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第六十章 揃ってしまったパズルのピース

いつもありがとうございます!


今回は初恋の独占欲が爆発している二人です。


お楽しみいただけたら幸いです。

カチャ、と扉の向こうで食器が片付けられる微かな音が響いた。


お茶会が終わりに向かっていることを察し、翡翠はハッとして、涙を拭っていた晋のハンカチを大急ぎでスカートのポケットへと押し込んだ。


まだ赤みの残る目元を伏せ、いつもの「完璧な護衛の壁」になりすます。


その直後、サロンの重厚な扉が開いた。


「透亜様、本日は本当に楽しいお時間をありがとうございました」


「いえ。花菱さん、お気をつけて」


出てきた透亜は、極めて紳士的だが温度の低い、非の打ち所のない「仮面」を貼り付けている。


その瞬間、廊下の影に佇んでいた晋が、すっと音もなく二人の前に歩み出た。


「……花菱様。お久しぶりでございます」


晋は麗しい一礼を見せ、さも今ここに用事があって到着したかのように、自然な笑みを浮かべた。


「では、失礼します。――翡翠」


名前を呼ばれ、翡翠が小さく頷く。


それは周囲に対して「九条の執事(晋)が、神城の護衛(翡翠)に業務連絡、あるいは先日の忘れ物の件で声をかけただけ」という完璧なアリバイ作りだった。


透亜の鋭い視線が、一瞬だけ晋に向けられる。


晋はそれを涼しげな三日月の目で受け流すと、静かにその場を去っていった。







その後、サロンの片付けを終え、桜子の送迎車をお見送りした神城邸への帰路。


「……ふぅ」


透亜は送迎車の座席に深く身体を預け、やれやれ、とばかりに小さく溜息を吐き出した。


脳内では、一馬兄さんを黙らせつつ、桜子という「純粋な無邪気さ」をどう穏便に排除するか、200通りの計算式が目まぐるしく更新され続けている。


ふと、透亜は隣の席で、不自然なほど窓の外を見つめ続けている護衛に視線を向けた。


「……晋の奴は、何だったんだ」


「……先日の、忘れ物を届けてくれたのです」


翡翠は顔をはっきり見られないように――泣いたせいで、まだ目が赤く腫れているかもしれないから――窓硝子に視線を固定したまま、抑揚のない声で応えた。


「忘れ物……?」


透亜は微かに眉をひそめ、訝しげな視線を翡翠の横顔に這わせる。


翡翠の行動ログは脳内で完全に把握しているはずだが、何か、ミリ秒単位の計算から零れ落ちる「不協和音」のような違和感が、透亜の胸をざわつかせた。






神城邸に帰宅し、私室へと戻る。


翡翠は主君の前に立ち塞がらないよう注意深く気配を消しながら、透亜が脱いだ学園の制服を受け取り、クローゼットへと仕舞おうとした。


――その時だった。


翡翠のスカートのポケットから、ひらり、と一枚の布地が滑り落ちた。


「っ……」


翡翠が息を呑むより早く、床に落ちたそれを、透亜が何気なく拾い上げた。


「……?」


拾い上げた瞬間、透亜の指先が、奇妙な『違和感』を感知する。


それは、神城家の人間が使う最高級のシルクでも、翡翠が持つ無骨な綿のものでもない。


上質な、けれど明らかに男物のハンカチ。


そして何より――。


「……冷たいな」


透亜の指先が触れたその布地は、不自然に湿っていた。


ただの水分ではない。


ハンカチの繊維の奥に染み込み、まだ完全には乾ききっていない、微かな、けれど確かな『涙』の重み。


脳内計算速度ミリ秒の超天才の頭脳が、その濡れた布地から、凄まじい速度で「直近のログ」を逆算していく。


学園の放課後。


お茶会の最中。


扉の外の静かな廊下。


今、目の前にいる目尻が赤い翡翠。


そこに現れた、晋。


今、手にしているこの濡れたハンカチ。


「……っ」


すべてのパズルのピースが最悪の形で噛み合った瞬間、神城透亜の脳内で、システムエラーを告げる激しい警報が鳴り響いた。


「翡翠」


透亜の声から、いつもの冷徹な余裕が完全に消失する。


掴んだハンカチを強く握りしめ、怒りと、焦燥と、言葉にできない嫉妬に狂いそうな瞳で、彼は目の前の少女を見据えた。


「翡翠……晋の前で、泣いてたのか……?」


「……っ」


翡翠の肩が大きく跳ねる。


顔を伏せ、気配を殺す。


いつもの「完璧な盾」の無表情を取り繕おうとするが、見透かされた動揺は隠しようもなかった。


「……ただの、目の乾燥によるものです。


お気になさらないでください」


「嘘をつくな!!」


室内に、透亜の怒声が響き渡った。


いつも静かに、冷徹に論理を操る主君が、これほど感情を剥き出しにして叫ぶことなど、かつて一度もなかった。


「お前が、あの男の前で、僕の知らないところで、……涙を流していたというのか……!」


透亜の脳内は、嫉妬と、焦りと、激しい自己嫌悪で完全にオーバーヒートを起こしていた。


(何がミリ秒の脳内計算だ。何が代替ルートの確立だ)


