060.これだから運命ってやつは
リアーナはラスフィアの寝ているベッドにまで近づいてきて、傍にあった椅子に座った。その一連の動きはいつも通りのキビキビとしたものであり、腕の負傷以外、特に大事はなかったらしい。
自身の腕に注がれたラスフィアの視線に気付いたのだろう。リアーナが「大丈夫です」と言い、柔らかく微笑んだ。
「これでも鍛えていますので、荷に挟まれた腕以外は、何ともありません。……警部のおかげです」
ライナスのことを口に出した途端、リアーナの瞳が悲しそうに陰った。
「……マクスウェルさんは?」
「まだ……目を覚ましません。警部も、この病院に入院しています。ずっと傍に付いていたいところですが、私も一度職場に戻らなくては……」
「リアーナさん……」
(リアーナさんのせいじゃないって、言いたいけど……)
きっと生真面目なリアーナは、それでもライナスのことは自分のせいだと思ってしまうのだろう。
「リアーナさん。マクスウェルさんは、きっと目を覚まします」
「……はい」
ラスフィアがそう言った途端、リアーナの表情が、今にも泣き出しそうに歪んだ。これ以上なんと慰めようかと思っていた矢先、リアーナが一度ラスフィアに向かって微笑み、それからすぐに真剣な表情に戻してから、「ラスフィアさん」と呼びかけて来た。
「貴女は過呼吸の状態で、この病院に運ばれてきたんですよ」
「過呼吸……」
意識を失う直前に感じた、あの息苦しさ。あれは過呼吸のせいだったのだ。
「話は、あの潜入捜査官から聞きました」
「……はい」
「今レイドとロイが、リューン・サイハンに、デレク・コールとの関係を問い質しに行っています。二人の関係が明らかになれば、新たな余罪も出てくるかもしれません」
「……そう、ですか」
もしラスフィアたち以外にもリューンとデレクの被害に遭ってしまった者がいるとするならば、一刻も早くに助け出さなければならないだろう。小説の中に出て来た死者はラスフィア一人だったが、小説のストーリー以外のところで何が起こっていたかなどわからないのだ。
ラスフィアがそう考えていたところ、にわかに廊下が騒がしくなってきた。扉の向こうからは、言い争っている人の声が聞こえてくる。
「……だから、関係者以外は入れることは出来ないんですよ!」
「私は身内よ! この国での保護者のようなものだわ! ラスフィアちゃんのことは、生まれる前から知ってるのよ!」
叫んでいる声は、マルグリットのものだ。
「マルグリットさん……」
すぐ近くでマルグリットの声が聞こえて来たと思ったら、あっという間に病室の扉が開けられ、すでに滂沱の涙を流しているマルグリットが、慌てて部屋の中へと入って来た。
「ラスフィアちゃん!」
「マルグリットさん……どうしてここへ?」
「私がお呼びしました。ラスフィアさんのお身内は、隣国にお住まいですので……」
確かに、マルグリットはこの国でのラスフィアの保護者のようなものだ。それに――。
(考えてもみれば、もう約束の時間は過ぎてるものね……)
病室の壁に掛かっている時計を見れば、ラスフィアがマルグリットに報告していた時間は、とうに過ぎている。そこへ来て警察隊からラスフィアが病院に運ばれたと連絡を受けたのであれば、マルグリットもそれは驚いただろう。
「ごめんなさい、ラスフィアちゃん……! まさかあの好青年が麻薬の密輸に手を出していたなんて……! 嫌になっちゃうわ、昔はそういったことにはすぐに勘が働いたっていうのに……」
「マルグリットさん……。でも、クリストファーさんは今回のこと、知らなかったと言っているようですし……」
従業員たちの悪事を見抜けなかったことには、確かにクリストファーにも責任があるのかもしれない。だが決して、クリストファー自身は悪人ではない。少なくとも、ラスフィアはそう思っている。だからきっとマルグリットの勘も、クリストファーに関しては働かなかったのだろう。
クリストファーの会社が隠れ蓑として使われていたのも、ここ半年ほどの間だと聞かされている。それまでは真っ当な仕事のみを扱い会社を大きくして来たというのなら、疑いを持てなくても無理はない。本来のクリストファーはとても優秀で、優しく思いやりのある、誰からも好かれるような好人物なのだから。
