067.もう逃げない
「愛している」
続いてレイドの口から出て来た言葉に、ラスフィアは一瞬己の聞き間違いを疑った。
ごめんと言われることだって覚悟していたというのに、好き、ですらなく、愛している、だ。
「俺は、君を愛している」
何かを言わなくてはと思うのに、何も言葉が出てこなかった。
好きという言葉だったら、私もと返すことができたかもしれないのに、レイドへの気持ちを本格的に自覚したばかりのラスフィアの想いには、まだレイドに愛していると言えるだけの、深さと重さがなかった。
「この想いが本物なのかどうか、ずっと迷っていた。君と出会う以前、俺は、番なんて信じていなかったからな。そんなものは、本能によるまやかしだと思っていたんだ。なのに……俺たちは出会った。俺は君を見つけた。もう、君と出会う前の俺には戻れない」
そうだ。
小説の中のレイドも、番など信じていなかった。
そしてそのまま、番など関係なく、リアーナを愛し、愛され、幸せになったのだ。
「君に出会って、君の存在を喜んで、でもすぐに、恐れるようになった。番だと認識しているのは俺だけだ。君にとっての俺は、特別でも運命でもなんでもない。片方だけしか認識できない番の関係なんて、それこそ、まやかしじゃないかと……」
レイドの表情が、苦痛で歪んでいる。
ラスフィアに対して、悩んでいるのだろうとは思っていた。けれどそれは、リアーナという存在がいるが故の悩みであって、レイドの言うように、自分だけしか認識できない関係に悩んでいたなど、思ってもいなかった。
(……私、全然レイドさんのことわかってなかった)
先ほども、レイドが恐れていたことをはじめて知った。今だって、悩んでいたと聞いて、驚いている。レイドから目を逸らし過ぎて、何も見えていなかったのだ。
「だけど、今回のことではっきりとわかった。本能がどうとか、まやかしがどうとか、そんなものは、もうどうでもいいんだ。君に拒絶されても、嫌われても、君さえ生きていてくれれば、俺はそれでいい。君が俺を選ばなくても、もうそれでもいいと思っていた」
レイドがラスフィアを、金色の瞳で見つめて来る。縋っているようでいて、すでに何かを決めてしまっている瞳だ。
「それでも……君が俺を選んでくれるというのなら……。俺はもう、一生君を離さない。何があろうとも、絶対」
レイドが椅子から立ち上がり、ラスフィアの身体を包み込むように抱きしめてきた。あるいは、ラスフィアを逃がさないための、拘束のように。けれどラスフィアが抵抗すれば、多分レイドはすぐに拘束を解くはずだ。
力尽くのものではない、レイドの拘束は、ラスフィアを縛り付けない、痛めつけない。
海から救出された際、ラスフィアを包んでくれた、あの毛布のように柔らかい。
「……レイドさん」
「ラスフィア」
耳のすぐ近くで、レイドの声がした。
選択肢はラスフィアにあるのだ。レイドの想いを受け入れるか否か。
ここで拒絶しても、きっとラスフィアは許される。レイドはそれを受け入れる。
レイドが好きだ。
それは、紛れもない事実ではある。
けれど、ラスフィアは小説のレイドを知っている。もしかしたら一生、レイドは「番」だから自分を選んでくれたのではないかと、そう思って生きていくことになるかもしれない。
そう思えば、レイドとの関係を決定づけることに、足がすくみそうになってしまう。
(それでも、もう……。逃げないって決めたのだもの……)
ラスフィアは密着しているレイドと距離を取るため、両手をレイドの胸に置いた。
胸を押す手に力を入れた時、わずかにレイドの身体が震えたような気がした。
顔を上げ、レイドと一瞬だけ視線を合わせてから、ラスフィアはレイドの頬に口付けた。言葉にするよりも、きっとこちらの方がより想いが届くだろうと考えて。
