第三十章 謀略の輪舞曲(ロンド)
「謀略のロンド」をお読みいただきありがとうございます。
定期テスト後の開放感と、その裏で蠢く天才たちの二重スパイ協定。
軽井沢林間学校編へのプロローグです。
第1回・定期テストという名の嵐が過ぎ去り、名門一貫校は一気に初夏の開放感に包まれていた。
壁の掲示板や生徒たちのスマートフォンに躍るのは、7月に控えた【軽井沢林間学校(山岳オリエンテーリング)】の文字。
学園中が爽やかな行事の話題で持ちきりになる中、放課後の1年A組サロンの片隅で、神城透亜は手元の特注タブレットを極めて冷徹な手つきで滑らせていた。
画面にスクロールされるのは、ハッカーの御子柴律から届いた、暗号化された本家の通信ログの逆探知データ。
秒単位で戦況を組み立てる透亜の脳細胞が、そのノイズから恐るべき「解」を弾き出す。
(……一馬兄さん。やはり動いたか)
それは、当主・一馬が策略したであろう作戦書。
道具に感情を移入し、自分の「アキレス腱」を作りつつある透亜への残酷な教育。
林間学校という神城の目が届かない大自然の舞台を利用し、透亜の目の前で翡翠を『本家の狐狸部隊』によって強制回収・処分し、その絶望によって透亜を「冷酷な怪物」へと完成させるための、本家直々の実戦テスト。
(先日、兄さんに呼び出されて釘を刺された際、僕があいつをただの『便利な手足・肉の盾』だと吐き捨てた理由を……兄さんは仮面の奥の、僕の表情一つで逆算したわけだ。なら──)
そこまで思考を走らせた時、律の解析データが、学園内から本家へとリアルタイムで情報を送信していた「発信端末」を完全に特定した。
画面を見つめる透亜の形のいい瞳が、すっと細められる。
いつもの完璧な営業スマイルは消え、そこにあったのは絶対の支配者の表情だった。
(……やはり、スパイはお前だったか)
夕暮れ時。
茜色の光が長く伸びる、人気のない旧校舎の裏手。
林間学校の実行委員としての作業を終え、帰路につこうとしていた特別推薦枠の天才少年──千歳凪は、行く手を塞ぐように佇む人影に足を止めた。
いつもの完璧な営業スマイルを消し、底冷えするような真剣な眼差しで自分を見下ろしている神城透亜。
その異様な威圧感に、凪の背筋に冷たいものが走る。
凪は背後に控えていた自身の随伴員(お世話係)に、視線だけで「車で待っていろ」と人払いを命じた。
透亜が翡翠を神城の車に待機させ、ただ一人でここに立っている意味を、その頭脳が瞬時に察したからだ。
「透亜、どうしたの……?」
ポケットに手を差し入れたままの透亜が、静かにナイフを突き立てた。
「……凪。お前だろ、一馬兄さんのスパイは」
「っ……!」
いきなりの先制攻撃に思わず息を呑む。
だが、凪はすぐに人懐っこい笑みを貼り付けた。
「……なんのこと? 透亜。
僕、神城家の大人の事情なんて何も知らないよ」
「往生際が悪いね。
一馬兄さんへの暗号化プロトコル、送信元は君の私設サーバーだ。
御子柴律の監視網を『芸能界のライブ配信トラフィック』にカモフラージュして本家と回線を開ける人間など、この学園にお前以外にいるか。
…僕を監視していたんだろ」
逃げ場は完全に塞がれていた。
凪はふっと笑顔を消し、低い声で応じた。
「……だったら、どうするの? 透亜。
一馬様に言えば、僕は今すぐこの学園から消される。
……僕を消す?」
普段とは雰囲気を一変させた凪に、透亜は驚く事もなく冷たく言い放つ。
「浅はかだね、凪。
お前が一馬兄さんに送っていたログの内容は、僕もすべて把握している。
──『神城透亜、翡翠、両者はビジネスライクな主従であり、透亜は翡翠をただの便利な刃としか思っていない。』
…だから本家が翡翠を今すぐ回収・処分する必要はない、と。
そうやって、あいつを本家の目から隠そうとしたんだろう?
