068.誰よりも安心できる相手
ライナスと一緒に病院食を食べてから、ラスフィアは退院の手続きを取ることになった。
目の前に出された病院食はとても簡素なものだったが、極限までお腹の減っていたラスフィアにとっては、ご馳走程の価値のある食事だった。
食事を取っている最中にリアーナとロイ、そしてクロエがやって来た。クロエの姿を見たラスフィアは食べる手を休め、クロエに笑顔を向けた。
「クロエ! 来てくれたの!」
「ラス! ロイさんに聞いたわ!」
クロエがラスフィアの手を取り、見る間に顔を歪め、目に涙を浮かべた。
「……大丈夫よ、クロエ! 大した怪我はしてないし、一日で退院できるんだもの!」
「でも……怖かったでしょう⁉」
クロエに言われ、ラスフィアはハッとした。
そうだ。怖かった。
もう駄目だと思った。
でもレイドが来てくれたから、だから、安心することが出来た。
その瞬間、死への恐怖はなくなった。
改めてレイドへの感謝の念が湧いてきた。レイドは海中からだけではなく、深い絶望の底からも、ラスフィアを引き上げてくれたのだ。
「……レイドさんが来てくれたから、大丈夫」
そうラスフィアが返すと、クロエがわずかに目を見開いたあと、
「そう……。そうなのね、良かった」
と、ラスフィアに向かって優しく微笑んだ。
クロエには、まだレイドが本当の番だということを言っていない。もしかしたらロイから聞いているかもしれないし、レイドがあの時皆の前ではっきりそうだと言ったため、とっくにクロエは知っているかもしれない。だがラスフィアが自分から言うまでは、クロエもそのことについて確認してくることはないだろう。
今この場でする話でもないので、後日ゆっくりと、どちらかの部屋でお茶でもしながら打ち明ければいい。その時には、リアーナやミュッテを呼び、女子会を開くのも良いかも知れないと思い立ち、ラスフィアはうきうきとした明るい気持ちになった。
それから途中だった食事を全て平らげたあと、クロエが部屋から持ってきたという自分の服を差し出してくれた。退院するのに着替える服がないだろうと、気を利かせてくれたらしい。本当にありがたいことだ。
クロエに借りた服を着て、ラスフィアは退院の手続きをした。
退院の手続きをしている時に、ギーとルパートがやってきた。
二人ともラスフィアの退院を喜び、そして容疑者を取り逃がし危険な目に合わせたことを、正式に謝罪してくれた。
けれど、レイドから聞いた話によると、ギーのお陰でラスフィアとデレクの居場所がわかったらしいので、そのことについて恐縮してお礼を言えば、そもそもがデレクを逃がした沿岸警備隊の失敗だからと、ギーにしては申し訳なさそうな表情でまた謝られた。
デレクに傷を負わされた隊員も命に別状はないらしく、そのことを聞いたラスフィアは、ほっと胸を撫でおろした。デレクからどう怪我を負わせたのかを聞いていたものだから、心配していたのだ。あんな大きな虎男の爪で引っ搔かれたら、きっとひとたまりもないだろうと。
そのデレクに関しては、その時港にいた沿岸警備隊や警察隊の隊員たちが今度こそ逃げられないようにした上で、そのまま沿岸警備隊の本部へと連行されていったようだ。
それから何故か話が飛び、もしやラスフィアはレイドの番なのではないかと確認された。
するとレイドはすぐに「そうだ」と肯定した。それから何かを確認するようにラスフィアを見たので、ラスフィアもすぐに頷いておいた。ギーやルパートには、特にその事実を隠す必要性を感じなかったからだ。というより、今後は誰に対しても、レイドの「番」だという事実を隠す必要はなくなるのだろう。
するとギーは納得したように、
「あ~、やっぱり……。まあ、もしかして……とは思ってたんだけどさ」
と言葉を落とした。
