第十五章 月下の誓い
狂おしいほどの愛おしさと歪んだ独占欲。月光の道場で、冷酷な主君は静かに絶対の誓いを刻む――】
深夜、静まり返る神城邸。
いつもなら無邪気な笑顔で誤魔化す彼女が、今夜、初めて口にした凄絶な『過去』。
そして――その過去を今まで隠していた、あまりにも健気で愛おしい理由。
冷淡なツンデレ主君と、健気な護衛。二人の絆が深まる、とある夜の静かな一幕。
深夜、神城邸の静寂が、透亜の思考をチクチクと刺していた。
ベッドに入っても一向に眠気が訪れない。
透亜は薄手のナイトウェアの上に上着を羽織ると、気分転換の散歩がてら、邸内にある道場へと無意識に足を向けていた。
あいつなら、もしかしたらあそこにいるかもしれない――そんな予感があった。
道場の重い引き戸を静かに開けると、予想は的中した。
静まり返った空間。月光が板張りの床を白銀に照らす中、そこには一心不乱に体術の型を繰り返す翡翠の姿があった。
昼間の戦闘で遅れを取ったことが、余程悔しかったのだろう。無造作に束ねた黒髪から汗を散らし、いつもの無邪気な笑顔を完全に消し去ったその横顔は、鬼気迫るものがあった。
「……何をしている」
透亜が低く声をかけると、翡翠はびくりと肩を跳ね上げ、慌てて構えを解いた。
包帯の巻かれた手をさりげなく背後に隠しながら、いつものようにわざと明るい声を張り上げる。
「あ、透亜様! すみません、夜分遅くにバタバタと。ちょっと昼間の動きに納得がいかなくて、自主練を――」
「翡翠」
透亜はそれ以上、彼女に「無邪気の仮面」を被ることを許さなかった。
真っ直ぐに歩み寄り、その大きな瞳をじっと見つめる。
嘘偽りを許さない主君の冷徹な、けれどどこか心配そうな視線に晒され、翡翠は次第に言葉を詰まらせ、視線を泳がせた。
やがて、ポツン、ポツンと、今まで決して口にしなかった自らの凄絶な『過去』を話し始めた。
「…私は元々……中国の大道芸一座にいました。そこから…私の身体能力に目をつけた、『狐狸』に買われたんです。
そこには「お師匠様」が何人かいて……昼間のあの晋は、私の兄弟子です」
透亜は眉をひそめたが、遮らずに耳を傾ける。翡翠の、淡々とした声が道場に響く。
「子供というのは、それだけで相手の油断を誘いやすいんです。
だから、私は晋たちと一緒に……数え切れないくらい、たくさんの人を殺しました。
どんな人の顔だったかも、もう覚えていないくらいに」
翡翠は自分の小さな、包帯の巻かれた手をそっと見つめた。
「でも、神城に来てからは、私は一人も殺していません。透亜様が、私に一度もそんな命令をしなかったから。
……私くらいの年齢になると、普通は『房中術』のような、男の人を色香で騙す技術も仕込まれたりするんです。
でも、私は何も知りません。透亜様が、そういう密偵に私を一切使わなかったから」
翡翠はゆっくりと顔を上げると、耳元で静かに輝く真紅のピアスに触れ、健気に微笑んだ。
「ありがとう、透亜様。あなたのおかげで、私は普通の女の子のように、ただの無邪気な翡翠でいられた。
私はこの一生ぶんの特大のご恩を、あなたに返したいんです。これからも、ずっと透亜様にお仕えしたい。だから……」
翡翠の感情がむき出しの、綺麗な瞳が、切なげに透亜を捉える。
敬語が剥がれ落ちたその声は、震えていた。
「だから……私の過去を知っても、どうか、……嫌いにならないで」
その瞬間、透亜の脳裏を、激しい衝撃が突き抜けた。
今までどんな過酷な状況でも強がり、自分の素性を頑なに話そうとしなかった理由。
それが、他でもない――自分に『嫌われたくない』という、あまりにも健気で、あまりにも愛おしい理由だったとは。
(僕に嫌われたくなかったのか……そうか……)
胸の奥から湧き上がる狂おしいほどの愛おしさと、酷く歪んだ独占欲。
油断すればニヤけてしまいそうになる顔を、透亜は片手で口元を覆って必死に隠した。
「……?」
主君の沈黙を拒絶と捉えたのか、翡翠が不安そうに身を縮める。
それを見た透亜は、ゆっくりと手を下ろすと、一歩、彼女との距離をゼロにするように踏み込んだ。
底知れない愛おしさと敬意を込めて、透亜は静かにその場に片膝を突き、翡翠の前で跪いた。
驚いて手を引こうとする翡翠の手首を優しく捕らえ、その小さな、戦いで少し荒れた手の甲に、そっと唇を落とす。
手の甲にキスを落としたまま、透亜は心の中で、冷酷で激しい絶対の誓いを刻んでいた。
(お前を道具のように扱い、その心を傷つけた『狐狸』も、神城の大人たちも、すべて僕がこの手で叩き潰す。お前が笑っていられるように、何者にも脅かされない絶対の地位を手に入れる)
月光が、白銀の道場で寄り添う二人を神聖に照らし出す。手の甲から伝わる唇の熱に、翡翠は思わずぽつり、と呟いた。
「……なんだか、どこかのお嬢様になったみたいです」
照れ隠しのようなその言葉に、透亜は跪いたまま、フンと鼻を鳴らした。
「こんなおてんばなお嬢様がいてたまるか」
透亜は手を離してすっと立ち上がると、わざとらしくフイッと背を向けた。
「お前の過去なんてどうでもいい。そんなくだらないことで悩んでいる暇があるなら、さっさと寝ろ」
いつものように冷淡な憎まれ口を叩きながら、透亜は道場を去っていく。
けれど、その背中を見送る翡翠の耳元では、透亜の贈った真紅のピアスが、月光を受けて優しくきらめいていた。
翡翠は去っていく主君の後ろ姿に向かって、心の底から嬉しそうに、にこっと笑うのだった。
「はいっ! おやすみなさいませ、透亜様!」
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
今回はいつもと少し雰囲気を変えて、夜の道場でのシリアス&糖度高めな主従のやり取りをお届けしました。
翡翠の口から語られた過去はかなり壮絶なものでしたが、神城に来て救われていたこと、そして何より透亜に「嫌われたくない」という一心で怯えていた姿には、作者としても書いていて胸が締め付けられました……! 普段のチョロくてピュアな彼女が、敬語を無くして縋るシーンはギャップが凄まじかったですね。
そして、それを受け止める透亜様。
この二人の関係性、尊いな……と思ってくださった方は、ぜひ評価やブックマーク、感想などで応援していただけると執筆の励みになります!




