第四十四章 大好きだよ
いつもお読みいただきありがとうございます。
今回は、昼間の戦闘を経て「己の内に潜む怪物」に苛まれる翡翠と、そんな彼女を追う透亜のお話です。
計算や理屈をすべて焼き切った透亜が、最後にたどり着いた言葉とは――。
二人の絆の物語を、どうぞお楽しみください!
夜。
神城の屋敷にある透亜の自室には、いつもと変わらない静謐な時間が流れていた。
かすかに湯気を立てる温かい中国茶。
翡翠はいつものように、完璧な所作で透亜のデスクへとカップを差し出す。
それが彼女にとっての日常であり、至福のルーティンのはずだった。
だが、お茶を淹れる翡翠の指先は、わずかに、しかし確実に強張っていた。
彼女の脳裏にこびりついて離れないのは、昼間の戦闘の記憶だ。
――カチリと脳内で『暗殺スイッチ』が入り、相手を即死させる為に、魄の首の後ろへ暗器を振り下ろしたあの瞬間の、ゾッとするほど冷徹な己の感覚。
(私は……本気で、あの娘を殺そうとした。
躊躇いもなく、ただの『怪物』に戻って……)
一度染みついた血の臭いは、どれだけ普通の日常を過ごそうとも決して消えはしない。
押し寄せる自己嫌悪と、己の内に潜む怪物への恐怖が、翡翠の胸をじわじわと侵食していく。
「……翡翠?」
ふいに、すぐ近くから声をかけられ、翡翠は小さく肩を震わせた。
いつの間にか椅子から立ち上がっていた透亜が、すぐ目の前に立っていた。
心配そうにこちらを見つめる彼の美しい瞳が、翡翠の動きを捉える。
透亜は、彼女の強張った表情に気づいたのだろう。
慰めるように、あるいはその不安を解きほぐすように、そっと手を伸ばした。
彼女のまっすぐな黒髪に、あるいはその震える指先に、優しく触れようと――。
「――っ!!」
その瞬間、翡翠の身体が弾かれたように後ろへ跳んだ。
バシッ、と空気を叩くような鋭い音を立てて、透亜の手を拒絶するように自分の両手を強く引き込む。
「あっ……も、申し訳ありません! そ、そんな、そんなつもりじゃ……っ!」
我に返った翡翠は、己のしたことの重大さに激しく動揺した。
最愛の主君の手を、あろうことか全力で拒絶してしまったのだ。
差し伸べられた透亜の手が、切なげに空中に取り残されている。
翡翠の視界が、みるみるうちに涙で歪んでいく。
ぐっと奥歯を噛み締め、溢れそうになる涙を必死に堪えながら、翡翠は絞り出すように叫んだ。
「……ちょっと! 頭を冷やしてきます……!」
「待て、翡翠――」
呼び止める透亜の声を振り払うようにして、翡翠は部屋の窓を開け、脱兎の如く走り去っていった。
街の騒音から遠く離れた、夜の星が見える丘。
そこは、二人がまだ10歳だった頃、翡翠が透亜を連れてきた、二人だけの特別な思い出の場所だった。
翡翠は芝生の上にぽつんと佇み、満天の星空を見上げていた。
耳のインカムの電源は切っている。
GPSによる追跡すら拒絶し、彼女は一人、暗闇の中で自問自答を繰り返していた。
普通の幸せを求めてしまう自分と、それを許さない暗殺者としての本質。
二つの感情の狭間で、彼女の心は今にも引き裂かれそうだった。
「はぁ……はぁ……っ、お前、早すぎ……。
少しは、手加減しろ……」
「――っ!?」
不意に、背後から荒い呼吸の音が聞こえ、翡翠は驚愕して振り返った。
そこにいたのは、膝に手を突き、肩を大きく上下させて息を切らせている透亜だった。
普段は悠々と振る舞う彼が、ここまで全速力で走ってきたのは明白だった。
「えっ!? 透亜様、なんでここが……? 」
翡翠は反射的に耳元のピアスに手をやる。
透亜は少しずつ息を整えると、いつものすました、どこか誇らしげな顔で翡翠を見つめた。
「別に。
翡翠が行く所なんて、限られてるし」
脳内の秒単位の計算回路が弾き出した座標ではない。
6年間、片時も離れずに隣に居続けたからこそ、透亜には分かっていた。
翡翠が傷つき、迷ったときに、どこへ向かうのか。
GPSなどという機械のデータよりも遥かに確かな、6年間の絆という名の執着が、彼をこの丘へと導いていた。
翡翠は言葉を失い、ただ複雑な表情で俯くしかなかった。
静寂が二人を包み込む。
星空の下、世界に二人きりしかいないような錯覚を覚えるなか、透亜がゆっくりと翡翠へ歩み寄った。
その口調は、いつもの冷徹な「神城財閥の御子息」のものではない。
ただの、等身大の16歳の少年の優しい話し方だった。
「……どうしたの。
なにか、嫌なことがあった?
