としているわずか数秒の間に、カチ、カチ、と小気味よい音が響き、厳重なロックがあっさりと解錠された。


翡翠は迷いのない手つきで中の書類を引っこ抜き、懐から出した別の書類を滑り込ませて、再びアタッシュケースを施錠する。


「……よし」


小さく呟いた翡翠は、転がっている冬真を一瞥することもせず、机を蹴ってツバメのように天井裏の闇へと飛び上がった。パタン、と通気口の蓋が閉まる。


それから十数秒後。


「う、うう……」


ようやく激しい眩暈めまいから回復した冬真が、這い上がるようにして上半身を起こした。

部屋の中には、気絶した自分の護衛と、何事もなかったかのように机の上に鎮座するアタッシュケースがあるだけだ。


部屋の鍵はかかったまま。窓も閉まっている。


「な、今のは、夢……? いや、誰かがいたはずだ……幽霊か……!?」


冬真はガチガチと歯を鳴らし、恐怖で全身から冷や汗を流した。あまりの早業と、襲撃者の「顔」すらまともに見られなかった恐怖のせいで、彼にはそれが誰の仕業なのか、確かめる術すら残されていなかった。




さらに五分後。親族会議が再開された。


神城一族の重鎮たち、そして上座には、あの絶対的な怪物の長男・一馬が冷徹な目で座っている。


「――以上が、私が今月、透亜の派閥から奪い取った流通会社の買収実績です! 一馬兄さん、ご覧ください!」


冬真は先ほどの恐怖を必死に隠し、手柄を焦るあまり、自信満々にアタッシュケースから書類を取り出し、一馬の前へと差し出した。


一馬は無表情のまま、その書類に目を落とす。

次の瞬間、一馬の周囲の空気が、凍りつくように冷たくなった。


「……冬真。これは何だ」


「え? 何って、買収の成功報酬と、神城ロジスティクスの権利書ですが……」


「お前は、我が神城財閥に『一兆円の違法負債をすべて引き受ける』という泥を塗るために、この会議に出席したのか?」


「へ……?」


冬真が慌てて書類を覗き込む。そこに書かれていたのは、買収の証明などではなく、冬真の個人資産と派閥の全権利を担保に、ロジスティクス社の負債をすべて肩代わりするという、最悪の同意書だった。


しかもそこには、冬真自身の実印が(先ほど翡翠が書類をすり替える際、冬真の机から盗んだ認め印で)鮮やかに押されている。


「な、何だこれは!? 違う、私はこんな書類にサインなどしていない! 罠だ、透亜の罠だ!!」


会議室に、冬真の情けない悲鳴が響き渡る。


会議室の最果て、末席に座る透亜は、小さく震えながら怯えた声を上げた。


「そ、そんな……冬真兄さん、僕のせいにしないでください……。僕はただ、お兄さんに会社の相談をされたから、お渡ししただけなのに……」


ハンカチで目元を拭い、今にも泣き出しそうな子供の演技をする透亜。


一馬は、見苦しく暴れる冬真を一瞥し、冷酷に言い放った。


「冬真。お前の派閥の資産はすべて没収、査問会にかける。連れて行け」


「嫌だ! 離せ! 違うんだ、一馬兄さん!!」


冬真は神城の警備員たちに引きずられ、文字通りギャフンと言わされながら、完全に失脚していった。


一馬はチラリと、末席で怯える透亜を見たが、すぐに興味を失ったように目を逸らした。まだ、透亜の仕掛けた罠だとは気づいていない。完全なる勝利だった。




その日の夜。


離れの自室に戻った透亜は、ベッドの上でクッションを抱えながら、お腹を抱えて笑っていた。


「あはははは! 見た? 翡翠! あの冬真兄さんの顔! まるで世界が滅んだみたいな顔をして連れて行かれたよ!」


「見ました! すっごくマヌケな顔でしたね、透亜様!」


翡翠もまた、ベッドの横の床に座り込み、楽しそうに笑っている。


昼間の完璧な連係プレーの緊張感はどこへやら、今の2人は、ただ悪だくみに大成功した同じ歳くらいの子供同士だった。


「本当に、君のおかげだよ。あの短い時間で、冬真兄さんの護衛を気絶させて書類をすり替えるなんて、君じゃなきゃ絶対に無理だった」


透亜は笑うのをやめ、ベッドから身を乗り出して、翡翠の真っ直ぐな瞳を見つめた。


その顔には、大人たちを騙す「完璧な笑顔」ではなく、少し意地悪で、けれど心から楽しそうな微笑みが浮かんでいる。


「ふうん……やっぱり君は、いいね。これだけ役に立つんだから、ずっと僕のそばで、僕のためにその力を使いなよ」


一見すると、わがままな子供が「お気に入りのおもちゃ」を独り占めしたがっているかのような、可愛いらしい言い草だった。


だが、その瞳の奥深くには、言葉以上にどす黒く、絶対に彼女を手放さないという狂気じみた独占欲がギラギラと渦巻いている。本性を隠す仮面は、さらに巧妙に、歪に進化していた。


けれど、翡翠はその言葉の裏にある執着を恐れるどころか、自分が必要とされたことがただ嬉しくて、くしゃりと無邪気に破顔した。


「はい! もちろんです! 私はずーっと透亜様の後ろにいますから、どこに行くときも、どんな悪い人をやっつけるときも、一緒です!」


翡翠はそう言って、透亜の小さな手を両手でそっと握りしめた。


その手の温もりに、透亜の胸の奥の冷たい氷が、少しだけ溶けていくような気がした。


誰も信じられない魔窟の中で、この手を握る少女だけは、自分のすべてを肯定してくれる。


歪で、けれど誰よりも強固な二人の絆が、今夜、神城の闇の中で確かに深まったのだった。


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