第二十九章 信頼とプライド
昨夜の西園寺家による襲撃事件を、持ち前の冷徹さで即座に処理した透亜。
すべてはいつも通りのチェス盤の上の出来事……のはずでしたが、驚異的な回復力で朝食を運んできた随伴員・翡翠の様子がどこかおかしく?
事件の緊迫感から一転、主従の距離がゼロ距離まで急接近する、甘くて少しバグり気味な日常編をお届けします。
窓から差し込む朝の光は、昨夜の凍てつくような緊迫感が嘘のように清々しかった。
神城の屋敷、透亜の自室。
手元の特注タブレットを滑らせる透亜の指先は、冷徹そのものだった。
画面に並ぶのは、昨夜、庭園で翡翠の肉の盾によって捕縛された、西園寺の影(襲撃者たち)から「人には言えない方法」で吐き出させた、醜い策略の全貌だ。
旧華族の格式だけで、中身は完全に傾きかけていた西園寺家。
詩織がメガバンク頭取の娘である一ノ瀬雛子を狙ったのは、彼女を誘拐・脅迫することで一ノ瀬家の膨大な金融資産と融資利権を強奪し、その資金力を手土産に神城の次男派閥と結託するためだった。
透亜をエスコート役に縛り付けようとしたのも、すべてはそれらの目を欺くカモフラージュも兼ねていたのだろう。
(一ノ瀬の資金力で次男の神輿を担ぎ、僕をそこに縛り付ける算段だったか。
……浅はかだね、西園寺詩織。僕のチェス盤をひっくり返そうとした代償は、一族丸ごと背負ってもらうよ)
画面をゴミ箱のアイコンへスワイプし、消去する。
西園寺にすべての罪をなすりつけ、生徒会長の権力にしがみついて生き残った醜悪な異母兄・冬馬の顔が脳裏をよぎるが、透亜は冷たく鼻で笑った。
(形勢不利と見て秒でトカゲの尻尾切りか。
目障りだが、しばらくは大人しくしているだろう。
今はまだ、泳がせておくさ)
しかし、透亜のミリ秒の計算回路は、すぐさま次の不穏な「ノイズ」へと移行する。
(……それにしても、一馬兄さんにリアルタイムでこちらの情報を流している『ネズミ』がいるな。
予測は立っているが……)
コンコン、とドアをノックした音がした後に、パチリ、と静かな部屋にドアの開く音が響いた。
思考を一瞬で切り替え、完璧なポーカーフェイスを張り直した透亜の前に、医師も信じられないと言った驚異的な新陳代謝で、すっかり毒の熱が引いた随伴員──翡翠が姿を現す。
いつも通り制服を着て、何事もなかったかのようにすました顔で朝食のワゴンを押してくるが、透亜の目は誤魔化せなかった。
翡翠の大きな瞳が、わずかに泳ぎ、頬がほんのり桃色に染まっている。
確実に、昨夜のことを意識している。
切り替えの早い優秀な護衛。
その姿を頑張って演じようとしている事が、自覚したばかりの透亜のなかの「いじわるな嗜虐心」をピクリと刺激した。
「翡翠。ネクタイ、結んで」
ワゴンを止め、一礼した彼女に透亜は短く告げた。
「はい……え? ですが、いつもはご自身で──」
「いいから。早く」
不承不承といった様子で、翡翠が至近距離まで一歩踏み込んでくる。
首元に回された翡翠の小さな手が、緊張でわずかに震えた。
(……いや、緊張だけじゃないな。左腕の負傷のせいもあるか)
制服の長袖の上からでも、昨夜の肉の盾による重傷を保護する痛々しい包帯の膨らみが分かった。
医師が驚愕するほどの新陳代謝で傷口は塞がりつつあるとはいえ、本来ならまだ動かすべきではないのだ。
労わる言葉をかけようとした透亜だったが、至近距離で見る翡翠の耳が、包帯の白さとは対照的に真っ赤に染まっているのを見逃さなかった。
透亜はわざと上体を数センチ詰め、逃げ場をなくすようにして、彼女の耳元へ唇を寄せた。
「……解熱処理、まだ足りなかった? 随分と手が震えているけど。
それとも、左腕がまだ痛む?」
「っ……!?!?(大爆発)」
弾かれたように顔を跳ね上げた翡翠は、みるみるうちに耳の裏まで真っ赤に染まった。
「い、いえ……っ!も、もももう、じゅ、十分です!私は元気ですっ……!!」
噛みまくりながら、必死でいつものトーンを作ろうとする翡翠。
そのしおらしい狼狽ぶりに、透亜の胸の奥はゾクゾクするような愉悦で満たされる。
主君の命令なんて野暮な特権は使わない。
命令じゃない。
君自身の意志で、僕の言葉に、僕という男に翻弄されればいい。
「そう?まだ本調子じゃなさそうだけど? ……ほら、早く結ばないと、また解熱作用を試すことになるよ」
「んなっ、……っ!!」
完全に茹でダコと化した翡翠は、その後の朝食の給仕中、ティーカップを置く手が狂いまくり、ガタガタと派手な音を立て続ける羽目になったのだった。
放課後。名門校の1年A組サロンは、いつになく騒がしかった。