「お嬢さん、ルパートに番がいることは知ってる?」
「知ってます」
ラスフィが答えれば、ギーがうんうんと頷いた。
「そのさ。ルパートの番への過保護っぷりと溺愛っぷりにさ、このお兄さんのお嬢さんへの態度が被るところがあったんだよね」
ギーの言葉にラスフィアは驚いた。
いつも助けられているとは思っていたが、別にラスフィアはレイドのことを過保護だとも、ましてや溺愛されているなどとも思ったことはない。
(面倒見が良いとは、思ったこともあるけど……)
むしろレイドはラスフィアから「逃げていた」などと、昨夜聞かされたばかりなのだ。ギーの言っていることは、にわかには信じ難い。
思わず隣にいたレイドを見上げれば、何だか微妙な表情でギーを睨みつけている。
「だって、酷いんだぜ? このお兄さん。お嬢さんが病院に運ばれたあと、俺さんざんなじられてさ。あげくに一発殴られて、しかもその時の台詞が、これくらいで勘弁してやるってさ。それ犯罪者の台詞だろ。しかも殴られたの俺だけ! ルパートには無し!」
(殴られた⁉)
驚いたラスフィアが殴られたという痕を探そうとギーの顔を凝視していると、ギーが自分の腹を指さし、「見えないところ」と笑顔で告げて来た。
「当たり前だ。犯人逃がしやがって」
「それは謝っただろ! ていうか、俺がいたからデレクが虎の亜人だってわかったっていうのに……」
「それについては感謝してる。だから一発、お前だけで済ませたんだろうが。ラスは死ぬところだったんだ」
怒っていたギーがレイドの言葉を聞いた瞬間、急に萎れたように表情を曇らせた。
「ああ~、うん……まあ、それを言われると……。本当、ごめん。お嬢さん」
「私からも、沿岸警備隊を代表して謝罪を。申し訳ありませんでした」
ギーとルパート両名から再び謝罪され、ラスフィアは慌てた。
「いえそれは……! すでに一度謝ってもらっていますし……」
(確かにあの時は、何やってんだ沿岸警備隊と私も思ったけど……)
だがすでにレイドが仇(?)を取ってくれたので、今後気を付けて欲しいとは思うが、今はもう怒っていない。
というより、ギーが直接逃がしたわけではないので、少々不憫だ。それでもギーが言い訳しないで謝ってくれたから、きっとラスフィアの気持ちもすんなり収まったのだろう。
「いいんです。ギーさんにもルパートさんにも、色々お世話になったので……」
ルパートのお陰で、ライナスやリアーナ、他の者たちが助かった。
ギーには縄で縛られたが、それは仕方のないことだったし、海から救助された時には色々処置をしてもらった。
(海水吐かせてもらったし、傷口にアルコールかけてもらったし……)
輸入品の高級ウォッカを、惜しげもなくドバドバとかけて貰った。
吐くのは恥ずかしかったし、ウォッカは沁みて痛かったけど、きっと必要な処置だろう。
しかも、ギーには捕まる前に、お昼も分けて貰っている。
(……トータルすると、むしろお世話になっている比率が大きいわ)
「ありがとうございました」
にこりと笑ってお礼を言えば、ルパートが微笑み、ギーが悲しそうな顔をした。
「……あ~あ。お嬢さんのことは気に入ってたのにな。まさか他人の「番」だとは……。そもそも番って、そう簡単に見つかるもんじゃないだろ? 何で俺の周り、番見つけた奴が二人もいるんだよ」
あれで気に入ってたのかと、ラスフィアは縄で縛られ床に転がされた時のことを思い出し、微妙な気持ちになった。そしてギーの言う番を見つけた奴が、自分の周りにはレイドを入れて四人もいることに気付き、そこでもまた微妙な気持ちになった。
(小説の趣旨が、変わっているような気がしないでもないわ……)
けれど、現実は意外とそんなものかもしれないとラスフィアは考えた。どこに焦点を合わせるかによって、見えてくる現実は変わってくるのだろうから。