そしたら、今度は僕が、翡翠をどこか遠くへ連れて行くよ」
かつて、地獄にいた透亜を翡翠が連れ出したように。
今度は自分が、彼女を別の場所へ連れて行くと。
そのどこまでも甘く優しい言葉に、翡翠の目元が熱くなる。
必死に涙を堪える彼女の姿を見て、透亜はそれ以上何も言わず、ただ黙って、彼女が言葉を紡ぎ出すのをじっと待った。
やがて、夜風に混じって、翡翠の震える声が漏れ出す。
「私……、魄を本気で殺そうとしました……。
晋が隙を作ったあの瞬間、私の頭には、敵を『排除する』という思考しかありませんでした」
ぽつり、ぽつりと、ずっと胸に秘めていた呪縛を吐き出していく。
「私の本質は……やっぱり、人殺しの、怪物です。
それは消えない。
私は、それを、過去を、受け入れて生きていかないといけない」
大好きな人たちと過ごす、温かい時間。
それが怖くてたまらないのだと、翡翠は声を震わせる。
「でも、みんなと一緒にいるのが、あんなに眩しくて、楽しくて……自分が『普通』の人間だと勘違いしそうになる。
……普通の翡翠でありたいけれど……それだけでは、いけないのです…!」
目にいっぱいの涙を溜めながら、翡翠は絞り出すように話す。
暗闇の中に消えてしまいそうなほど、その背中は小さく、脆く震えていた。
今にも自分の前から消え去ってしまいそうな従者を、透亜はただ見つめてはいなかった。
透亜は一歩、強く地を踏みしめて翡翠に近づく。
そっと彼女の細い腕に触れた。
翡翠が今度は拒絶しないこと、自分を嫌がっていないことをその肌で確かめると、透亜は意を決して――その細い身体を、両手で思い切り、強く強く抱きしめた。
「……っ!? 」
驚いて固まる翡翠の耳元で、透亜はこれまでの人生のなかで、最も真っ直ぐな、熱い言葉をぶつけた。
「君は一人の人間だ。
何を願ったっていいし、何になったっていい。
怪物だと言うのなら、それでも僕は構わない」
いつもの理屈っぽい計算など、今の透亜の頭には一ミリも存在しなかった。
脳内の回路を全て焼き切るほどの感情が、彼にただ一つの、最も単純で、最も絶対的な言葉を選ばせる。
「そのままでいいよ。
だって――」
一拍の静寂の後、星空のすべてを味方につけるような、絶対的な肯定が響く。
「だって、僕は君の全てが好きだから」
翡翠が目を見開く。
透亜は、愛おしくてたまらないというように、翡翠の肩口に自分の頭をぎゅっと擦り寄せた。
「大好きだよ。
ずっと……子供の時から」
透亜の体温が、その心臓の鼓動が、翡翠の頑なな呪縛を、内側から粉々に融かしていく。
翡翠は、ぎゅっと一度固く口を閉じてから、震える声で呟く。
「………わっ……わたし、このままでもっ……いいんですか……? 」
翡翠の瞳から、我慢していた涙が零れ落ちる。
「いいよ」
透亜は、限りなく優しい声で、そう全肯定した。
「うっ……ぅわぁああぁん!」
翡翠は、6年前のあの日のように、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
透亜の胸に顔を埋め、溢れ出る涙を隠そうともせず、ただ大好きな主君の体温にしがみつく。
透亜は、その小さな頭を、あの10歳のあの日と同じように、優しく、優しく撫で続けた。
満天の星々が見守る静かな丘の上で。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
10歳のあの日から重なり続けるふたりの時間。
やっとここまで来ました!
翡翠を救たくて、思いがけず愛の告白をした透亜。
書いてて涙がでました!
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