第三十一章 秘密の森の狐たち 1
林間学校編、突入です!
平和な学校行事の裏で、それぞれの思惑と裏の社会が静かに交錯し始めます。
神城主従の距離感にもぜひご注目ください!
晴れ渡った青空の元、名門一貫校の生徒たちを乗せた大型観光バスは、新緑の匂いが立ち込める軽井沢へと滑り込んでいた。
「キャハハ! マイナスイオンバリやば!
みんな写真とろー!」
バスの座席で一ノ瀬雛子がスマートフォンを掲げてはしゃぎ、周囲の女子生徒たちと自撮りに興じている。
その喧騒の中、1年A組の面々は、学園が用意した最高級ロッジのラウンジへと集められていた。
表向きは、清々しい初夏の陽気の中で行われる親睦行事──【軽井沢林間学校・山岳オリエンテーリング】。
だが、神城透亜が完璧な優等生の微笑みを貼り付けたまま手元のタブレットに視線を落すと、そこには二重スパイとなった千歳凪から、秒単位で更新される本家の偽ログと、御子柴律が逆探知した「本家実戦部隊」の潜伏推定エリアが赤く点滅していた。
(……やはり、この山を処刑場に選んだか、一馬兄さん)
「さあ皆様!
わたくし九条麗華と同じ班になれた栄誉を胸に、この大自然を完全攻略いたしますわよ!
透亜様、当然わたくしのエスコートをしてくださいますわね!?」
「光栄だよ、麗華さん。
大自然の中の君も、きっと薔薇のように美しいだろうね」
麗華のいつもの猛アタックを極上の営業スマイルでいなしつつ、透亜は分厚い黒縁眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせている護衛──翡翠へと視線で緊迫した合図を送る。
翡翠には、事前に一馬の策略を伝えていた。
そのすぐ後ろ。
麗華の影として従う少年──晋は、穏やかな笑みを浮かべたまま、森の奥から漂う微かな違和感を敏感に察知していた。
(……ふむ、随分と上等な野良犬たちが伏せているね。
この感じはプロだな。
…となると狙いは誰だ? 麗華お嬢様か? それとも、あの神城の坊ちゃん……?)
オリエンテーリングが開始され、班ごとにうっそうとした山林へと足を踏い入れていく。
最初は一般生徒たちの賑やかな笑い声が響いていた山道。
まだ青空が見え隠れする中、麗華や雛子たちが大自然に気を取られた一瞬の隙を突き、翡翠は静かに透亜のデッドスペースへと滑り込んだ。
「透亜様、敵の気配が動かなくなりました。ここで私に、単独行動の許可を」
声のトーンを極限まで落とし、翡翠が切り出す。
「ターゲットは私一人です。
申し訳ないのですが、護衛対象が近くにいては、戦闘の難易度が跳ね上がります。
お体に傷がつくリスクを避けるためにも、ここで私に敵を引き付けさせてください」
翡翠の言葉は、完璧に合理的だった。
だが、透亜の秒単位の計算回路は、その「正論」を拒否していた。
彼の鉄壁の合理性は翡翠に対してだけいつも激しくバグを起こしている。
「……だめだ。
お前を一人で死地に送り出すなど、僕の計算が許さない。
罠は張ってある、大人しく僕の側に──」
「おや。
面白い話をしてますね。
──私も混ぜて下さいよ、神城の坊ちゃん」
「!」
すっ、と大樹の影から、穏やかな笑みを浮かべた晋が姿を現した。
その足音も気配も一切させない佇まいは、彼の底知れない狂気を物語っている。
「かなり腕の立つ奴らがきてると思ったら
──なるほど、ターゲットは翡翠なんですね。
…ねえ、私が翡翠の『お守り』をしてあげましょうか?