「俺にも番、見つからないかな~」
それでも、ギーの願望を込めた呟きには、はっきりと答えを返すことはできなかった。
☩☩☩
お詫びを兼ねて、家まで送っていく。
ギーの言葉の通り、ラスフィアはギーたちが乗ってきた沿岸警備隊所有の車で、家まで送ってもらえることになった。ラスフィアを送ったあとギーはまた病院に戻るそうで、ルパートはギーが戻るまでこのまま病院に残り、入院している仲間の元へ顔を出してくるらしい。
クロエ、ロイ、リアーナはそのまま乗り合い馬車と列車を使い仕事に戻り、レイドはラスフィアに家まで付き合ってくれることになった。今までなら断っていただろうその申し出を、ラスフィアは有難く受け入れた。
レイドとラスフィアを降ろしたあと、ギーはまた病院へと戻って行った。
ギーが帰ったあと、レイドはラスフィアを部屋の前まで送ってくれた。レイドが、ずっと持っていてくれた紙袋に入れたラスフィアの服をラスフィアに手渡し、「また明日来る」と言って去ろうとしたとき――。
気付けば、ラスフィアはレイドの服の裾を掴んでいた。レイドの背中を見た瞬間、何故か勝手に手が動いていたのだ。レイドもラスフィアを振り返り、驚いている。
「あれ……すみません。どうして……」
今すぐこの手を離さなければと思うのに、固まったように動かなかった。
どうしてだろうと考えたのは一瞬だった。すぐに己の無意識の行動の理由を知った。
一人になりたくない。そう思ったのだ。
ラスフィアはこの部屋から、デレクに攫われた。デレクはもう捕まった。今度こそ逃げられない。
それはわかっていたはずなのに、どうも恐怖が蘇ってきてしまったらしい。無防備な状況で、一人になりたくなかったのだ。いつかは慣れなければならないけれど、昨日の今日ではまだ無理そうだった。
迷惑をかけることを承知で、もう少しだけ一緒にいて欲しいとラスフィアがそう言おうとした矢先、レイドが先に口を開いた。
「ラス。もう少しだけ、一緒にいてもいいか」
「……はい」
レイドの言葉を聞いた時には、ラスフィアの頬には涙が伝っていた。その涙をレイドに拭われ、軽く抱きしめられる。
「大丈夫だ。何があっても俺が守る。これからはずっと傍にいる」
「……はい」
言葉通り、ずっと傍にいることは無理だろう。一緒に暮らしているわけではない。レイドにもラスフィアにも仕事がある。
けれど心はきっと、これまでよりもずっと近くに存在しているはずだ。
関係が終わることなく、心の距離が離れることなく、ずっとレイドは、ラスフィアという人間の近くにいてくれるだろう。
レイドの想いと、「番」という事実を受け入れた今、ラスフィアがレイドに対し感じるのは、限りない安心感だ。
この人がいれば、大丈夫。
この人がいれば、何も怖くない。
ミュッテの言っていた通りだった。誰といるより、レイドといると安心できる。
番との関係性とは、もしかしたら親しい家族や親友のようなものなのかもしれないと、ラスフィアは感じていた。あるいは、信頼のおける、仲間やパートナーだろうか。その関係性を恋や愛にしていくのは、きっと本人たち次第なのだろう。
レイドとは、まだ想いを通わせ合ったばかりだ。二人の恋は、これからゆっくり育てていけばいい。
この世界のレイドは、リアーナの恋人ではない。リアーナには、ライナスがいる。ライナスに、恋をしている。レイドも、ラスフィアを好きだと言ってくれる。
この恋に対する、不安はある。けれど、それよりなにより、これから先、何に、誰に遠慮することなく、レイドの傍にいられることが嬉しくて仕方がなかった。
密着していた身体を離しレイドの顔を見上げれば、すぐに優しい微笑みが返ってくる。その微笑みに微笑みを返し、ラスフィアは再びレイドを抱きしめた。