「……離さないでください」
小さな声で告げれば、レイドに引き寄せられ、優しく、けれど先ほどとは比べ物にならない程に強く、その胸に抱かれる。
引き寄せられた先に待っていた暖かさと予想以上の幸福に、ラスフィアはうっとりとした心地で目を閉じた。
☩☩☩
翌朝病院のベッドで目覚めたラスフィアは、椅子に座ったまま眠っているレイドの姿を見つけ、心底驚いた。今日は帰らず病院に泊ると言っていたが、まさか椅子でそのまま寝ているとは思わなかったのだ。
(仮眠室とか、あるのかと思ってた……)
だが、寝ているレイドを見られるなど滅多にない機会だ。これは観察しなくてはとラスフィアが思っていると、ラスフィアが目覚めてからそう間を置かずに、レイドも目を開けてしまった。
予期せず金色の瞳と視線がかち合い、ラスフィアは息を呑んだ。
「……よく眠れたか?」
「……はい」
「体調は?」
「大丈夫です……けど」
けど、と言ったところで、レイドが慌てたように椅子から立ち上がった。
「……お腹が空きました」
口にした途端に、お腹が鳴った。
その音を聞いたレイドが、安心したように再び椅子に腰を降ろしたのが、何だか申し訳ない。
本当に、かつてないほどにお腹が減っていたのだが、昨日からレイドの前では吐いたりお腹を鳴らしたりと、恰好がつかないにも程がある。しまいには、海水でべたべたの髪と肌のまま、ファーストキスまで済ませてしまった。
(ほっぺだったけど……)
それでも、キスはキス。
ラスフィアにとっては、父と弟以外の異性に捧げた、はじめてのキスだ。
「多分、もう少ししたら食事の時間だ」
言いながら、レイドがラスフィアの顔にかかる髪を一房指に取り、撫でた。普段ならばその行為に特に文句などないが、今日はやめて欲しい。
「あの……レイドさん。私の髪、海水でべとべとで……」
ラスフィアが言えば、レイドが髪を唇に当てた。一瞬後に髪に付けていた唇を離し、その唇を舌でぺろりと舐めた。
(……ギャー⁉ 舐めた!)
「……ああ。少し塩辛いか」
塩辛いのはラスフィアのせいではなく海水のせいだが、なんだかとても恥ずかしい。
だがレイドはそんなラスフィアには構わず、上半身をかがめ、横になったままのラスフィアの額に、口付けを落とした。
(ギャー⁉ キスされた!)
「ラス」
「は、はい!」
「ラスって呼んでいいか?」
「あ……はい。どうぞ。お好きに……」
「ラス、愛してる」
(うう……! 慣れてないから、気恥ずかしい)
しかもレイドは愛の言葉を囁きながら、破壊力抜群の笑顔をお見舞いしてくれたのだ。
「わ、私も……あ」
ラスフィアが勇気を出して、愛していると言おうとした瞬間、扉がノックされた。その瞬間、レイドの口から「ちっ」という舌打ちが聞こえたが、ラスフィアは聞かなかったことにした。
レイドの非難の視線を浴びながら扉を開けて入って来たのは、ライナスだった。
「やあ。無事で何よりだ。エーレン嬢」
頭に包帯を巻かれたライナスは、いつも通りの笑顔を浮かべていた。
そういえば、と。
ライナスも同じ病院に入院していたことをラスフィアは思い出した。
☩☩☩
「はあ? 今更かよ」
ライナスがリアーナを番と認識した。
ライナスからもたらされた意外かつ衝撃の情報にラスフィアが驚く中、レイドは冷静だった。むしろ驚くより、なんだか呆れている。
「俺自身もそう思ってはいるんだが……」
どことなくバツが悪そうに、ライナスが言い淀んだ。
「本当に今までわからなかったのか?」
レイドの言葉を受けて、ライナスが静かに、だが確信に満ちた表情で頷いた。
「ああ。これまでの感覚とはまったく違う。匂いでの認識とは言っても、そのまま嗅覚で認識している感じともまた違うな」
