第十三章 狐と狐 歪む仮面
いつもお読みいただき、ありがとうございます!
今回はシリアスモードです。
放課後のサロンで繰り広げられる、透亜の冷徹なチェス(外交面)と、それを裏で支える翡翠。
完璧なチェックメイト……かと思われたその瞬間、九条家の影――「晋」が、翡翠の過去のトラウマを揺さぶりに動き出します。
普段はチョロくて可愛い翡翠ですが、今回は過去の因縁と恐怖に直面することに。
そして、自分の「所有物」に手を出す狂犬に向けられた、透亜様の絶対的な殺意をお楽しみください!
放課後のサロンは、西日から遮るように引かれた重厚なカーテンのせいで、どこか薄暗い。
その優雅な空間で、透亜は完璧に計算され尽くした極上の微笑みを浮かべ、目の前の令嬢を見つめていた。
「九条の物流ルートが神城の妨げになっている、だなんて……滅相もありません、麗華様。
ただ、僕のような未熟者が一馬兄さんの無理難題を押し付けられ、困り果てているのを見かねて、少しだけお知恵を拝借できればと思っただけですよ。
……麗華様のように、聡明で慈悲深い方にしか頼めないことですから」
低く、耳元で囁くような甘い声。
だがその瞳の奥は、ガラス玉のように冷徹に冴え渡っている。
九条財閥の物流部門の弱み、そして麗華の「透亜の前で完璧な淑女でありたい」というプライド――その双方を冷酷に突き、外堀を埋めていく、透亜の極めて洗練された悪知恵だった。
「も、もう! あなたがそこまで九条の力を借りたいと言うのなら、仕方のない方ね! お父様に口を利いて差し上げなくもないわ!」
麗華は顔を真っ赤にしながらも、高飛車にツンと胸を張る。
そして、学校の鞄から九条のプライベートサロンへの特別な紹介状を取り出すと、それを透亜へと手渡した。
そこへのアクセス権さえあれば、一馬から要求されていた物流ルートの全貌を毟り取ることができる。
チェス盤の上は、完全に透亜のチェックメイトだった。
透亜の斜め後ろに給仕として控える翡翠は、その様子を静かに見つめていた。
透亜の見事な手腕に対する、「さすが私の透亜様」という全幅の信頼をその瞳に宿しながら。
「……あら、お茶が少し冷めてしまいましたわね。晋、淹れ直してきて頂戴。私は少し化粧直しに席を外しますわ」
「かしこまりました、お嬢様」
麗華が席を立ち、背後に控えていた晋もにこやかに一礼して退出する。
サロンの扉が閉まり、一気に静まり返った室内。
透亜が手に入れたばかりの紹介状に目を落としようとした、次の瞬間だった。
スッ、と不穏な影が差し、いつの間にか戻っていた晋の手が、神速で透亜の書類へと伸びる。
――だが、その指先が届くより早く、翡翠の身体が動いていた。
翡翠は透亜の前に割り込み、晋の手首を容赦ない力でガシッと掴む。
しかし、晋もまた、最初から翡翠の動きを読んでいたかのように、恐るべき反応速度で翡翠の手首をガチリと掴み返していた。
お互いの手首を掴み合ったまま、ピタリと動きが止まる。サロンの空気が、一瞬で肌を刺すような臨戦態勢へと跳ね上がった。
晋は手首を強く握られているにもかかわらず、痛がる風でもなく、にこにこと楽しげに笑っている。
「おっと、相変わらず鋭いねぇ。お嬢様が透亜様にこれをお渡しになるまでは完璧にサポートしたよ。
だけど、お嬢様の手を離れた瞬間に、これは敵の資産だ。処分するのは私の仕事でしょう?」
掴み合った手首から、ジワリと晋の冷徹な気配が伝わってくる。
その不気味な感触に、翡翠の身体が微かに、けれど確実に恐怖で震え始めた。
晋は翡翠のその僅かな震えを見逃さず、嬉しそうに目を細めて、彼女の耳元へ顔を寄せる。
「昔から君はそうやって、にっこり無邪気に笑って心を隠していたよね。
お師匠様も僕も、その『冷たい仮面』が大好きだったんだ。……なのにさ」
晋の目が、一瞬だけ生気のない三白眼のように据わる。
「神城の坊ちゃんに甘やかされて、随分と柔らかくて気味の悪い笑顔をするようになったじゃないか。
昔みたいに、俺たちのいたあの頃のように、今にも人を殺しそうな目で笑ってよ、翡翠」
――10歳の頃。お互いに幼く、張り詰めた日々の中で、罰を覚悟で透亜を外へと逃がしてあげた、あの日の記憶。
あの時、ただの護衛だった自分を、透亜は確かに庇ってくれた。涙なんて疾うに枯れ果てたと思っていたのに、透亜の側でだけは、あたたかい涙を流すことができたのだ。
せっかく透亜の隣で、本物の「柔らかい笑顔」を手に入れたのに。それを晋に「気味悪い」と否定され、翡翠の唇がガタガタと戦慄く。
その瞬間、透亜の胸の中で、冷徹な理性をすべて焼き尽くすほどの激しい怒りが跳ね上がった。
透亜は制服の胸ポケットに引っ掛けたメガネを、上から静かに、壊さんばかりの力で押さえつける。そして、晋を射殺さんばかりの冷酷な視線で睨みつけた。
「僕の前で、僕の『所有物』にその汚い口を聞くな。……チェスをする気もないのか、獣め」
「まさか」
晋は胸ぐらを掴まれそうな至近距離になっても、相変わらずにこにこと笑っている。
「私はチェスが大好きですよ、神城の透亜様。……では、次のゲームを始めましょうか。」
ガチャ、とサロンの扉が開いたのは、その直後だった。
「お待たせいたしましたわ! ……って、あら? 何かしら、その物騒でお行儀の悪い空気は?」
麗華の、高飛車で能天気な声が室内に響く。
その瞬間、張り詰めていた空気が嘘のように霧散した。
晋はスッと翡翠から手を引くと、何事もなかったかのように一歩下がる。
「お嬢様、お茶の準備が整いました」
「あら、手際が良いわね。さあ透亜様、お茶にいたしましょう?」
麗華の笑顔の裏で、晋は透亜に向かって、楽しそうに細めた目で小さく会釈をして見せた。
透亜は何も言わず、ただ、未だ微かに震えている翡翠へと、静かに視線を向けた。
――大丈夫だ。
言葉もなく、ただ真っ直ぐに注がれたその瞳の力強さに、翡翠の震えが、ゆっくりと、だけど確実に収まっていく。
翡翠は深く息を吐き出すと、透亜にしか分からない、いつもの信頼に満ちた微かな笑みを返した。
(九条の影……いや、晋。お前という狂犬を、チェス盤の上で完全に叩き潰してやる)
翡翠と視線を交わし、彼女の心の平穏を取り戻したことを確認しながら、透亜は静かに、けれど絶対的な殺意をその胸の奥に灯した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
麗華お嬢様の圧倒的「実家のような安心感(能天気)」のおかげで命拾いした(?)サロンの面々でした。麗華様、ある意味で最強のストッパーです。
それにしても晋、底が知れなくて不気味な男ですね……。
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