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第一章 最初の「試し」と、無邪気な牙

「翡翠、僕、あのお花が欲しいな」


出会いから三日後。神城の広大な敷地の最果て、一般の者が立ち入ることを禁じられた「断崖の庭」で、神城透亜は小高い崖の上を指差した。


切り立った岩肌の頂上近く、わずかな隙間に、鮮やかな深紅の百合が咲いている。大人が命綱をつけても滑落しかねない、危険な悪路だ。


透亜は、いつもの完璧に可憐な微笑みを浮かべたまま、内心で冷酷に舌を出していた。


(さあ、どうする? 泣いて許しを請うか、それとも僕の機嫌を取るために、他の大人みたいに『危険ですから』と、もっともらしい言い訳を並べるか?)

これが透亜の仕掛けた、最初の「洗礼テスト」だった。


初日に「試してあげる」と宣言した通り、この三日間、透亜は翡翠にさまざまな無理難題をふっかけていた。しかし、この少女は音を上げるどころか、文字通りすべてを「斜め上」の身体能力で突破してくる。


「わあ、綺麗な百合ですね! 透亜様にお似合いです!」


翡翠は躊躇するどころか、嬉しそうに目を輝かせた。

彼女は纏っていた真っ黒な長袍ちゃんぱおの裾を帯に挟み込み、動きやすいように太腿のあたりまで捲り上げる。


「ちょっと待っててくださいね、今すぐ!」


そう言うが早いか、翡翠は地面を蹴った。


(えっ――)


透亜の目が見開かれる。


翡翠は、ほぼ垂直に近い岩肌を、まるで平地でも走るかのような速度で駆け上がっていった。突起に指先をかけ、反動だけで数メートル跳ぶ。その身のこなしは、人間というよりは完全に、重力を無視した猫科の猛獣のそれだった。


バサバサと、驚いた鳥たちが崖から飛び立つ。


わずか数十秒の後、翡翠は最高峰の百合を綺麗に手折り、そのまま躊躇なく崖から飛び降りた。


空中を滑空するように数回転し、ト、と音もなく透亜の目の前に着地する。衣服の乱れすら、ほとんどない。


「はい、どうぞ! 傷つけずに採れました!」


差し出された深紅の百合。翡翠の顔には、大仕事を終えた達成感すらなく、ただ主の役に立てたことへの純粋な喜びだけが満ちていた。


透亜は、百合を受け取りながら、引き攣りそうになる頬の筋肉を必死で抑え込んだ。


(バケモノめ……。狐狸の精鋭とは聞いていたけれど、この身体能力は異常だ。それに、本当に僕をからかう意図がない……それが一番気に入らない)


「……ありがとう、翡翠。本当にすごいんだね。大切にするよ」


「はい! お役に立てて嬉しいです!」


くしゃりと破顔する翡翠。


透亜の胸の奥で、どす黒い独占欲と、それを上回る苛立ちがチリチリと音を立てる。これほど思い通りにならない「おもちゃ」は初めてだった。どんなに意地悪をしても、すべてが彼女の純粋さに吸い込まれて消えてしまう。


その時だった。


「――相変わらず、薄汚い狐を連れて、おままごとごっこか? 末弟おとうと


低く、傲慢な声が静寂を破った。


振り返ると、手入れされた芝生を踏み荒らしながら、数人の男を引き連れた少年が歩いてきていた。


神城財閥の第二継承権を持つ、透亜の兄――神城冬真とうま、十二歳。


その背後には、彼に配属されている別の「狐狸」の護衛が、威圧的に控えている。


透亜は一瞬で、頭の中のスイッチを切り替えた。


「あ、冬真兄さん。こんにちは。お散歩ですか?」


小首を傾げ、庇護欲をそそる「無害な子供」の仮面を完璧に被る。


「フン、お前の顔を見るだけで反吐が出る。じいさん達の気まぐれで神城の籍を貰っただけの純血でもない末っ子が。そんな小汚い、男か女かも分からんガキを護衛にしているあたり、お前の無能さがよく分かるというものだ」


冬真は容赦なく、透亜の痛いところを突いてくる。

神城家における序列の低さ、そして自分の出自。それは十歳の透亜にとって、いつ命を奪われてもおかしくないという「死刑宣告」と同義だった。


「申し訳ありません、冬真兄さん。僕が未熟なばかりに、不快な思いをさせてしまって」


透亜は深く頭を下げた。


仮面の下で、奥歯が軋むほど噛み締められる。殺してやる。いつか必ず、この傲慢な男を奈落に突き落としてやる。脳内で、冬真を破滅させるための残酷な計画が、また一つ構築されていく。


だが、その時。


透亜の視界の端で、翡翠の纏う空気が、一瞬で「変質」したのが分かった。


いつもの気の抜けた雰囲気が完全に消え失せ、冷徹なまでの「殺気」が彼女の身体から立ち上る。翡翠の手が、長袍の懐に隠された暗器へと、音もなく伸びていた。彼女の目は、主を侮辱した冬真の喉元を、的確にロックオンしている。


(しまっ――!)


