天華に捧げる竜の歌 2
マルグリット商会から警視庁までは、ディートヘルの足ならば歩いて五分もかからない。本来ならすでに警視庁に着いていてもよい頃だというのに、ディートヘルはいまだ、警視庁の門にさえ辿り着いていなかった。
警視庁の門が目視できるところまで来たディートヘルだったが、その手前で、一人の亜人の男がディートヘルを見つけ、言いがかりをつけてきたからだ。
「おい。何ボケっとしてんだよ。蜥蜴は耳が遠かったかあ?」
ディートヘルに喧嘩を売ってきたのは、どうやら犬科の亜人らしかった。旧大陸内では聞いたこともないような色の交じった斑の毛並みをしており、種類の判別が難しい。
その亜人の男は、ゆらゆらと頭部を揺らしながらも、目だけは威嚇するようにディートヘルを見据えている。ただ悲しいことに、男の行為は、ディートヘルに対しては何ら威嚇行動になっていない。ディートヘルにしてみれば、威嚇されたという認識どころか、この男は何故ゆれているのだろうかと、つい心配をしてしまったほどだ。
しかもこの男、耳と尻尾の他顔にまで体毛が見られるが、どうやら亜人としての本能は弱いらしい。そうでなければ、ディートヘルに対し喧嘩を売ろうなどとはまず思わないだろう。相手と己の力量差さえ計れぬとは、やはり新大陸の亜人はかなり野生の血が薄くなっているらしいと、ディートヘルは納得した。
だが、それもまた良しと、ディートヘルなどは思っていた。この新大陸では、旧大陸の亜人程の生命力など、必要としないからだ。
新大陸の亜人たちは、人間や他種族と交配することで、その野生の血を薄めていった。そのことを嘆く者たちは新旧の大陸内に存在したが、けれどディートヘルに言わせれば、そうではない。新大陸に移った亜人たちは、闘争ではなく共生の道、そして旧大陸の亜人たちとは、別の進化の道を選んだに過ぎないのだ。
旧大陸における亜人の世界は、厳しい世界だ。いかに亜人が頑健な肉体を持っていようが、旧大陸の雄大な自然は、時にその頑健さをもってしても耐えられぬ程の苛烈さを見せる。旧大陸で生きること、生き抜くことは、自然との戦いでもあるのだ。
旧大陸を出て新天地を目指した亜人たちは、そんな旧大陸の過酷な自然の中で生きるには、適さない種だったという者たちもいる。彼らは種を存続させるため、自らが生まれた大地を離れ、冒険に出たのだ。それはとても勇敢な行為であると、ディートヘルは思っている。
「おい! 聞いてんのかよ! さっさと金だせって言ってんだろ?」
うっかり遠い先祖に想いを馳せていたディートヘルは、目の前の男を見てどうしたものかと考えた。
新大陸の亜人たちを侮る気はなかったが、この男のしていることはいただけない。そしてディートヘルには、ここで素直にこの男に金をくれてやる義理もない。だが断ったところで聞いてくれるかは……まあ難しいだろう。それでも基本争いごとを好かないディートヘルは、試しに断りの文句を口にしてみた。
「生憎と、君にくれてやる金はないな。金が欲しいなら自分で稼ぎたまえ」
案の定、ディートヘルがそう言った途端、男の顔色が変わった。
「……てめえ」
そして、すぐさまディートヘルに殴りかかって来た。かなり短気のようだ。
仕方なしに、ディートヘルは男に応戦することにした。だが、こちらから手を出すようなことはしない。ディートヘルは半身を僅かに傾けることで男の拳を避けると同時にその腕を掴み、勢いを殺さぬよう真後ろへ弧を描くように引っ張った。自身でつけた勢いとディートヘルに加えられた僅かな力により、男の身体が空中を前転をするように飛ばされていく。
ディートヘルは直接、男の身体には攻撃を加えていない。男は単に自滅しただけだ。だが、恥をかかされたと思ったのだろう、飛ばされた先で地面から起き上がった男は、手にナイフを握りしめていた。
「牙と爪の代わりかな? 確か刃物を振り回すのは、新大陸では法律に反するのではなかっただろうか」
「うるせー! このナイフはなあ! 黒蜥蜴の皮膚さえ切り裂くくらいの業物なんだよ! てめーのその真っ赤な皮膚を剝ぐくらい、訳もねーぜ!」
叫ぶやナイフで切りかかって来た男に対し、今度はディートヘルは何もしなかった。男の言葉に興味を惹かれたからだ。
男はまたもや、馬鹿の一つ覚えのように一直線に腹を狙ってきた。だが万が一そのままナイフが腹に刺されば、普通ならばただでは済まないだろう。
男は本気でディートヘルを殺すつもりなのだろうか。あるいは、先ほどのようにディートヘルが避けるものと、思い込んでいたのかもしれない。だが、ディートヘルは避けなかった。男が業物だと言うナイフが、どれほどの性能なのかを知りたかったからだ。
男の言うように、本当にこのナイフで黒蜥蜴の皮膚を裂けるのか否かということを。
だが男の持つナイフがディートヘルの腹に触れた直後、根元からポキリと折れてしまった。折れたナイフの刃を見て、男は「へ、は?」などという間抜けな声を上げている。
「黒蜥蜴の皮膚を裂くと言うからにはと、期待していたんだが……。君。君は実際にそのナイフで、黒蜥蜴の皮膚を裂いたことがあるのかな?」
「は?」
「君のそのナイフは、確かに黒蜥蜴の皮膚を裂いたのか?」
「……」
答えを失した男の様子を見て、ディートヘルは溜息を吐いた。
「君。きっと騙されているぞ。どうせ黒蜥蜴の皮膚さえ切り裂くという宣伝を信じて、まがい物を掴まされたんだろう。本当に黒蜥蜴の皮膚を切り裂く程の品ならば、私の皮膚にだって、かすり傷くらいはつけられたはずだ」
黒蜥蜴の皮膚は、赤蜥蜴の次に固いとされている。ディートヘルも若いころ幾度か黒蜥蜴の亜人と応戦したことがあったが、己の同種ほどではないが、はやり皮膚は固かった。赤蜥蜴の爪をもってようやく、皮膚に傷を付けられる程の固さなのだ。
だが、爪を使うと後が面倒なのだ。黒蜥蜴の血には毒はないが、とにかく臭い。何度も水で洗い流しても、数日は匂いが取れない程だった。
なので、自身の爪の代わりとなるものがあると言うのなら、ぜひとも手に入れたいと思ったのだ。そのナイフを譲ってもらうという名目で、男に金を渡しても良いとすら思っていたというのに――。
「もしそのナイフの性能が本物だったのなら、ぜひとも私が欲しかった」
うっかり期待をしてしまったために、スーツを一着駄目にしてしまった。男の持つナイフはディートヘルの皮膚には傷をつけられなかったが、肌の上に纏っていたスーツは、簡単に貫通してしまった。
「やれやれ。これからラスフィア君に会いに行こうと思っていたというのに……」
このような恰好では、どうにも恰好が付かないではないか。
だがそう思った矢先、ディートヘルの頭の中に名案が浮かんだ。
「……うん? ……そうか。そうしよう」
ディートヘルは固まったようにその場から動けずにいた男に、鋭い牙を剥き出しにして微笑みかけた。