だが、それが裏目に出たんだよ、バカめ」
「?!!」
誰にも、自分の本当の目的など一ミリもバレていないと思っていた。
「……っ、… じゃあ、じゃあなんて報告すればよかったっていうんだよ! 僕は完璧に一馬様の目を──」
「何も送らないのが正解だ」
透亜の容赦のない一喝が、夕闇の校舎裏に響いた。
「一馬兄さんはね、お前の『ビジネスライクだ』という報告を見て、逆に確信したんだよ。
──僕が本家の目を欺くために、必死で『冷酷な主従』を演じているとな。
兄さんはお前の能力を疑ってはいない。
だからこそ、お前が掴んできた『完璧な主従の空気』そのものが、僕の必死の隠蔽工作……つまり、僕がそれほどまでに翡翠に執着しているという逆説的な証拠になったんだ。
『完全に情が移って手遅れになる前に、そのお気に入りの玩具を目の前で叩き壊してやろう』。
お前の無駄な報告のせいで、兄さんはそう決断した。
この林間学校の山岳地帯に、本家の狐狸部隊を仕込んだんだ。
翡翠を強制連行し、処分場へ送るためにね」
「そんな……」
凪の顔から、一瞬で血の気が引いた。
完璧に彼女を救うための小細工だったはずなのに、己の浅知恵のせいで、大好きなあの少女が殺される。
「僕の……せいで……翡翠ちゃんが…」
天才のプライドが音を立てて崩壊し、膝から崩れ落ちそうになる凪。
その少年の絶望を見下ろす透亜の瞳には、弱者を嘲笑うような邪悪さはなかった。
灯っていたのは、翡翠を絶対に失わないと誓った、強烈に熱く、真剣な眼差しだ。
透亜はゆっくりと凪の前に歩み寄り、その視線を真っ正面から射抜いた。
「凪。
絶望している暇があるなら、その天才の脳を僕に貸せ。
──お前、あいつが大事なんだろう?」
「っ……!」
隠し通していたはずの胸の奥をはっきりと指摘され、凪の息が止まる。
「だったら……僕の、駒になれ」
透亜の言葉に、凪は弾かれたように顔を上げた。
「一馬兄さんを…欺け」
一馬の目を欺く『偽りのログ』を喰わせ、今度はこちらのチェス盤でハメ返す作戦。
羽鳥も、御子柴も、橘も動かす。
A組の総力で本家を叩き潰すという透亜の底知れない冷徹な焔が、凪の胸に突き刺さった。
凪は震える目で透亜を見つめていたが、すぐにその瞳に激しい執念の炎を宿し、血の滲む唇を歪めて、いつもの笑みを浮かべる。
「……やってやろうじゃない。……例え何者だろうと、全て騙してやる」
ここに、己の意思で一馬を欺く最強の『二重スパイ』が誕生した。
その夜、神城の屋敷への帰り道。
高級車の後部座席で、透亜は腕を組み、林間学校での反撃のチェス盤(山岳戦の作戦)を脳内でミリ秒単位で組み立てていた。
そのすぐ隣。
学園仕様のダサ眼鏡を外し、お守りの真紅のピアスをきらめかせた素顔の翡翠が、のんきに「林間学校のしおり」を眺めながら、目を輝かせている。
「透亜様! 聞いてください。
軽井沢の山岳地帯には、非常に希少で美味しい、野生の山葡萄が自生しているそうでございます!
毒味はすべて、この翡翠にお任せください!
山の中であれば、多少動き回っても皆さんに見られる心配はありませんから!」
「……はぁ。お前は本当に、呑気だな。
本物の猿になる気か」
「む? なぜ溜息をつかれるのですか?
私は至って真真面目に、随伴員としての職務を──」
「いいから、僕の視界の真ん方にいろ。
林間学校の間中、一歩も僕の後ろから離れるな。
わかったね、バカ翡翠」
「御、御意に…?」
首を傾げる翡翠の横顔を見つめながら、透亜は胸の奥で、静かに、しかし絶対のトーンで誓う。
(一馬兄さん、僕のチェス盤の上で、思い通りにできると思うなよ)
主従の、そして未来のチームA組の、最悪の罠が待ち受ける軽井沢への進軍が、今、静かに始まろうとしていた。
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次回、林間学校編の本編でまたお会いしましょう。