透亜は血の気が引くのを感じた。ここで翡翠が冬真を傷つければ、名分は向こうに立つ。透亜は確実に処刑される。


「翡翠、下がって」


透亜は、冬真に聞こえないほどの低い声で命じた。

翡翠はピクリと反応し、不満そうに、しかし絶対的な服従の意志をもって、ゆっくりと手を引いた。


「チッ、気味の悪いガキどもだ。せいぜい、次の親族会議まで生きていろよ」


冬真はそれだけ吐き捨てると、鼻で笑いながら去っていった。





その日の夜。


広大な神城の本邸から少し離れた、透亜に与えられた離れの自室。


窓の外は、月明かりすら遮る深い闇に包まれていた。


透亜はベッドの上に座り、昼間、翡翠が採ってきた百合の花を花瓶に挿したまま、じっと見つめていた。


昼間の冬真の言葉が、呪いのように耳にこびりついている。


(誰も信じられない。あの狐の娘だって、いつ僕を裏切るか分かったものじゃない。僕の周りは、どいつもこいつも……)


その時、密閉された室内の空気が、わずかに揺れた。


カサリ、と微かな擦過音。窓の鍵が、外から極めて巧妙な手際で、音もなく解錠される。


透亜の心臓がドクン、と跳ね上がった。


(刺客……!? 冬真兄さんか、それとも他の親族か――)


暗闇の中、窓から侵入した黒い影が、音もなくベッドの透亜へと肉薄する。月光を浴びて、鋭いナイフの刃がギラリと光った。


十歳の子供の力では、避けることも、叫ぶこともできない。死の恐怖が、透亜の身体を硬直させる。


(ここまで、か――)


透亜が目を瞑った、まさにその瞬間。


「――そこまでです」


冷徹な、しかし聞き覚えのある声が闇を切り裂いた。


次の瞬間、凄まじい衝撃音が室内に響く。


透亜が目を開けると、月光の逆光を浴びて、チャイナ服の裾が美しく翻るのが見えた。


翡翠だった。


彼女は刺客のナイフを持つ手首を正確に掴み、そのまま人間とは思えない腕力で、男の巨体を床へと叩きつけていた。


「がはっ……!?」


刺客が息を詰まらせる。翡翠は容赦なく、男の顎に鋭い膝蹴りを叩き込み、一瞬で意識を刈り取った。

信じられないほどの早業。ものの数秒の出来事だった。


「透亜様、お怪我はありませんか!?」


刺客を無力化するや否や、翡翠はいつもの、少し慌てたような少女の顔に戻って透亜に駆け寄ってきた。


透亜は激しく上下する肩を抑えながら、床に転がる刺客と、翡翠を交互に見た。


全身の血が冷たくなるような恐怖のあと、すぐに、激しい「疑心暗鬼」が首をもたげる。


「……翡翠。君、どうしてここにいるの? まるで、僕が襲われるのを知っていたみたいじゃないか」


透亜の声は、昼間の愛想のいいそれとは違い、低く、冷ややかに響いた。


「まさか、僕を助けて恩を売るために、君がこの刺客を手引きした……なんて言わないよね?」


「えっ!? ち、違います!」


翡翠はぶんぶんと首を振った。


「昼間、あの冬真様の連れていた護衛の足音……あれ、完全にこちらの離れの『下見』の歩き方だったんです。それに、すれ違いざまにあの護衛が、私の制服(長袍)を見て一瞬だけ舌打ちをしました。神城の護衛同士なら、身内を警戒する必要はありません。つまり、今夜『表に出せない仕事』があるから、私が邪魔だったんです」


翡翠はベッドの前に膝をつき、透亜の顔を真っ直ぐに見上げた。


「だから私、夕食のあとすぐに天井裏に潜んで、ずっとお庭を見張っていました。そうしたら、案の定この男が、裏の防犯カメラの死角を突いて侵入してきたので……。嘘じゃないです! 主に最初から嘘をつくのは寝覚めが悪いって、初日に言ったじゃないですか!」


「……っ」


透亜は息を呑んだ。


昼間の、ほんの一瞬のすれ違い。冬真の言葉に意識を奪われていた自分とは違い、この少女は護衛の足音と微かな視線、舌打ちだけで、今夜の襲撃を完全に予測していたというのか。


そんなはずはない。自分はあの時、完璧に周囲を観察しているつもりだったし、内心では冬真をどう殺すか考えていただけだ。


十歳の自分が「見落としていた」現実を、この少女は圧倒的なプロの観察眼で拾い上げていた。


(なんだ、この生き物は……。ただの天然のバカかと思っていたのに……)


透亜の胸の奥で、どす黒い感情がふつふつと湧き上がる。

しかしそれは、昼間のような不快な苛立ちではなかった。


(なるほど…。これは使えそうだ。これほど裏表がないおもちゃが、僕の専属護衛というのは、都合がいい…。)


透亜の唇が、ゆっくりと歪んだ。


それは、大人たちを騙してきた人形の笑顔ではない。初めて他人に向けられた、本物の「腹黒い執着」の笑みだった。


「ふうん……。いいよ、翡翠。合格だ」


透亜はベッドから身を乗り出し、翡翠の顎を小さな手で、少し強引にクイと持ち上げた。至近距離で、冷徹な瞳が、翡翠の素朴な瞳を射抜く。


「君がそこまで僕を守るって言うなら、僕の生涯をかけて、君を僕だけの『従順な犬』にしてあげる。いつか君がその呑気な顔を歪めて、僕を裏切るか、それとも本当に僕の盾として死ぬか……特等席で見物させてよね」


仮面を完全に脱ぎ捨てた、悪魔のような囁き。


しかし、翡翠は言葉の意味があまり分かっていないのか、ただ自分の忠誠が認められたことが嬉しいようで、くしゃりと無邪気に破顔した。


「はい! よく分かりませんが、精一杯お守りしますね、透亜様!」


こうして、広大な神城の屋敷の片隅で、歪な主従の夜が更けていくのだった。


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