第十二章 無性に腹が立つ!
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今回は学園編・第1話の後半戦。
不穏な言葉を残した九条家の従者・晋に対し、透亜様が「神城の人間」として冷酷に牽制をかけます。
そして放課後、お迎えの車内という完全な密室で繰り広げられる、二人のもどかしすぎるやり取りにご注目ください。
いつもは強気な猟犬が見せる「本当の姿」と、それに対する主君の対応は……?
極上の主従関係を、どうぞお楽しみください!
「おや、そこにいるのは……懐かしいな。随分とへんてこな変装だね。
せっかく綺麗に調教されたお師匠様の『お気に入り』だったのに、神城の飼い犬になって、すっかりマヌケなツラになったなぁ」
声色ひとつ変えず、どこまでも穏やかで優しいトーンのまま、晋の口から飛び出したのは容赦のない毒だった。
(…こいつ、狐狸か……?)
透亜の瞳が、一瞬で冷酷な獣のように細められる。
隣の翡翠は、晋のそのにこにことした笑顔を見つめたまま、小刻みに震え、一歩も動けなくなっていた。
「な、何言ってるのよ晋! 透亜様の前で失礼な真似はっ……」
赤くなった顔のまま、麗華が戸惑ったように声を上げる。
透亜は完璧な優等生の仮面を剥がさなかった。むしろ、さらに深く、冷徹な笑みを唇に刻む。
「九条の影は、随分とおしゃべりが過ぎるらしい。
……麗華様、少しお行儀の悪い躾がされているようです。おいたが過ぎるネズミは、神城ならすぐに処分しますが?」
至近距離から麗華を冷たく見下ろすと、彼女はひっと息を呑み、さらに顔を真っ赤にして縮こまった。
晋は相変わらずにこにこと微笑んだまま、スッと一歩後ろに下がる。
「これは失礼。お嬢様のお手を煩わせるわけにはいきません。神城の透亜様、どうかお許しを」
「……少し失礼する」
透亜は晋を一瞥もせず、凍りついたままの翡翠の腕を掴むと、そのまま踵を返した。
サロンを後にする足取りは、いつになく速い。
「透亜、様……」
誰もいない通路の陰に入った瞬間、透亜は足を止め、朝わざわざかけさせたあの野暮ったい黒縁メガネを、翡翠の顔からそっと外した。
冷静な所作を装っていたが、外したメガネを握る透亜の指先には、自覚のないほど強い力が入っている。
「……おい、何だあいつは」
低く、抑えきれないトーンの声。
しかし、メガネを外された翡翠の瞳はまだ微かに揺れている。それでも、翡翠は必死に唇を噛み締めると、一瞬でいつもの満面の笑顔を作ってみせた。
「な、なんでもありません! ちょっと、昔の知り合いがいてびっくりしちゃっただけで! さ、透亜様、麗華様がお待ちです。行きましょう!」
完璧に「いつも通り」を装う、無邪気な声と笑顔。
だが、その健気な強がりこそが、透亜の心を激しく掻き乱した。
話したくない過去があるなら、無理に暴き立てて傷つけたくはない。けれど、自分にだけはすべてを預けて、隠し事なんてしないでほしい――。
そんな矛盾した二つの感情が胸の中で激しくひしめき合い、どうしようもない苛立ちとなって透亜を焦がす。
透亜は何も言わず、持っていたメガネを自分の制服の胸ポケットにスッと引っかけると、ただチッと小さく舌打ちをして、再び麗華たちの待つサロンへと足を進めた。
――その後、放課後になるまでの数時間。
透亜はいつも通り、完璧に計算され尽くした美貌と甘い言葉で麗華を完全に翻弄し、九条の手札を順調に毟り取っていった。
チェス盤の上は、すべて神城の、透亜の思い通りに進んでいる。……給仕に回る翡翠が、視界の端に映る晋の存在に、ずっと指先を震わせていること以外は。
そして、放課後。
すべての目的を果たし、ようやく迎えの高級車へと乗り込んだ。
パーテーションが上がり、後部座席が完全な密室になる。
透亜はシートに深く背を預け、腕を組んだまま、不機嫌さを隠そうともせず窓の外の景色を睨みつけた。
車内に、耳が痛くなるほどの静寂が支配する。
(チッ……なんでお前がそんな、被害者みたいな顔をしてるんだ。僕に隠し事をするからだろうが)
隣の翡翠は、シートの端で信じられないほど小さく縮こまっている。
これ以上彼女の顔を見ていたら、さらに調子が狂う。透亜が視線をさらに窓の外へ逸らそうとした――その時だった。
スッ、とジャケットの裾を、微かに引かれる感触があった。
「……?」
視線を落とせば、翡翠の細い指先が、透亜の制服の裾をぎゅっと、千切れんばかりの力で握りしめている。
顔をうつむかせているため表情は見えない。けれど、その指先は小さく震えていた。
口では「平気です」と無邪気に笑ってみせた少女の身体が、本能的な恐怖に耐えかねて、隣にいる唯一の主の元へ、無意識に縋りついている――その明白な証拠だった。
「……おい」
透亜が低く声をかけると、翡翠はびくりと肩を跳ね上げ、自分の手元を見て大きく目を見開いた。
「あ! す、すみません……っ!」
自分が何をしているのか、本当に気づいていなかったのだろう。翡翠は弾かれたようにぱっと手を離すと、顔を真っ赤にして、バツが悪そうに視線をあちこちへ泳がせた。
いつもの余裕な彼女からは想像もつかないほど、脆く、頼りなげに揺れている。
その、しおらしい姿を見た瞬間。
透亜の胸の奥で煮えくり返っていたドロドロとした苛立ちが、嘘のようにストンと消え去っていった。
(……はぁ。本当に、強がるなら最後まで隠し通してみせろよ)
形だけの深いため息をひとつ。透亜はチッと小さく舌打ちをすると、固く組んでいた腕を解いた。
そして、不機嫌そうな顔はそのままに、自分の手のひらを上に向けて、翡翠と自分の間のシートへと、ぶっきらぼうに差し出した。
「……掴むなら手にしといてよ。服が皺になるでしょ」
一瞬、車内の時間が止まった。
翡翠は差し出された綺麗な手のひらを見つめ、それから透亜の顔を、パチパチと瞬きをしながらきょとんと見上げる。
透亜は視線を合わせないまま、「早くしろ」と言いたげに指先を少しだけ動かした。
次の瞬間、意味を理解した翡翠の顔に、曇りひとつない、世界を照らすような無邪気な満面の笑顔がパッと咲いた。
「はいっ!」
嬉しさを隠しきれない、弾んだ声。
翡翠はその小さな手で、差し出された透亜の手を、ぎゅっと強く握りしめた。
晋の残した毒に冷やされていた車内の空気は、合わさった手のひらの熱で、瞬く間に溶かされていく。
透亜は繋いだ手に少しだけ力を込め、もう一度窓の外を向いた。
その口元には、先ほどまでの冷酷さは完全に消え、ほんの少しだけ、満足そうな笑みが浮かんでいた。
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