第三十六章 雛子プロデュース!嵐のバカンス計画 2
いつもお読みいただきありがとうございます!
今回はいつもの賑やかなメンバーで行く、真夏のバカンス編をお届けします。
海という初めてのロケーションで、いつもは無敵な護衛の翡翠ちゃんが見せる「初のバグ」と、それを前にした透亜様のからかい魔王(&お留守番中の嫉妬魔王)っぷりをお楽しみいただければ幸いです!
「ほら律、パス!! パソコンばっかり触ってないで、あんたも入りなさいよ!」
「無理無理無理! 液晶が死ぬし僕のライフもゼロになるから! 凪、そっち任せた……!」
ギラギラと輝く太陽の下、一等地の上質なプライベートビーチには、いつもの賑やかな声が響いていた。
一ノ瀬雛子、凪、晃、そして意外にも綜一郎までが加わって、海の中でわいわいとビーチボールをトスし合っている。
そんな中、別荘の涼しいバルコニーのパラソルの下では、神城透亜がチェス盤を前に優雅に座り、その隣の特等席(日陰)で律が死にそうな顔でノートPCを叩いていた。
透亜の視線は、チェス盤ではなく、海の一点に固定されている。
そこでは、薄緑のシースルータンキニに身を包んだ護衛の翡翠が、楽しそうに「がっつり」と泳いでいた。
川での過酷な実戦訓練を積んでいる彼女の泳ぎは、お遊びの海水浴というよりは、もはや美しい水難救助のデモンストレーションに近い。
「……おい、一ノ瀬のバカンス計画とやらは、ただの熱中症誘発ロジックではないのか」
冷たく言い放ちながらも、透亜の手元ではチェスの駒を動かす指が完全に止まっている。
その隣で、律がキーボードを叩きながらジト目でツッコミを入れた。
「透亜、文句言いながら視線が1ミリも翡翠ちゃんから離れてないよ……。
砂浜の斜度と波の周期から計算して、あいつのいる位置は──って脳内でやってるでしょ」
「黙れ、律。
僕はただ、防犯上の観点から偵察員の安全圏を──」
その時、楽しそうに泳いでいた翡翠の足元で、潮流がふっと変わった。
浅瀬の境界線。
少し進んだ先は、急に底の砂が深くなっている傾斜だった。
寄せては引く波の力で足元の砂がザザザッとさらわれ、海特有の不規則な浮力に、初めての海である翡翠はおっとっと、とバランスを崩した。
いくら川での過酷な訓練経験があり、筋肉でナイフをロックできようが、勝手の違う海の中ではその高い身体能力も狂わされる。
バシャッと大きな水飛沫が上がり、翡翠の身体が胸元まで一気に沈みかけた。
(──ッ!)
透亜は声をあげることすらなく、弾かれたように椅子を蹴立てて走り出していた。
普段のスマートなポーカーフェイスも、運動嫌いの言い訳もすべてかなぐり捨て、砂浜を猛ダッシュしてそのままざぶざぶと海の中へ突っ込む。
一方、不意に深いところへいってしまい一瞬で視界が水に覆われかけた翡翠だったが、そこは戦闘能力の塊である。
パニックになりかけながらも、野生的な生存本能でとっさにグッと息を止め、水を飲むのを完璧に防いでいた。
しかし、足がつかなくなり身動きが取れない。
そこへ──
バシャッ、と激しい水音が響き、翡翠の細い腰が、男らしく力強い腕でガシッと力強く抱きとめられた。
「……ぷはっ! え? と、透亜様……?」
水に沈みきる直前、間一髪で滑り込んできた透亜の手が、彼女の身体をしっかりとホールドして引き上げていた。
躊躇なく海に飛び込んできた主君は、自身もシャツの胸元までずぶ濡れになりながら、近くにプカプカ浮いていたドーナツ型の浮輪を引っ張り寄せ、翡翠の身体をその中に手際よく乗せてあげる。
これなら、足のつかない深さでも安心だ。
前髪からポタポタと滴る水滴の向こうで、透亜はふぅ、と息を吐いて口を開いた。
