第二十八章 熱に溶ける境界線
拉致された雛子を無事に救出したものの、左上腕に毒刃を受けてしまった翡翠。
常軌を逸した新陳代謝でなんとか命を取り留め、高熱に浮かされる最強の護衛と、その枕元でついに自身の「仮面」を脱ぎ捨てる主君・透亜のお話です。
(※前作のパーティ会場でのドタバタからの続きとなります!)
窓の外は、凍てつくような漆黒の午前二時。
神城の屋敷の最奥にある、翡翠の私室。
主君である透亜の豪奢な部屋とは対照的に、そこは驚くほど物が少ない殺風景な空間だった。
クローゼットの横に、かつて透亜から贈られたペールブルーのワンピースと、鏡の前に置かれたダサ眼鏡だけが、主君からの賜り物として大切に飾られている。
その部屋のベッドで、最強の護衛──翡翠は、高熱に浮かされ、ハァハァと荒く苦しげな息を吐いていた。
拉致された一ノ瀬雛子は無事に救出した。
指一本傷つけさせなかった。
だが、その裏で翡翠の左上腕を抉ったナイフには、何かしらの毒が塗られていたらしい。
並の人間なら即死するそれを、
「信じられないが、毒に耐性がある事と、常軌を逸した新陳代謝で症状を「高熱」程度に抑え込んでいる、このまま安静にしていたらすぐに回復するだろう」
という神城家お抱えの医師の説明があったが、あまりに痛々しい肉体。
雛子には絶対に言わないでほしいという翡翠の願いもあって、パーティ会場からそのまま自室に連れ帰って療養しているのだがー。
「……バカが」
氷水を浸したタオルを絞り、そのおでこにそっと乗せながら、透亜は掠れた声で呟いた。
手元のタブレットは床に放り出されたままだ。
西園寺家を社会的に圧殺する戦術計算も、今は何一つ頭に入らない。
透亜は、寝返りすら打てずに熱く震える翡翠の右手を取り、両手で包み込むようにしてぎゅっと握りしめた。
その手のひらは、数々の命を奪ってきた硬いマメがあるのに、今は酷く小さくて、壊れそうなほど熱い。
いつもなら、脳内のミリ秒回路が「便利な手駒の損失を防ぐための合理的処置だ」と言い訳をのたまうはずだった。
10歳で出会ったあの日から、一馬の前で庇ったときも、スプリンクラーによってずぶ濡れになった翡翠を抱きしめたときも、ずっとそうやって自分を騙してきた。
だが、目の前で今にも消えてしまいそうなほど熱を出す彼女を前にして、透亜はもう、一枚の仮面すら維持できなくなっていた。
(……僕は、こいつが好きなのか?)
西園寺の、あの耳障りな絶叫が脳裏に蘇る。
神城透亜は、今人生最大の命題にぶつかっていた。
その時、熱のせいでとろんと潤んだ翡翠の瞳が、うっすらと開く。
長い睫毛が震え、焦点の定まらない視線がゆっくりと透亜を捉えた。
だが、その瞳に映っているのは、現在の「若き怪物」として恐れられる高校生の主君ではない。
どこか遠い過去──完璧な作り笑顔の仮面を張り付け、本家の大人たちにすり潰されそうになっていた、10歳の頃の小さな透亜の姿だった。
「……透亜様、」
熱に焼かれた微かな呼気と共に、掠れた声がこぼれる。
「また……いやなこと、あったんですか……?」
「え……?」
透亜は息を呑んだ。
「……また、本家の方と……どこか、いっちゃうんですか……?」
熱のせいで意識が完全に混濁し、今を10歳のあの日々だと錯覚しているのだ。
(こいつ……僕を、10歳の時だと思っているのか?)