「ちょっと神城ーー! 昨日のパーティーのあと、あんた達どこ行ってたわけ!? うちのパパが神城達にめちゃくちゃ感謝してたんだけど!」
無事に救出された一ノ瀬雛子が、いつものテンションでソファーに深く腰掛けながら絡んでくる。
「一ノ瀬、声が大きい。
僕はただ、僕の資産(人脈)に不快な害虫が近づくのを排除しただけだ。
君の父親への貸しは、いずれ別の形で回収させてもらうさ」
極上の営業スマイルで冷たくあしらう透亜に、雛子は
「相変わらず可愛げなーい! 翡翠ちゃん、こんな男のお世話大変でしょー!」
とケラケラ笑った。
いつも通りの明るい雛子だが、翡翠が教室に入ってきた時の心配そうな顔が本音だろう。
ややカラ元気気味に、雛子は明るく振る舞っていた。
当の翡翠は、ダサ眼鏡をかけ、気配を消して斜め後ろに直立している。
そこへ、特別推薦枠で飛び級してきた少年──千歳凪がトコトコと駆け寄ってきた。
凪は翡翠を見上げ、人懐っこい笑顔を作った。
「翡翠ちゃん! 来月の定期テスト、僕、勉強教えてあげようか? なんでも聞いてよ!」
「!!!」
「テスト」の言葉を聞いた翡翠がぎくっと身体を硬くした所へ、メディア王の次男・羽鳥晃がニヤニヤしながら乱入してくる。
「お、なんだなんだ? 飛び級天才児の家庭教師? 楽しそうじゃん。
なら俺も翡翠ちゃんに、メディアの裏側の『大人の勉強』を教えてあげよっか〜?」
晃が軽薄に翡翠の肩に手を置こうとした──その刹那だった。
パシッ、と小気味いい音が響く。
透亜が晃の手をごく自然な動作で叩き落とした。
髪一重で触れられなかった晃は、丸い目をパチクリとさせ、凪に顔を近づけて小声で緊急会議を始めた。
「…これはさ、透亜、自覚、したよね…?」
「西園寺詩織にあれだけはっきり言われたんだよ?さすがの透亜も、気づいたでしょ…」
「凪、それに晃。必要ない」
鉄壁のディフェンスをした透亜は、絶対零度の微笑みを二人に向けた。
「翡翠の脳細胞の管理(テスト対策)は、すべて僕が担当する。
お前たちから変な事を吹き込まれたら困るからな。」
「…っ!!!!」
背後で翡翠が、透亜のスパルタ家庭教師を思い出し声なき声をあげる。
横で見ていた雛子が、耐えかねたように吹き出した。
「いやいや、脳の管理って何それ!?
てか神城のディフェンス固すぎだし、ちょーウケるんだけど!」
サロンに雛子の爆笑が響く中、壁のモニターには『6月度定期テスト』の非情な通知が流れていた。
透亜は背後の翡翠を振り返り、
「というわけだ。今日の夜から、僕の部屋で猛特訓を始める」
と告げた。
翡翠は、眼鏡の奥で小さく「御意に……」と涙目になるのだった。
その夜、神城の屋敷の透亜の私室。
いつもの黒いチャンパオを身に纏った翡翠が、机の上で教科書と格闘していた。
「うぐぐ……この、コローニャの和約というのは、何故これほど登場人物が多いのでございましょう……。
暗殺対象の家系図より複雑であります……」
「コローニャじゃなくてボローニャだ。
ほら、集中して。ここ、次のテストに出るから」
透亜は自分の椅子を翡翠の真横に寄せ、ゼロ距離で赤ペンを走らせる。
だが、文字を読む訓練など『指令書』以外でほとんどしておらず、病み上がりの翡翠の脳細胞は、すでに限界を迎えていた。
「…………」
「翡翠?」
がくっ、と音が聞こえそうなくらい、翡翠の頭が不自然に揺れる。
見れば、睫毛が完全に閉じられ、小さな唇から規則正しい、微かな寝息が漏れていた。
ペンを握ったまま、完全にうたた寝を始めてしまったのだ。
透亜はペンを置き、静まり返った部屋で、その無防備な横顔をじっと見つめた。
翡翠は隠密組織『狐狸』出身のプロの護衛だ。
仕事上、どれだけ親しい同僚がいようと、他人が同じ空間にいる場所では絶対に眠らない。
熟睡など、命を捨てるのと同じだからだ。
だが──こいつは10歳の出会ったあの日から、僕のそばでだけは、時々こうして無防備にうたた寝をする。
もちろん、何かあればすぐに目覚めるが。
(……はは、嬉しいね。
世界で僕にだけは、完全に命を預けてくれているわけだ。
僕を、誰よりも信頼している証拠だ)
胸の奥に、極上の独占欲と優越感が満ちていく。
……しかし、脳内の計算回路が、ふと別の「解」を弾き出した瞬間、透亜の表情がピキリと固まった。
(……いや待て。
信頼されているのは最高に嬉しいが。
これって要するに、こいつにとって僕は『実家の空気』みたいな扱いで、僕を一ミリも『警戒すべき、一人の男』として意識していないからじゃないか……?)