「だから言ったろ。川とは違うって」
「あ、は、はい。
ありがとう、ございます……」
「……ふっ、お前でも、こういう事があるんだな」
そう言って、悪戯っぽく、どこか愛おしそうにフッと鼻で笑う透亜。
ドクン。
翡翠の胸の奥で、何かが激しく跳ねた。
とっさに息を止めていたせいで少し上がった息のせいだけではない。
水着という無防備な状態でダイレクトに感じた、自分を支える透亜の腕の確かな力強さ。
水の中とはいえ、自分を軽々と持ち上げてくれたその男らしい腕の感触。
戦闘ロジックでは説明できない未知の身体反応に、翡翠は本気で困惑し、おろおろと視線を彷徨わせて透亜から目を逸らした。
「……? どうかしたか、どこか怪我したか?」
目を逸らした翡翠の顔を覗き込もうと、透亜がさらに顔を近づけてくる。
至近距離。
前髪の隙間から覗く透亜の瞳は、まつ毛が長くて色素が薄く、真夏の水面の反射を受けてキラキラと眩しく輝いていた。
(──っ、心臓が、うるさすぎます……!)
その美貌をゼロ距離で浴びた翡翠は、さらに心拍数が跳ね上がり、顔が耳まで真っ赤になっていく。
「な、ん、でもないです……」
翡翠は自分の胸の動揺を隠すように、消え入りそうな声で呟きながら、縋るように、ほんの少しだけ透亜の濡れた腕にそっと手を触れた。
その、これ以上ないほどしおらしくて健気な翡翠の態度を見た瞬間。
透亜の胸の内で、いつものドSな嗜虐心がむくむくと湧き上がってきた。
本日二度目の脳内クラッシュを気合いでねじ伏せたからかい魔王は、翡翠が乗る浮き輪のフチに、ずぶ濡れの自分の腕を気だるげにあずけた。
そしてその上に顎を乗せ、至近距離から翡翠の真っ赤な顔を少し意地悪く覗き込む。
「ねえ、どうだった? 僕もなかなか動けるだろ。
……かっこよかった?」
「?!!!っ」
まさかの追い打ちストレート。
翡翠の脳内回路が完全にキャパシティをオーバーした。
翡翠は両手で勢いよく自分の顔を覆い隠すと、消え入りそうな悲鳴をあげた。
「も、も、もうかんべんしてください……っ」
顔を隠した指の隙間から、真っ赤になった耳が覗いている。
自分の狙い通りの──いや、想像以上の甘いリアリティを伴った護衛のうろたえっぷりに、透亜はふっと満足そうに、最高に愉しげな笑みを浮かべるのだった。
そんな二人を、海の中からビーチボールを抱えた面々が生温かい目で見つめていた。
「……っていうか透亜、あんなに早く走れるんだね。
運動嫌いかと思ってた」
カメラを凪にブロックされながら放った晃の言葉に、パラソルの下に戻ってきた綜一郎が、ブレずに冷淡な声を返す。
「あいつ、翡翠が動きすぎるせいで目立たないが、結構鍛えてるぞ。
神城の本家の人間としての最低限の訓練は叩き込まれているからな」
「へえ、隠れハイスペック。ずるいねぇ」
「キャーーーーー!!
そんなことより何アレ少女漫画!?
神城最高にかっこいいんだけど!!」
二人の冷静な会話を、メガホンを両手で握りしめた雛子の特大の黄色い悲鳴がかき消した。
お世話係たちが「ふふ、若様方は本当にお仲が良い」「我が主のヤジ、お耳汚しを失礼いたします」と、優雅にお茶を淹れ直す中、透亜の長い夏休みの初日は、前途多難な幕開けを迎えるのだった。
夕方。
潮風が少し冷たくなり始めた頃、別荘の広大なリビング。
お出かけチームが、地元のリゾートモールへショッピングに出かける準備をしていた。
お世話係たちがすべてを完璧にこなしてくれるというのに、わざわざ出かけるのは、ひとえに雛子の「バカンスの醍醐味は、地元のストリートでのショッピングと食べ歩きよ!」という強いこだわりのせいだった。
「どう、神城! 私の最高傑作第二弾!