ちょうど退屈で死にそうだったんですよ」
最悪のイレギュラーの登場に、透亜の眉が不快そうに跳ね上がる。
しかし、翡翠は晋から目を離さないまま、透亜に向かって強く言い放った。
「……透亜様。この男の実力は本物です。
……非常に癪ですが、晋と二人で行けば、作戦の成功率は跳ね上がります。
あなたが安全な場所にいてくだされば、私は躊躇なく奴らを粉砕できる。
……主君として、どうか合理的な御決断を」
「成功率は跳ね上がる」──その数値的な正論を突きつけられ、透亜は奥歯を噛み締めた。
感情的には行かせたくない。
しかし、晋という超一級の戦力が加わるならば、翡翠が五体満足で戻ってくる確率は極限まで高まる。
「……チッ」
完璧な優等生が、初めて人前で苦々しく舌を鳴らした。
「……いいだろう。絶対に戻れよ」
「御意」
晋はくすくすと喉を鳴らし、「じゃあ、先に行って遊んでるよ」と、いつもの軽い足取りで一足先に深い森の奥へと消えていった。
晋の気配が完全に離れ、木漏れ日の差し込む森の中に、透亜と翡翠の二人だけが残される。
「……そろそろ、僕も一ノ瀬たちの元に──」
戻ろうとした透亜の言葉は、突如遮られた。
「透亜様、少し、手を貸して下さい」
「?」
突然の言葉に、透亜が怪訝そうに綺麗な右手を差し出す。
すると翡翠は、その透亜の白く大きな手を、自分の小さな両手で包み込むようにしてぎゅっと握りしめた。
驚く透亜の目の前で、翡翠はその手を自らの口元へと引き寄せ、目を閉じて、何かを必死に念じるように小さく呟いた。
「っ……!?」
突然の至近距離。そして、自分の手の甲に触れそうなほど近い翡翠の熱い吐息。
あの深夜の看病の記憶が一瞬でフラッシュバックし、透亜は心臓が跳ねて完全に硬直した。
鉄壁のポーカーフェイスの裏で、脳内計算速度がガタガタと音を立てて狂いだす。
しかし、主君のそんな大動揺を知る由もない翡翠は、ぱっと顔を上げてすっきりとした表情を浮かべた。
「よし、私頑張ってきますね!」
晋への恐怖を押し殺し、主君の体温という「絶対のお守り」で自分を奮い立たせた翡翠は、眼鏡をはずし、目を完全にプロの鋭さに変え、すぐさま森の奥へ去っていく。
あまりの不意打ちに、透亜は言葉を返すことすらできなかった。
赤くなった手の甲をじっと見つめたまま、心臓のバクバクがどうしても止まらない。
片手で顔を覆って小さくため息をつく透亜の超高度な頭脳は、翡翠の無防備さの前に、ただ何も言えずにその背中を見送るしかなかった。
直後、山の天気特有の白い霧が足元から立ち込め、周囲の視界を急速に奪い始めていった。
「うわ、なんか急に視界悪くなってなーい? 迷子になりそう!」
離れた場所から雛子の声が響く中、霧はさらに濃くなり、一般生徒たちの姿を白い壁の向こうへと遮断していく。
白い霧が完全に立ち込める、静寂に包まれた鬱蒼とした森の奥。
気配を完全に消して立ち塞がった翡翠の前に、普段翡翠が着ているものと同じ漆黒の衣服を纏った影が姿を現した。神城の本家が誇る、感情を廃した狐狸の実戦処分部隊。
周囲の一般生徒たちには、これがただの「霧による遭難」としか思えないよう、徹底的に計算された静かなる包囲網。
他家に火種を撒かない一馬の冷徹な計算が、翡翠一人を完璧に孤立させていた。
カサ、と背後の枯れ葉が微かに鳴る。
「これは、これは。仰々しい事この上ないね。
……さあ、久しぶりに共闘といこうか?」
先に潜伏していた晋が、大樹の陰から音もなく滑り込むようにして姿を現した。
いつも通りの穏やかな笑みを浮かべたまま、その三白眼は敵の無駄のない陣形を完全に看破している。
「随分と本家に愛されてるじゃない、翡翠。」
翡翠は、隣の晋に一切の視線を合わせないまま、低い、地を這うようなプロの声音で呟いた。
「…透亜様やみんなに危害が及んだら、殺す」
かつて同門の兄弟子としてその異常な残虐性と、仕事への執着を身をもって知っているからこその、冷徹な警戒。
「俺は仕事はきっちりやるさ。知ってるだろ?」
晋の瞳には、退屈な日常から解放された悦びの炎が妖しく揺らめいていた。
同時に、翡翠もまた、ジャージの奥のホルダーから一瞬で冷徹な刃を抜き放ち、「最強の護衛」としての漆黒の闘志を爆発させた。
「…制圧する」
「いいね、ショータイムだ」
霧に包まれたクローズドサークルの中、神城の本家部隊を相手に、犬猿の仲であるはずの「狐狸の双璧」による、ミリ秒単位の容赦なき裏の死闘が、今、静かに幕を開けた──。
出撃前のあの無自覚な温度と、脳内フリーズを起こした主君。そしてついに幕を開けた「狐狸の双璧」の共闘バトル……!
晋の一人称の切り替えなど、裏の顔が見える戦闘シーンは書いていてとても楽しかったです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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