第二章 二人だけの甘い秘密
あの暗殺未遂事件から、数ヶ月が経った。
神城透亜の日常は、表向きは何一つ変わっていない。相変わらず一族の大人たちには「無害で優秀な末息子」の仮面を被り、裏では彼らを蹴落とすためのチェス盤を組み立てる日々。
ただ一つ、明確に変わったのは、背後に控える護衛の少女――翡翠の存在だった。
「透亜様、本日のアフタヌーンティーのスコーンです! 厨房から運ばれてくる途中、怪しい気配はありませんでしたが……念のため!」
離れのテラス席。
翡翠は真面目な顔で、長袍の袖から銀のマイ箸のような細い金属の棒を取り出すと、スコーンにぶすりと突き刺した。
銀が変色しないかを確かめているのだ。狐狸に伝わる、古典的だが確実な毒見の方法である。
「……翡翠。それ、ジャムを塗る前にやらないと、ブルーベリーの酸味で銀が曇るって前にも教えたよね?」
透亜は呆れたように、頬杖をついて言った。
「あ」
翡翠はピタッと動きを止め、金属の棒をじっと見つめた。そして、
「わ、忘れてました!」
と、バツが悪そうにこめかみを指先でガリガリと掻く。
「ジャムが美味しそうだったので、つい先に塗っちゃいました……へへ、次からは気をつけます!」
翡翠の年齢は、狐狸の秘匿性ゆえに正確には分からない。しかし、小柄な体躯やすっきりとした顔立ちは、十歳の透亜と並んでもほとんど同じ年齢にしか見えなかった。
そんな自分と同じくらいの子供が、仕事モードの時は大人を容易くねじ伏せるのに、プライベートではこうして分かりやすくチョロい。そのアンバランスさが、透亜にはたまらなく可笑しかった。
透亜はため息をつきながら、手元の紅茶に口をつけた。
もちろん、この紅茶も翡翠がすでに毒見済みだ。彼女は匂いだけで大抵の劇薬を嗅ぎ分けられる。
十歳の透亜にとって、この神城の屋敷で出される食事は、常に「死のリスク」を孕むものだった。
親族の誰が、どのご飯に何を仕込むか分からない。だから以前の透亜は、極端に少食を装い、安全が確認できたものしか口にしなかった。
しかし、翡翠が来てからは違った。
「はい、毒見完了です! 本日も異常なし、美味しくいただけます!」
翡翠が、嬉しそうにパッと表情を輝かせる。
彼女が「大丈夫」と言ったものは、本当に安全なのだ。あれ以来、いくつかの小さな「悪意(盛られた下剤や微毒)」を、翡翠はすべて未然に防いでみせた。
「……しょうがないな。これ、半分あげるよ。君、本当はそれが食べたいんでしょう」
透亜は、毒見で少し不格好に割れたスコーンの片方を、翡翠に差し出した。
「えっ!? 本当にいいんですか!?」
翡翠の目が、一瞬でらんらんと輝いた。
「護衛がおやつをいただくなんて……って思うんですけど、透亜様がくれるお菓子、すっごく美味しいから大好きです! いただきます!」
冷ややかに「僕の命令だから」と言い放とうとした透亜だったが、あまりにもストレートに喜ばれて拍子抜けしてしまった。
本当に、この数ヶ月で分かったことだが、翡翠は甘いものに目がない。隠密の気配を完全に消しているつもりでも、洋菓子を見ると瞳の奥がわかりやすくソワソワとしだすのだ。
翡翠はスコーンを受け取ると、小さな両手で大事そうに持って、実においしそうに頬張った。
「んむ……美味しい……! さすが神城家のご飯です!」
その顔は、泥沼のような神城家にはおよそ不釣り合いなほど、底抜けに無邪気で真っ直ぐだった。
透亜はそれを見ながら、ふっと小さく、本物の笑みを漏らした。
