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第一六章 16歳編〜 春の兆し 机上の格闘

いつもありがとうございます!


月下の誓いを交わした緊迫の夜から数日。

今回は、学園進学を決めた透亜様による、翡翠の「お勉強スパルタ(?)回」です。


殺伐とした世界で育った翡翠が、初めて『文字の美しさ』に触れるシーンにもご注目ください。

それでは、どうぞ!

月下の誓いを交わした緊迫の夜から、明けて数日後。


神城家の広大な屋敷の一室、透亜の自室からは、いつになく騒がしい、けれどどこか気の抜けた声が漏れていた。


「……透亜様、お願いですからその恐ろしい形をした記号を私に向けないでください。私の勘が、それは非常に危険な暗殺用のトラップだと告げています」


「ただのルート(根号)だ、バカ。お前、さっきから問題用紙から30センチは距離を取ってるぞ。敵のクナイじゃないんだから怯えるな」


机の上にうず高く積まれた参考書と問題集を前に、透亜はこめかみを指で押さえながら、盛大にため息をついた。


対面に座る翡翠は、普段の任務で見せる俊敏な身こな配置はどこへやら、鉛筆をまるで慣れない武器のようにぎこちなく握りしめ、問題集を睨みつけている。


透亜が一馬への報告を終え、自身の目的――神城家の完全な掌握と、強固な人脈・腹心作りのために「学校への進学」を決めたのが数日前。


神城の人間や政財界の子息が通う、幼稚舎から大学まで一貫の難関名門校。そこが、透亜が籍をおく場所となる。


同時に、翡翠に「普通の女の子の生活」を経験させるため、彼女も同じ学校の生徒として入学させる手続きを裏で進めていた。


幸い、翡翠は隠密組織『狐狸』で育っただけあって、任務に必要な読み書きや、暗号解読、実務的な計算といった「仕事に困らないレベルの教育」は叩き込まれている。


頭の回転自体は決して悪くない。


だが、受験勉強のような「純粋な座学」は完全に未体験ゾーンだった。


「だいたい、何で私がこの『世界史』なんてものを学ばねばならないのですか? 私は透亜様以外の歴史に興味はありません!」


「お前なぁ……。一応、面接と筆記試験があるんだよ。


神城の力でねじ込むにしても、名前を書いたら裏口入学だとバレるような点数取られたら僕の面目が丸潰れだ。


ほら、次は現代文の長文読解。これなら読めるだろ」


透亜に促され、翡翠は「うう……」と唸りながら、教科書の文章に視線を落とした。


いつもなら一瞬で周囲の気配を察知するその大きな瞳が、今は活字を熱心に追っている。


最初は義務感から渋々読んでいた翡翠だったが、数行読み進めるうちに、ふと、その瞳の揺れが変わった。


「……あ。このお話、なんだか面白いです」


ぽつりと、翡翠が呟く。


それは、ある古びた街の情景を描いた、美しい短編小説の一節だった。


『狐狸』にいた頃、与えられる文字といえば「標的のデータ」か「暗殺の指令書」だけ。


文字の羅列から、これほど鮮やかな情景や他人の感情が脳内に浮かび上がる経験など、彼女には一度もなかったのだ。


「いいね。それは名作だ」


「おぉー……! 文字って、ただの情報を伝えるだけじゃなくて、こんな風に景色を頭の中に作れるんですね。……すごいです」


ぱあっと顔を輝かせる翡翠を見て、透亜は小さく口元を緩めた。


彼女がこうして、暗殺以外の「新しい世界の楽しさ」に触れていく。


その姿を見るだけで、夜を徹して勉強に付き合っている苦労など、一瞬で吹き飛ぶような気がした。


翡翠が大切そうに教科書のページをめくるのを見計らい、透亜は手元の紅茶を一口すすった。


ふと、窓から差し込む穏やかな昼下がりの光を見つめながら、透亜は思い出したように口を開く。


