第五十七章 兄妹 前編
いつもありがとうございます!
翡翠レンタルの日がやってきました。
このエピソードでは、晋と翡翠の関係を深掘っていきます!
お楽しみいただけましたら幸いです。
日曜日の朝。
完璧に整えられた神城邸の二階書斎にて、透亜はいつもと変わらぬ冷徹な表情でデスクに向かい、ノートPCのキーボードを叩いていた。
だが、そのタイピング速度は普段の1.5倍。
叩きつけられる打鍵音は、主の苛立ちをそのまま代弁している。
「コンコン」
窓のサッシを軽く叩く、あまりに場違いで、緊張感の欠片もない音が静かな書斎に響いた。
透亜が視線を鋭く尖らせるのと、窓が滑らかに開け放たれるのは同時だった。
「こんにちは。透亜様、約束どおり翡翠を借りにきました」
音もなく室内に着地し、優雅に一礼したのは、九条家の執事・晋だった。
「……お前は普通に玄関から入れんのか、晋」
「いいじゃないですか、日曜日くらいフランクに行きましょうよ。
あ、翡翠は?」
晋が三日月のように目を細めてひらひらと手を振る。
透亜が青スジを浮かべて射殺さんばかりの視線を向けたその時、部屋の隅のデッドスペースから、完全に気配を消していた人影がスッと一歩前に出た。
「はい」
直立不動で待機していた専属護衛・翡翠である。
だが、二人の格好を見た瞬間、透亜の超高速計算脳は一瞬にして処理落ちしかけた。
揃いも揃って、漆黒の布地に重厚な刺繍の施された「チャンパオ(長袍)」をビシッと着込んでいる。
「……お前たちはこれから、他家との抗争、あるいは国家規模の暗殺任務にでも赴くつもりか?
街中でそのような衣服を纏っていれば、公共の秩序を乱す不審者として、秒単位で通報されるのがオチだ」
「あはは、確かに。動きやすいもので。
じゃ、坊ちゃんのカードで、適当に現代人の服買って擬態します。
――翡翠、行こー」
「うん。
透亜様。行ってまいります」
翡翠はバシッとチャンパオの裾を翻し、無駄にキレのある敬礼を捧げる。
透亜はこめかみをピクピクと震わせ、去りゆく二人の背中に呪詛のような声を投げかけた。
「……僕のカードの上限額に挑戦するような真似だけはするなよ。
……一秒でも早く帰ってこい」
もちろん、後半の要求は、晋の軽薄な笑い声にかき消されて無視されるのだった。
「あー、めんどくさい。これとこれでいいや」
渋谷の大型ファストファッション店に到着するなり、晋は透亜から預かったゴールドカードを誇らしげに掲げ、ものの三分でハンガーから服を引っ掴んだ。
晋にとって、これは単なる「擬態」であり、コーディネートを考えるのすら面倒な作業に過ぎない。
「あ、髪も邪魔だからそこら辺のゴムで適当に結んどいて」
「う、うん……。
でも晋、この衣服はとっても布地面積が広くて、空気抵抗が……
おぉ、生地が柔らかくて意外と関節の可動域が制限されない…!。
それに、この『スウェット』という戦闘服、とってもあったかい……!」
「だから戦闘服じゃないって。
……まあ、いいんじゃない? なんか『普通の中学生(※高校生です)』っぽくてウケる」
試着室から出てきた翡翠を見て、晋はケラケラと笑った。
だが、その「適当なチョイス」は、期せずして破壊力抜群の「ダボダボストリート系兄妹」を完成させていた。
晋のコーディネート:
くすんだブルーグレーのルーズな肉厚スウェットに、黒の極太ワイドパンツ。
裾から白Tをチラ見せし、首元にはラフなシルバーのネックレス。
アンニュイな色気のある「気怠いお兄さん」そのもの。
翡翠のコーディネート:
白の超オーバーサイズスウェットに、ルーズなケミカルウォッシュのワイドデニム。
髪はゆるい三つ編みのおさげにしており、キャップを片手に持った姿は、驚くほどピュアで可憐なストリート系女子。
本当は、フリフリで可愛い女の子らしい服も考えたのだが、それを翡翠に着せた事がバレたら自分は消される。
そう結論付けてこの「ダボダボスウェット」に落ち着かせたのだ。
もっとも、そのダボダボ感が、翡翠の華奢さと愛らしさをこれでもかと引き立てていることに、晋は気づいていて泳がせているのだが。
「晋、どうやって透亜様に言う事聞かせたの?」