透亜の喉が、切なさと愛おしさで猛烈に喘いだ。
あの頃、親族から「まがい物」と罵られ、道具として利用され、死んだ目で笑うしかなかった自分を、こいつはずっと誰よりも心配そうに、不器用に見つめていた。
翡翠はハァハァと熱い息を吐きながら、握られた透亜の手を、愛おしそうに自分の熱い頬へと弱々しくすり寄せる。
10歳の子供に戻ったような、たどたどしく、無防備で、優しい声音が、静かな部屋にぽつりと落ちた。
「大丈夫、です……。
また、いつでも……私がお外に、連れて行って……あげますから……」
「っ……!」
透亜の全思考回路が、今度こそ完全に降伏した。
西園寺の絶叫も、脳内の秒単位の損得計算も、神城の利権も、すべてがどうでもよくなる。
この少女は、自分が道具として利用されていた子供の時からずっと、ただ僕の心だけを命懸けで守ろうとしてくれていた。
(……はは、まいったな。
認めよう。
認めざるを得ない)
握りしめた手に、額を押し当てる。
(可愛い。
可愛い僕の翡翠。
君が大好きだ。
……ずっと、子供の時から)
鉄壁だったポーカーフェイスが完全に溶け落ち、この上なく優しく、少し泣き出しそうなほど愛おしさに歪んだ眼差しで、透亜は翡翠を見つめた。
ゆっくりと上体を屈める。
透亜は、熱で薔薇色に染まった翡翠の、柔らかいほっぺたに、吸い付くような深い深いキスを落とした。
静まり返った部屋に、小さく、鮮明なリップ音が響く。
その瞬間──。
「……っ!!!???」
熱のせいか、それとも今脳天を突き抜けた信じられない衝撃のせいか。
翡翠の脳内処理が完全に焼き切れた。
10歳の記憶が一瞬で吹き飛び、現在の高校生の透亜の顔が、睫毛が触れ合うほどの至近距離にあることに気づいて、その大きな目を限界まで丸くする。
みるみるうちに顔全体から湯気が出そうなほど真っ赤になり、
「と、透亜様……っ!? な、何を、なにをっ……っ!?」
パニックで完全に噛みまくり、呂律も回らないまま、怪我も忘れてベッドから跳ね起きようとする翡翠。
そんな彼女の肩を、透亜は綺麗な手のひらで、そっとベッドへ押し戻した。
その顔に浮かんでいたのは、これまでの冷徹な仮面をすべて脱ぎ捨てたような、意地悪で、でも──最高に嬉しそうで楽しそうな、極上の「にっこりスマイル」だった。
「……べつに。皮膚接触による体温伝導が、高熱における解熱作用を促すとどこかの医学書に書いてあったなーって」
「う、嘘……っ! そんな、そんな不埒な医学的根拠、聞いたことが……っ!!」
「主君の計算に異論を唱える気? ……ほら、大人しく寝てないと、次はもっと効果的な部位で解熱処理を試すことになるけど」
「んなっ……!!!!!(大爆発)」
翡翠はついに頭まで布団をすっぽり被り、中でガタガタと震えながら完全に沈黙した。
布団の端から覗く耳の裏まで、あの真紅のピアスよりも真っ赤に染まっている。
それを見届けた透亜は、クツクツと喉を鳴らして笑いながら、放り出していたタブレットを拾い上げた。
画面を操作する指先は、さっきまでの震えが嘘のように軽い。
(……いいね、そんな顔も、悪くない)
自覚した「魔王」の、この上なく甘い余韻に満ちた微笑みが、深夜の自室に静かに溶けていった。
ご覧いただきありがとうございました!
どれだけ肉体が怪物級に強靭で、翌日にはケロッと毒を代謝しきってしまう翡翠でも、透亜様からの「不意打ちの甘い猛毒」にだけは一生耐性がつきそうにありません(笑)。
理詰めの魔王様が完全降伏する瞬間と、ピュアすぎる護衛の脳内大爆発バグを楽しんでいただけていたら幸いです!
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