自分のせいで翡翠がどれほど深く傷つき、自分を押し殺して廊下に立ち尽くしていたのか。


そして、その彼女を一番近くで救い上げ、涙を受け止めたのが、自分ではなくあの晋だったという、耐え難い現実。


「主君としての領域」を、他の男にあっさりと踏み越えられた無力感が、透亜の心臓を容赦なく抉り取る。


「……翡翠。君は、僕の護衛だ」


透亜は一歩、また一歩と翡翠との距離を詰めた。


怒っているような、でも、今にも泣き出しそうな、そんな必死な目で彼女を見つめる。


「僕は君に、いつも笑っていてほしい。


……いや、笑っていなくたっていい。


笑っていてほしいけれど、翡翠が泣いちゃいけないわけじゃない。


だから――」


透亜は翡翠の、硬く握りしめられた両手を見つめた。


「泣く時は、僕の前にしろ……!!」


「?!」


あまりにも不合理で、けれどあまりにもド直球な主君の本音。


翡翠は息を呑み、ぽかんと顔を上げた。


「別の男の前で泣くな。


僕の見えないところで、そんな弱さを見せるな。


言いたいことがあるなら言え!


何でも、何でも聞くから……だから、僕を拒絶するな……!」


懇願。


それは、絶対に傷つかないはずの絶対王者が、形振り構わず一人の女の子に差し出した、切実な願いだった。


「透亜、様……」


透亜のあまりの必死さに、翡翠の頭は混乱の極みに達していた。


けれど、その切実な声が、優しさが、せっかく止まっていたはずの彼女の涙腺を、再び容赦なく刺激してしまう。


(だめ。


これ以上、汚いところを見せちゃだめなのに)


一度決壊した涙は、もう止まらない。


目の前がにじみ、ぽろぽろと雫が頬を伝う。


そして、心の奥底の一番深い場所に、鍵をかけて閉じ込めておいたはずの「本音」が、涙と一緒にポロッと溢れ出てしまった。


「……だって……」


「?」


「……だって、透亜様は、私のなのに……」


消えそうなほど、か細く、けれど確かにその空間に響いた、小さな小さな「わがまま」。


言葉の正体も、それがどれほど破滅的な響きを持っているかもわからないまま、本能だけで紡がれた、最高の独占欲。


「な……」


透亜の目が、限界まで見開かれる。


瞬間、自分の口走った言葉の破壊力に、遅れて翡翠自身が気づいた。


(な、何という事を……!!!


私は主君に向かって、なんという不埒な我が儘を……!!)


恥ずかしさと、いたたまれなさと、これ以上涙を見られたくないという限界が同時に押し寄せ、翡翠のキャパシティは完全に崩壊した。


「失礼いたします……!!」


「あ、おい、翡翠……っ!」


呼び止める透亜の声を置き去りにし、翡翠は狐狸特有の圧倒的な身体能力で、パッとその場から姿を消した。


窓から逃げたのか、天井裏へ消えたのか、気配すら一切残さない完璧な逃走劇だった。


――静まり返った主室。


手元に残された、少し冷たい晋のハンカチ。


「……え……?」


部屋に一人ぽつんと取り残された神城透亜の脳内は、今度こそ完全に融解(メルトダウン)した。


一馬兄さんの政略結婚の計算も、花菱財閥とのインフラ利権も、今後の200通りの戦略も、すべてが一瞬で脳内から消し飛んだ。


心臓がかつてない爆音を立てて波打ち、首筋から耳の裏までが、自分でもわかるほどカッと赤くなっていく。


翡翠が、やきもちを妬いている…!


その事実だけで頭がいっぱいだった。


「あいつは僕を、いや、僕はあいつを……っ」


生まれて初めて「論理的思考」が1ミリも機能しなくなり、超天才は部屋の真ん中で頭を抱えてしゃがみ込むしかなかった。



最後までお読みいただきありがとうございました。


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