それでも、知らなかったでは済まされないのが、麻薬に関わる犯罪なのだ。
「ラスフィアちゃん……」
ラスフィアを見つめるマルグリットの瞳からは、労わりと、憐憫が見て取れる。
ラスフィアにとって、クリストファーは幼馴染だ。昔からの友人だ。心が痛まないわけはない。マルグリットは、ラスフィアの心情を慮ってくれたのだろう。
「あの……リアーナさん。クリストファーさんと面会することは可能でしょうか?」
ラスフィアが聞けば、リアーナが僅かに目を見開き、すぐに表情を元に戻した。
「……申請すれば、できると思います。それでも、すぐには無理だと思いますが」
「お願いできますか?」
リアーナは一瞬だけ何か言いたそうな表情をしたあと、「わかりました」と了承してくれた。
「ラスフィアちゃん……」
「伝えたいことがあるんです。クリストファーさんに……」
麻薬の密輸に関わっていたとなれば、クリストファーだけではない、会社も今後どうなるかはわからない。どのみちラスフィアの引き抜きの話は、お流れになるだろう。
だが、ラスフィアはまだクリストファーの告白に、ちゃんと返事をしていない。告白を断ることは傷心のクリストファーに追い打ちをかけることになるだろうが、他にも伝えたいことはあるのだ。
「……罪を償ったら、また一緒に食事をしましょうって」
ラスフィアがそう言えば、涙脆いマルグリットは、また新たな涙を流した。
☩☩☩
その後ラスフィアはマルグリットとリアーナに付き添われ、簡易検査を受けたあと、無事退院の許可をもらうことができた。
退院する前に一度ライナスを見舞い、早く回復することを祈ってから、もう少し残るというリアーナとはその場で別れ、店の馬車を待たせていたマルグリットに送られ、ラスフィアは家へと戻った。
別れ際マルグリットに明日はさすがに休みなさいと言われたので、今回ばかりはラスフィアも有難くその申し出を受けることにした。
家に帰り、椅子に腰を落ち着けてから、ラスフィアは目を瞑った。そして小さく息を吐く。けれどその吐息は、ようやく家に帰れてほっとしたという意味もあったが、これからのことを考えての、精神的疲労の溜息でもあった。
何しろ、新たに考えなくてはならない重要なことが出てきてしまったからだ。
これまではずっと、レイドの「番」である事実をどう受け止めれば良いのか悩んでいた。レイドとリアーナの邪魔をしてはいけないと、そう思っていたのだ。
だがレイドとリアーナのことは、病院でのリアーナの様子を見たことで、自分の考えを改めなければならないとも感じていた。
あの時のリアーナは、普段の気丈なリアーナらしからぬ、心細そうで、どこか途方に暮れたような表情をしていた。
(リアーナさんのあの時の表情……ただの上司に対するものじゃないわよね……)
考えてもみれば、小説の中だとてリアーナは、レイドとライナス、二人の間で揺れていたのだ。現実に、リアーナがレイドにラスフィアという「番」がいることを知った状況で、それでもレイドに対して恋情を抱くには、些か決め手が少なすぎたのかもしれない。
しかも一番の切っ掛けとなるあの事件が、ラスフィアが救出されたことでなくなってしまったのだ。リアーナの気持ちが向く相手がレイドからライナスに変わったとて、そう不思議なことではない。
(それにしても……小説の中でも、私とレイドさんは会ってたんだ……。私、死んでたけど)
ラスフィアはてっきり、前世の記憶を持っていたラスフィアがこの国へ来たことで、小説には出てこなかった「レイドの番」として、レイドと会ってしまったのだと思っていた。
けれど、小説の中でも、レイドとラスフィアは会っていたのだ。
(そもそも私、どこでリューンさんに目を付けられたのかしら……? ガルストラでは失踪届が出されていないと、夢の中でリアーナさんは言っていたし……)
となると、小説の中のラスフィアは、リアンタで誘拐された可能性がある。
(小説……最後はあの事件、どうなっていたっけ……?)
思い出そうとしてもなかなか詳細は思い出せなかったが、何もかもがすべてすっきりと終わっていた気がするので、きっと最終的にはラスフィアの身元も判明したのだろう。
(でも……その時はレイドさん、番の匂いはわからなかったのかしら? ……死んでたから、匂いが薄れていたとか?)