「くくっ、ひ・み・つ」
「?」
キャップを被りながら尋ねる翡翠に、笑いを堪えきれない、と言うふうに答えた晋であった。
「ここが、一般の人間が娯楽のために集う『ゲームセンター』……」
おさげ髪の翡翠は、きらびやかなネオンと大音量の電子音に、完全に警戒モードで視線を鋭くさせていた。
「そう。
お前、こういうところ来たことないでしょ。
ほら、坊ちゃんから巻き上げたカードで小銭大量に崩してきたから、適当に遊んでいいよ」
晋はじゃらじゃらとメダルが入ったカップを翡翠に手渡す。
「いい、晋。
娯楽施設とはいえ、四方から電子音が鳴り響く空間は聴覚を狂わせ、奇襲への反応速度を著しく低下させる。
極めて危険な――」
「はいはい、戦闘モード解除。
暇つぶしなんだからさ。
……あ、あれやってみたら?」
晋が退屈そうに指差したのは、大きなぬいぐるみがアームに吊るされている、少し難易度の高い『確率機』のクレーンゲームだった。
「なるほど。
あの金属の爪で、対象を挟み、獲得口へと運ぶプロセスね。
……だけど、アームの閉じる物理的握力から計算して、自重のある景品を持ち上げるのは不可能じゃない?」
「あはは、お前本当に夢がないなぁ。
これはね、『確率』が来ないとアームが強くならない仕様なの。
普通は数千円、数万円使ってやっと1回獲れるようになってるの」
「確率……! それは一種の不正では!?」
ピュアに憤る翡翠に、晋は楽しそうに耳元で囁く。
「じゃあさ、アームの握力に頼らない方法、試してみる?
あのアームが静止する瞬間、上部のワイヤーが弛むミリ秒の隙。
あのタイミングで、アームの先端の爪を景品のタグ(輪っか)の『内側の角』に、1ミリの狂いもなく引っ掛けて、物理的な摩擦抵抗だけで引きずり落としてみてよ。
翡翠の動体視力ならできるでしょ?」
「……やってみる」
スゥ、と呼吸を止め、完全な暗殺者の集中力でボタンを押す翡翠。
アームが下降し、景品のぬいぐるみの小さなプラスチックのタグに、金属の爪の先端が『カツン』と正確無比に接触した。
次の瞬間、持ち上がることすらないはずの超巨大ぬいぐるみが、物理法則を無視した極限の摩擦スライドでズルリと獲得口へと滑り落ちた。
「落ちた」
「あはは! 本当に落としたよ。
すごーい」
店員が「えっ、あの台、まだ設定確率に到達してないはずなのに……!?」
と青ざめる横で、翡翠は無表情に巨大ぬいぐるみを小脇に抱える。
次に晋が翡翠を連れ込んだのは、コルク弾を撃って景品を倒す、お祭り風の射的コーナー(景品:高級ゲーム機など)。
「お一人様、3発まででーす」と気だるそうにしていたアルバイト店員の前に、モノトーンのダボダボ兄妹が立つ。
「翡翠、狙うならあの最上段のゲーム機ね」
「晋、あの箱の質量に対して、このコルク弾だと、どれほど正確に衝突させても後方へ転倒させるだけの衝撃力を与えられない」
「頭硬いなぁ。
箱の底面と台座の設置面積を見てみなよ。
ほんの数ミリだけ、右側が浮いてる。
お前がコルクを『その隙間』に超高速で撃ち込んで回転運動を発生させ、重心をずらす。
その直後に、俺が2発目を箱の天辺に叩き込んで、シーソーの要領で手前に落とす。
――はい、カウント3で呼吸合わせて」
「わかった」
アルバイト店員が「は?」と思った瞬間。
『パン! パン!』
ほぼ同時。
銃声が一つに重なって聞こえるほどの神速の連射。
1発目のコルクが、景品の箱のわずかな隙間にミリ単位の精度で突き刺さって箱を跳ね上げ、その滞空の刹那、晋の放った2発目のコルクが吸い込まれるように箱の頂点を撃ち抜いた。
ドサッ!!! と、物理的に絶対に落ちないはずの超重量のゲーム機が手前に転げ落ちる。
「……えっ?」と硬直する店員。
「はい、ゲットー。
これ、神城の坊ちゃんへのお土産にしよっか」
「うん!そうする」
晋は景品をひょいと拾い上げ、顔を引き攣らせる店員を置き去りにして、さっさと立ち去っていく。
「さて、昼飯でも買って次のところに行くか」
両脇に景品を抱え、ゲームセンターを出て、近くのファストフード店へ向かう二人。