「そういえばさ。学園に行ったら、冬馬たちも、何かしら接触してくると思う」


その言葉に、翡翠の空気が一瞬で「護衛」の鋭いものへと切り替わった。


冬馬は透亜の2歳年上。


10歳の頃、透亜と翡翠の完璧な連携によって『全負債引き受け同意書』にサインさせられ、後継者レースからは完全に脱落(失脚)した哀れな男だ。


とはいえ、血筋自体は正統な本家。


神城の泥を塗られた過去を裏で激しく根に持ったまま、高等部の最上級生(3年生)として学園に在籍しているはずだった。


「冬馬……。あの、かつて透亜様の『出自』のことを、汚い言葉で罵っていた無礼者ですね。


10歳の時に全財産ごと叩き潰して失脚させたというのに、まだ懲りずに学園に這いずり回っているのですか。


わかりました、入学初日に机ごと闇に葬り—」


「物騒なこと言うな。……まあ、あいつらの言うことも、事実ではあるんだけどな」


透亜は、まるで明日の天気でも話すような、軽いトーンでさらりと言ってのけた。


「え……?」


「僕、実は神城の血、半分しか入ってないんだよ。


母親は神城の娘だけど、親父は完全に外部の人間。


だから、あいつらからすれば、僕は正統な血を汚す『まがい物』ってわけだ」


お茶のカップをソーサーに戻しながら、透亜はフッと自嘲気味に、けれどどこか吹っ切れたような顔で窓の外を見た。


本家の甥に過ぎない透亜が、なぜこうして本家で育てられているのか。


それは幼い頃から、透亜の頭脳が神城の誰よりも優れ、その容姿が恐ろしいほどに美しかったからだ。


本家は彼を「惜しい駒」として手元に囲い込んだ。


それが、冬馬たち本家の子供らの激しい嫉妬を買い、陰湿な「血筋への罵倒」へと繋がっていた。


かつては、その出自を呪い、神城の血を憎んだこともあった。


けれど、そんな暗い過去は、この屋敷に翡翠が来たあの日から、もうどうでもよくなっていた。


「昔は少しは気にしたかもしれないけどさ。……別に、今はどうでもいいから」


透亜の口から紡がれた、あまりにも淡々とした、けれど絶対的なその言葉。


翡翠はドクンと胸が大きく跳ね上がるのを感じた。


その瞬間、彼女の脳裏に、数日前の月夜の記憶が鮮烈に蘇る。


自分の冷たい手の甲に落とされた、あの柔らかで、狂おしいほどに深いキスの感触。


(……あ、あう……)


急激に顔が熱くなり、翡翠の耳の先まで真っ赤に染まっていく。


透亜は過去の呪縛など、とっくに引きちぎって前を向いている。


その横顔が、嬉しくて、気恥ずかしくて、胸がはち切れそうだった。


「な、何赤くなってるんだ、お前は」


透亜が不審そうに眉をひそめると、翡翠は慌てて教科書で顔を隠し、大声で誤魔化した。


「な、なんでもありません! 現代文! 現代文を読みます! 読書、最高です!」


「なんだそりゃ。……まあいい。それが終わったら、次は英語の長文だ。そっちも文章としては面白いぞ」


「ひえぇ…、英語の呪文は勘弁してくださいぃ!」


真っ赤な顔のまま、今度は英語のテキストと格闘し始める翡翠。


その不器用な姿を眺めながら、透亜は静かに微笑んだ。


神城の血など、本当にどうでもいい。この少女がこうして、自分の隣で新しい世界を知っていく。


それだけで、自分の歩む復讐への道には、十分すぎるほどの価値があるのだから。


春の風が、開いた窓から優しく吹き込み、机の上の参考書をパタパタと揺らしていた。




お読みいただきありがとうございました!


次回からは、高校生編です!

新キャラもたくさん出てきますのでお楽しみに!


本日20:00頃に、もう1話更新します!


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