「まあ、そうだよな。ただの嗅覚の優劣だったら、俺よりお前の方が優れてる。今までだったら単に番に会っていないだけとも考えられたが、ずっと傍にいたリアーナを今更番と認識したっていうなら、それも違うしな」
レイドの言葉に頷きつつも、ライナスが顎に手を置き、考える仕草を見せた。
「まあ……何故俺たちが番を認識するに至ったのか、その理由らしきものにはすでに検討が付いているんだが……」
ライナスの言葉に、レイドとラスフィアは顔を見合わせた。
「何かの法則性でも見つけたのか?」
「一応、それらしきものをな。お前とロイだけの時は一向にその理由がわからなかったが、怪我を負い目覚めたあとの俺が、ずっと傍に居たリアーナを番と認識したことから、仮説が立った。レイドは、子どもの頃大怪我をして死にかけたことがある。ロイも警察隊になって間もない頃、銃で撃たれて大怪我をした。そして俺だ。三人とも、生死にかかわる体験をしたことで、退化していた番を認識する能力が覚醒したんじゃないか? あるいは、三人ともに番が同種ではなく人間だったことを考えると、先祖が持っていた能力とは別物という可能性もある。時代に合わせて進化した能力、とも言えるか?」
(な、なるほど……!)
それはあり得ることかもしれないと、ラスフィアは考えた。
臨死体験をしたあと、不思議な能力に目覚めたとか、事故で頭を打った際など、何らかの脳の機能が失われることもあれば、反対に特殊な能力が目覚めることもあると、聞いたことがある。
(番を認識する能力なんて、子孫を残すことに直結する能力だもの、生死の境にあって、そういう能力が開花してもおかしくはないわよね……っていうか、レイドさんもクローディオさんも死にかけてたんだ……)
ならばミュッテの相手であるルパートはどうなのだろうと、ラスフィアは今度機会があれば、ミュッテにそのことを聞いてみようと考えた。
(それにしても……ライナスさんの番がリアーナさんだったってことは……)
もし小説の中で、レイドとリアーナが恋人同士になったあとにライナスが生死に関わる怪我を負ってしまった場合、とんでもないことになっていたのではないだろうか。
だが、そのことは考えても意味がない。何故なら、小説の世界とこの世界とでは、すでに三人の関係は異なっているからだ。
「なるほど? 命の危機に際して、より良い子孫を残そうとする能力が開花したってわけか」
「まあ、単なる仮説だ。死にかけた奴がすべて、番を認識できるようになるとは思えないしな。他にも何か条件はあるだろ。それに、俺は別に子孫を残したいがためにリアーナに求愛しているわけじゃない」
言い切ったライナスに、レイドの声が低くなった。
「……おい。自分だけは違うみたいな言い方すんな」
「被害妄想だ」
「てめえ……」
レイドが半眼でライナスを睨みつけているが、ライナスはそんなレイドを相手にせず、ラスフィアを優しく見つめながら、「何にせよ」と、そう口にした。
「君が無事で良かったよ、エーレン嬢」
「……ありがとうございます」
優しい笑みを浮かべるライナスに、ラスフィアの胸の奥から暖かいものが込み上げてきた。
ガルストラへきた当初は、まさかこの世界が小説の中の世界などとは思いもしていなかったし、まさかその小説の主人公たちと関わることになるとも、思ってはいなかった。
けれどこの人たちに出会えなければ、きっと自分は、運命に呑み込まれていたのだろうとラスフィアは思っていた。多少の差異はあれど、きっとあのままリューンに誘拐され、どこかへ売り飛ばされ、短い人生を終えていたのだろうと。
「私……皆さんに会えて、本当に良かったです」
皆に出会えて、良かった。レイドに出会えて、良かった。
こんこんと、どこからか溢れるように湧いて来る感謝の想いを込めて、ラスフィアはレイドとライナスに向けて微笑んだ。