晋は「じゃ、俺ここで待ってるから、適当にテイクアウトしてきて。坊ちゃんのカードなら何セット買っても怒られないし」と、店の前のガードレールに腰掛けた。
片手に巨大なぬいぐるみを抱え、もう片方の手で小走りに店内へと消えていくおさげ髪の翡翠。
景品のゲーム機の箱を小脇に抱え、気怠げにスマホを弄りながら待つ晋の姿は、都会の雑踏の中でも嫌に目を引いた。
くすんだブルーグレーのルーズなスウェットに、首元でラフに遊ぶシルバーチェーン。
気怠いお兄さん風のアンニュイな色気を放つ彼に、通りかかった派手めな女子二人組が色めき立つ。
「ねえ、あそこ。めっちゃイケメンじゃない?」
「ヤバ、雰囲気超ドストライクなんだけど。声かけてみようよ」
トコトコと軽い足取りで二人が近づき、晋の顔を覗き込んだ。
「ねえねえ、お兄さん。これから暇ー? もしよかったら、この後うちらとカラオケでも行かない?」
晋はスマホから視線を上げると、三日月のように目を細め、いかにも面倒くさそうな、だけど人当たりのいい笑みを浮かべた。
「あー、ごめんね。今、お連れさん待ちで。もうすぐ戻ってくるからさ」
「えー、連れって男友達? それとも彼女?」
食い下がる彼女たちの背後から、自動ドアが開く音と共に、両手いっぱいにファストフードの袋を抱えた翡翠がトコトコと戻ってきた。
白の超オーバーサイズスウェットに、おさげ髪。
少女の華奢さをこれでもかと引き立てるストリート系の装いは、モデル顔負けの透明感を放っている。
その翡翠が、巨大ぬいぐるみを脇に挟んだまま、晋の隣にすっと並んだ。
女子たちは翡翠を見た瞬間、あからさまに引き攣った笑みを浮かべた。
「げ……何あの子。……なんだ、彼女連れじゃん。行こ行こ!」
「うわ、マジか。お似合いすぎ……」
捨て台詞を残し、そそくさと退散していく女子たちの背中を、翡翠は不思議そうに見送る。
「? 晋、今の人は、知り合い?」
「いや。いわゆる『逆ナン』ってやつ」
晋はスマホをポケットにしまいながら、事も無げに言った。
「ナン……!?」
その単語を聞いた瞬間、翡翠の背筋がピンと凍りついた。
――かつて、神城邸の庭園で雛子から教わった「街の危険」についてのレクチャー。
『あのね翡翠ちゃん、都会にはね、すれ違いざまに声をかけて、女性をどこかへ拉致監禁しようとする恐ろしい“なんぱ”っていう捕食活動を行う男たちがいるの。
見つけたら即、肉体言語で制裁よ!』
(なるほど。では、あの者たちは、晋に『ナンパ』を仕掛けたということ……)
翡翠の脳内で、情報が恐ろしい角度で処理される。
相手は、笑顔で人を殺す、あの「晋」である。
自分でも骨が折れるほどの戦闘狂に対し、一般の人間が自ら死を望みに行くなど、正気の沙汰ではない。
翡翠は一瞬にして臨戦態勢(というか、本気でドン引きした顔)になり、去りゆく女子たちの背中に同情と憐れみに満ちた視線を送った。
「あの子たち……命が惜しくないのかな……」
「おいおい、俺は無差別殺人鬼じゃないぞ」
何をどう解釈したのか即座に察した晋が、あからさまに呆れたようなツッコミを入れる。
その晋の横顔を、翡翠はまじまじと観察した。
(なるほど。
晋は、透亜様ほどではないけれど、顔が整っているな、そういえば。
だから、あのように命知らずな者たちが引き寄せられてしまうのか……)
「……何その『珍獣を見るような目』。ほら、行くよ」
「あ、うん」
自分の頭の中で、美の絶対基準が完全に「透亜様」になっていることなど一ミリも自覚していない翡翠は、ただピュアに納得してコクコクと頷く。
晋は翡翠の手からずっしりと重い昼食の袋をひょいと奪うと、ふ、と笑って、その三つ編みのおさげ髪の頭をぽんぽんと叩いた。
「次どこいくの?」
「んーー、なつかしいとこ」
「? そう」
陽光を浴びながら歩き出すダボダボ兄妹の背中には、血なまぐさい過去など微塵も感じられない、平穏な時間が流れていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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