第五十九章 境界線
いつもありがとうございます!
今回はせつないお話です。
少女漫画を読むつもりでお読み下さい!
透亜の通う名門学園の放課後は、静かに、けれど確実に「桜色」に侵食されつつあった。
透亜とは異なる名門女子校に通う花菱桜子は、放課後になると、その可憐な制服姿のまま、まるでおひさまのような無邪気さで透亜のいる学園へとやってくる。
神城グループと花菱財閥の結びつきは極めて強く、兄・一馬が勝手に用意した「婚約者候補」というレールを無下にすることは、現段階の透亜の脳内計算をもってしても容易ではない。
透亜は、桜子を傷つけることなく、かつ期待を持たせない「極めてビジネスライクで非の打ち所のない対応」に終始し、水面下でこの婚姻話を平和的に御破算にするための200通りのルートを計算し続けていた。
だが、そんな主君の葛藤や焦燥など露知らず、桜子はいつも100%の善意と愛らしさを携えて、サロンにいる透亜の隣に座るのだった。
二人のお茶会の始まりに、翡翠はいつもの制服を身に纏い、完璧に整えられたポニーテールを揺らして給仕を行う。
丁寧に紅茶を淹れ、桜子が持ってきた綺麗な焼き菓子をお皿に並べる。
「ありがとう、翡翠さん!
いつも丁寧にいれてくださって、本当に嬉しいわ」
桜子は悪気なく、ひまわりのように眩しい笑顔を向けてくれる。
翡翠は「ありがとうございます。」と一礼し、自らの役割を終えると静かに部屋を出る。
「では、私は外で控えております」
重厚なサロンの扉が閉まると、学園の長い廊下にはしんと冷たい静寂が降りる。
扉を隔てた向こう側からは、桜子の楽しそうな笑い声や、それに静かに応える透亜の低い声が、かすかに漏れ聞こえていた。
静かな廊下で、翡翠は直立不動のまま、制服のスカートの裾をぎゅっと握りしめていた。
(私は護衛。透亜様の盾。
ここでの時間は、主君の未来のための大切な政略……)
頭ではそう、システムのように完璧に割り切れているはずだった。
この時点では、まだ。
そんな、扉の外にポツンと立ち尽くす翡翠の姿を、少し離れた廊下の陰から見守る者たちがいた。
「神城の奴、本当にあのお嬢様と結婚しちゃうのかな……」
雛子は今にも泣きそうな顔で、拳を握りしめて翡翠を心配そうに見つめている。
だが、晃や凪、律、そして綜一郎は、静かに目を伏せるしかなかった。
彼ら自身もまた、大財閥や名家に生まれた身。
いつかは「家」のために愛なき婚姻を結ぶ運命にあることを、誰よりも重々理解しているからだ。
九条麗華もまた、身を引いた立場として扇子を握りしめたまま胃がキリキリするような思いでヤキモキしていた。
透亜を問い詰めたい。
けれど、九条の娘としての理性が「これは神城と花菱の、政治なのだ」と彼女の口を噤ませる。
安易な同情も、介入も、今の翡翠にとってはただの刃にしかならないことを、全員が痛いほど分かっていた。
「これ以上見ているのは耐えられない」と雛子たちも胸を痛めてそっとその場を立ち去った。
「透亜様、今度の週末はね、新しくできた美術館に同行していただけないかしら?」
「花菱さん。
その日はあいにく、私的なシステム保守の予定が入っておりまして、申し訳ありません」
そっけない透亜の対応にも、桜子は「まぁ、お忙しいのね! じゃあ、来週はどうかしら?」と健気に食い下がる。
その完璧なお嬢様としての柔らかい空気、指先まで丁寧にお手入れされた桜色の爪、ふわりと漂う甘い女の子らしい匂い。
すべてが、扉の向こうで完璧な「影」として立つ翡翠の心を、鋭く、静かに削り取っていった。
(私は、何を考えているのだろう)
給仕を終えて廊下に出た瞬間、翡翠は冷たい壁に背中を預け、小さく呼吸を乱した。
扉の向こうから聞こえる楽しげな笑い声が、今の翡翠には、鼓膜を直接針で刺されるように痛い。
これまで、生きるか死ぬかの裏社会を這いずり回り、ただ「無機質な盾」として生きるよう叩き込まれてきた。
そんな自分の中に、芽生えてしまった感情。
醜く、真っ黒で、自分を塗り替えられていくような感情。
「……っ」
翡翠は自分の胸元を強く、壊れそうなほどに握りしめた。
それは、生まれて初めて知る、ドス黒くて醜い独占欲。
そして、果てしない「嫉妬」という名の怪物だった。
悪意など1ミリもなく、自分にも優しくしてくれる純粋な良い子である桜子に対し、ほんの一瞬でも「いなくなればいい」と思ってしまった。
その事実が、翡翠に激しい自己嫌悪を抱かせる。
なんて浅ましくて、汚いことを考えているんだ、私は。
「初恋」という感情の正体が分からない翡翠にとって、その胸に渦巻く黒い濁流は、恐怖でしかなかった。
じわじわと、視界が涙で滲みそうになる。
泣いてはいけない。
無駄な水分を排出しては、周囲への警戒能力が鈍る。
そう自分に言い聞かせ、必死に天井を見上げて涙をこらえる翡翠の肩は、可哀想なほどに小刻みに震えていた。
静まり返った放課後の長い廊下の向こうから、カツ、カツ、と静かな足音が近づいてきた。
翡翠はハッとして、瞬時に涙をひっこめ、いつもの護衛の顔を貼り付けようと顔を伏せる。
だが、その目の前に落ちたのは、見慣れた、けれど今は酷く切なく響く長い影だった。
「よぅ」
声をかけたのは、九条の執事――晋だった。
学園を包む「婚約者」の噂のなかで、一歩引いて拳を握りしめ、健気に耐えている翡翠の限界を、野生の勘を持つ晋だけは見抜いていた。
「……晋。
私は、仕事中……」
掠れた声で、なおも「完璧な護衛」を演じようとする翡翠。
晋は黙って、翡翠の隣で立ち止まると、手を頭の後ろに置いて壁に寄りかかった。
「…」
「…」
しばらく沈黙する二人。
扉の向こうからは、桜子と透亜の話し声が聞こえてくる。
「…あのさ、ここでは、泣いたって死なないんだから。
そんな顔するくらいなら思いっきり泣けば?」
「っ……」
「お坊ちゃんには…黙っててやるから」
裏の世界で、常に「涙=死」として生きてきた二人だからこそ響く、冷たくてあまりにも優しい言葉。
絶対に泣くまいと張り詰めていた、翡翠の最後の境界線が、その言葉によって音を立てて決壊した。
ぼろっ!と零れ落ちる涙。
泣きたくないのに、涙が、止まらない。
そんな翡翠に対し、晋は何も言わず、無言のままポケットから清潔な男物のハンカチを取り出し、彼女の手に握らせた。
「……っふ、うぐっ…ぜったい、ぜったい言わないで……!!」
顔をハンカチにうずめ、必死に嗚咽を押し殺しながら、翡翠はすがりつくように懇願する。
自分の中に生まれた醜い独占欲も、流した涙も、主君である透亜にだけは絶対に知られたくなかった。
「ハイハイ」
晋はいつもの軽い、気怠げなトーンで受け流しながら、翡翠の頭をポン、と優しく叩いた。
扉一枚隔てたサロンからは、今も楽しげなお茶会の音が響いている。
そのすぐ外側で、翡翠は晋のハンカチを固く握りしめ、生まれて初めての失恋のような痛みに、声を殺して泣き続けるのだった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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