だがもしかしたら、とラスフィアは考えた。
犯人を、絶対に許さないと言ったレイド。
そこでリアーナが、レイドのことを他人のために怒ることのできる人なのだと感じ、その時の想いが切っ掛けとなってレイドに恋をするようになっていくのだとしたら。
リアーナが、レイドの優しさとも言える要素を、初めて見出したあの場面。その優しさとはもしかしたら、死体となったラスフィアに何かを感じたレイドが、その存在を殺した犯人相手に対して感じた憤りのことを、指しているのではなかろうかと。
(となると、小説の中の私は、二人の仲を取り持つキューピッド的な役割だったということになるわよね……。それにしても……もし、あの時レイドさんが私の匂いに気付いてくれなかったら、私小説通りに誘拐されて、いつか殺されていたのかも知れないわ……)
そうであればまさに、レイドはラスフィアにとっての命の恩人だ。いくら感謝してもしたりない。
(もし、リアーナさんが本当にライナスさんのことが好きなんだとしたら……)
そこまで考え、ラスフィは意識的に思考を中断した。
それでもまだレイドがリアーナのことを好いている可能性は残っているし、今考えるべきは、今後のこと。はたして、自分は死から逃れられるのだろうか否かということだ。
あの夢の場面は、今のラスフィアにとってはあくまで小説の中の出来事。あるいは、すでに回避された、あり得たかもしれない未来の一つだ。だが、これまでのことを考えれば、そのことだけで今後を安心することは難しい。
もしかしたら、これから約半年の間、本来の誘拐事件解決の時期まで生き延びたら、ラスフィアは今後事件には巻き込まれないようになるのかもしれない。死ぬかもしれないという不安から、解放されるのかもしれない。だが結局、それはその時が過ぎるまでは、わからないことなのだ。
「……でもまあ。こればっかりは、どうしようもないわよね」
まさかこれから半年過ぎるまでの間、ずっと部屋に閉じこもっているわけにはいかないだろう。マルグリットから長期の休暇を貰い実家に帰るという手もあるが、ラスフィアの死が定められた運命だというのなら、きっと何処へ逃げようと同じことだ。
なんて理不尽な、と思わないでもない。でも恐れているだけでは、何の解決にもなりはしないどころか、精神にかなりの負担を強いることになる。なにしろ、何をもってすれば運命から逃れられるかなど、探り様がないからだ。
だが、探り様がないと思ったところで、ふとひらめいてしまった。
「あるいは……私が本来の役目を果たせば、死からは逃れられる……とか?」
自身の本来の役目、それはレイドとリアーナの仲を取り持つ、キューピッド役だ。
(うう……。ここへ来て、それ……? でも、リアーナさんはライナスさんのことが……。いえ、レイドさんの気持ちがリアーナさんに向いてるとしたら、やっぱり……)
ラスフィアが一度は放棄した考えを蒸し返しぐだぐだと悩んでいたところ、ふいにお腹が、大きな音を立てて鳴った。
「お腹空いたわ……。そうね。腹が減っては、考えは纏まらないものよ。何か食べられるものあったかしら……」
今日は食欲がない、などと殊勝なことを言ってみたかったが、如何せん今日は朝以来まともな食事をしていないのだ。ギーに食事を分けてもらったが、正直あれではまったく足りなかった。
だが今から調理をはじめるのも、総菜を買いに出るのも、少々面倒くさい。というか、さすがに疲れている。
(そうだ……。確か、焼き菓子の残りがあったような……)
おやつにと買っておいた日持ちのする焼き菓子が、確かキッチンの棚にまだ残っていたはずだ。
ラスフィアはのっそりと椅子から立ち上がり、キッチンへと向かった。そこでごそごそと食料の有無を確認していたところ、玄関のチャイムが鳴らされた。
(マルグリットさん? それとも、クロエかしら……?)
この部屋を訪ねてくる者は、限られている。クロエか、たまにマルグリットが食料品を持って訪ねて来るくらいだ。マルグリットが引き返して来たか、もしかしたら、事件の詳細を聞いたクロエが、訪ねて来てくれたのかもしれない。そう考えたラスフィアは、急いで玄関へと向かった。
「はーい」
扉を開けた瞬間、ラスフィアの身体全体が影で覆われた。
「やあ、お嬢ちゃん」
目の前には、ラグビー選手かと見紛う程に身体の大きな、一匹の虎が立っていた。
獅子じゃないです。虎で大丈夫。