大人たちに向ける「完璧な笑顔」ではなく、少し意地悪で、けれど穏やかな、十歳の子供らしい笑み。
「……ねえ、翡翠。僕、今度の親族会議で、冬真兄さんの派閥の資金源を一つ、潰そうと思ってるんだ」
透亜は、紅茶のカップを置きながら、ごく自然に「自身の企み」を口にした。
他の誰にも言えない、一族を破滅させるための策略。
それを、透亜はこの自分と同じくらいに小さな護衛にだけは、隠さず話すようになっていた。
翡翠はスコーンをもぐもぐと咀嚼し、ゴクリと飲み込んでから、不思議そうに首を傾げた。
「しきんげん……? よく分かりませんが、その悪いお兄さんをやっつけるんですね! 私は何をすればいいですか? 夜にお部屋に忍び込んで、大切なものを内緒で持ってきちゃいますか?」
「脳筋な提案はやめて。泳がせて、自滅させるんだよ。君には、そのための『駒』をいくつか配置してほしいだけ」
「こま? はーい、透亜様の言う通りに動きます!」
翡翠は頭を使う事はあまり得意にはしていないようだった。透亜がどれほど冷酷な計画を立てていようが、彼女にとっては「透亜様の言うこと」がすべてであり、そこに善悪の判断は介在しなかった。
透亜は、その絶対的な肯定感に、奇妙な居心地の良さを感じていた。
誰も信じられないこの魔窟で、自分の「黒い本性」をすべて見せても、変わらずに隣にいてくれる存在。
「あ、でも……冬真お兄さんの上には、もっと強そうなお兄さんがいますよね? あの一馬様っていう人……」
翡翠が思い出したように、スコーンのクズを指先でちょんちょんと拾いながら言った。
神城家長男・神城一馬。二十五歳。
すでに財閥の主要子会社の社長を任されており、冬真のような子供の小競り合いとは次元の違う、本物の権力と冷徹さを持った男だ。透亜にとって、現時点で絶対に敵対してはならない、神城の頂点に最も近い怪物。
「一馬兄さんは、まだ僕のことなんてただの羽虫としか思っていないよ。
だからこそ、今のうちに冬真兄さんの手足をもいでおくんだ。一馬兄さんが僕に気づく頃には、もう手遅れにしてみせる」
十歳の子供とは思えない、昏い野心が透亜の瞳に宿る。
普通の子供なら怯えそうなその視線を、翡翠は「へえ〜」と感心したように見つめ、それからにこっと笑った。
「透亜様は本当に頭が良いですね! よし、一馬様に見つからないように、私ももっと上手に隠れます!」
その時。
カツン、と遠くの回廊から、硬い靴音が響いた。
誰かが離れに近づいてくる。
一瞬にして、二人の空気が切り替わった。
翡翠の顔からおやつを食べていた弛緩が消え、鋭い隠密の気配が戻る。彼女は音もなく透亜の斜め後ろへとステップし、長袍の裾を正して、直立不動の「無機質な護衛」へと擬態した。
その姿は、先ほどまで「美味しい!」と笑っていた少女と同一人物とは思えないほどだ。
透亜もまた、顔に完璧な「愛想のいい仮面」を貼り付ける。
「おや、透亜様。こんなところでお茶会ですか」
現れたのは、本家の執事だった。
「うん。お天気が良かったから。何か用事かな?」
透亜は、庇護欲をそそる愛らしい笑顔で振り返る。
先ほどまで二人だけの世界にあった、甘く歪な空気は、一瞬にして神城の冷徹な日常へと塗り替えられた。
「いえ。お見かけしましたので、ご挨拶を、と」
「そう。」
執事の背中を見送る、透亜の背後で控える翡翠の手元には、まだほんのりと、スコーンの甘い匂いが残っている。
誰も知らない。見た目は同じくらいの幼い二人が、この完璧な人形の庭の裏側で、どれほど深く、互いの存在を刻み込み始めているかを。