刮目せよ!!」
雛子がふんぞり返って自慢げに指差した先──そこに立つ翡翠の姿に、チェス盤を見つめていた透亜の視線がピキリと止まった。
バカンスの荷物に、普段着であるチャンパオ(長袍)しか持ってきていなかった翡翠。
それを見越していた雛子が「海辺の街でチャンパオはナンセンスよ!」と、またしてもプロデュースした私服に着替えさせられていた。
それは、上品なリネン素材で作られた、淡いサクラ色のサマードレスだった。
細い肩紐が彼女の美しい鎖骨を強調し、風を孕んでふわりと広がるスカートの裾が、いつもより格段に女の子らしい可憐さを醸し出している。
それでいて、翡翠の引き締まった無駄のないスタイルを完璧に引き立てていた。
身体の傷は、雛子がお化粧で上手に隠してあげていた。
「透亜様、本当にお留守番でよろしいのですか……?」
サマードレスの心許ない軽さにソワソワしながら、翡翠が心配そうに透亜を見つめる。
昼間の「初のバグ」を引きずっているせいもあり、彼女の態度はどこかギクシャクとしていた。
「神城は居残りよ!」
翡翠の背後から、雛子が腰に手を当てて言い放つ。
「昼間あんなに激走して、どうせ疲れてるんでしょ?
それに、あんた私や晃の買い物に付き合うの、世界で一番嫌いじゃない。
たまには翡翠ちゃんを独占させてよね!」
雛子の狙いは、あえて二人を一度引き離し、お互いの距離感をじらすことにあった。
透亜はこれ以上翡翠のドレス姿を直視すると、昼間の大クラッシュが再発すると本能で察し、チェス盤に目を落としたまま、無関心を装ってフンと鼻で笑う。
「勝手にしろ。僕はここでチェスの定跡を浚っている方が有意義だ」
「そ、そうですか……。では、行ってまいります、透亜様」
昼間の感触が頭から離れない翡翠は、どこか落ち着かない様子のまま、ペコリと一礼して雛子たちと部屋を出ていった。
残された透亜は、彼女たちの姿が見えなくなった──まさにその1秒後。
ポケットからスマートフォンを滑らかに取り出した。画面に表示されているのは、律のPCから強制共有させている「翡翠の現在地(GPS)」。
「……よし、移動を開始したな」
トントン、と画面の翡翠のアイコンをタップする。
3秒後。
トントン。
さらに3秒後。
トントン。
「神城。
翡翠が離れてから、チェスを進める速度が通常の0.8倍に低下している。
画面のタップ回数も異常だ。
何が懸念だ」
横から綜一郎の冷徹なツッコミが入る。
「……黙れ、綜一郎。
防犯システムの脆弱性をリアルタイムでチェックしているだけだ」
「晃も行った。
今頃、ショッピング中の翡翠のあらゆる私服姿を、高性能レンズでデータに収めているだろうな」
「…………帰ってきたら、晃の端末をすべて物理的に破壊する」
オーラを黒く染め上げる「嫉妬の魔王」透亜様。
そんな二人の後ろで、各家のお世話係たちは
「透亜様は相応にお寂しいのでしょう」
「我が主がまた私財を破壊されそうでハラハラいたしますね」
と、無言の目配せを交わしながら、完璧な手際で極上のお茶をサーブし続けるのだった。
はっきり言葉には出さずとも、行動とGPSのタップ回数に透亜様の巨大な感情がダダ漏れなわけですが……ショッピングモール組の動向も含めて、彼の長い夏休みはまだまだ波乱が続きそうです。
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