昨夜、あんなに熱烈なキス(ほっぺだが)をして、今朝もあんなに真っ赤になっていたというのに。
男として少しでも意識しているなら、こんなゼロ距離の密室で「すやぁ……」と無防備に眠れるはずがない。
(おい、起きろバカ翡翠。僕は今、君をどうにでもできる『男』としてここにいるんだぞ。
……この矛盾した気持ちをどうすればいいんだ……!?)
鉄壁であるはずの透亜の天才脳が、眠る翡翠を前に「信頼の喜び」と「男としてのプライド」の板挟みになり、深夜の部屋でぐるぐるとバグり散らかす。
「……ん、……」
翡翠が小さく寝言を呟き、無意識に、トスンと透亜の肩に小さな頭を預けてきた。
規則正しい寝息と、すうすうと当たるかすかな体温。
「っ……!」
その瞬間、計算回路は完全に強制シャットダウン。
透亜は顔を真っ赤にしてフイと目を逸らし、固まったまま、動けなくなった。
(命令すれば、一瞬で僕を意識させることができる。
……でも、そんなのは嫌だ。お前自身の意志で、僕を好きにならなきゃ意味がないんだ……!)
複雑怪奇な恋の計算式に降伏した魔王は、肩に預けられた愛おしい重みを拒絶することもできず、ただ小さく溜息をついて、その黒髪をそっと優しく撫でるしかなかった。
翌朝。
パーティの時にむしり取った西園寺の全利権の移行報告書を携え、透亜は本家の書斎へと赴いた。
机の向こうには、冷酷な三白眼で書類を睨む長男──一馬が座っている。
一馬は一通り目を通すと、試すような冷笑を透亜に向けた。
「西園寺の娘をハメたか。
……だが透亜、お前、この狐狸の道具(翡翠)に随分と執着しているようだな。
これがお前の『アキレス腱』か?」
ここで動揺を見せれば、一馬は確実に翡翠を排除しに動くだろう。
彼女が自分の弱点だと悟らせるわけにはいかない。
透亜は唇の端を吊り上げ、極上の、冷徹極まりない「まがい物の微笑」を浮かべてみせた。
「まさか。一馬兄さん、僕を侮らないでいただきたい。
これは僕の手足であり、『最も都合のいい、切れ味の鋭い刃』に過ぎません。
……壊れれば、また別の道具を買えばいいだけの話です」
完璧な「道具扱い」のハッタリ。
一馬はその冷酷な響きに満足したように、「フン」と視線を戻した。
部屋を出た、薄暗い廊下。
影のように控えていた翡翠は、今の冷酷なセリフをすべて聞いていたはずだった。
だが、彼女は傷つくどころか、真紅のピアスをきらめかせて誇らしげに胸を張る。
「さすが透亜様。
私の『刃』としての価値を、一馬様に見せつけてくださったのですね!
これからも最高の道具として、神城の敵をすべて切り刻んで御覧に入れます!」
「……はぁ。お前は本当に、バカだな」
本当の誓いを胸の奥に秘め、胸を張る翡翠のおでこを、透亜は愛おしさを込めてツンと押す。
主従の境界線を溶かす魔王の求愛戦術と、黒いチェス盤の進撃は、ここからさらに加速していくのだった。
ご覧いただきありがとうございました!
昨夜の激闘(と熱烈な頬へのキス)を経て、確実に変化し始めた二人の距離感。
主君として「信頼されている喜び」と、一人の男として「警戒されていない焦り」の板挟みになり、深夜にミリ秒の計算回路を完全シャットダウンさせる透亜様が書けて大満足です(笑)。
一方で、冷酷なハッタリをポジティブに大誤解する翡翠のピュアな「道具(戦闘)脳」も彼女らしくて愛おしいですね。
この主従のじれったくも加速していく関係を、今後とも見守っていただけると嬉しいです!
評価や感想などもぜひお待ちしております!




