023.ただの悪夢か、それとも記憶か
「なんか……急に時間ができちゃったわね」
公園内のベンチに座り、ラスフィアは雲の棚引く空を眺めた。
「……あ、あの雲ドーナツに似てる」
そう思った直後、朝食を食べたばかりのお腹が小さな音を立てた。
(食欲なくて、あまり食べられなかったしな……)
食い意地が張っていると自覚しているラスフィアだったが、今朝は食欲がなく、いつもの半分くらいしか食べることが出来なかった。昨夜の夢見の悪さが、その原因だ。
(さすがに、昨日のことが堪えたのかしら……)
誘拐されかけた時も恐ろしかったが、昨日は本当に殺されるかと思ったのだ。その恐怖が影響していることは、大いに考えられる。
だが夢の中に、昨日の亜人の男は出てこなかった。
それに、昨夜見た夢は間違いなく悪夢ではあるが、どこか不思議な印象を受ける夢だったのだ。
その夢では、ラスフィアはどこかの暗い部屋で、ベッドに寝かされていた。指一本動かすことが出来ず、声を出すことも出来ない。否、動こうとか、声を出そうとか、そんなことはまったく考えていなかった。
夢の中のラスフィアは、ただただ暗く冷たい部屋で、暗闇の中横たわっているだけ。
(まるで、死んでいるみたいに……)
そこまで考えた時、ぞくり、と怖気が走った。
ラスフィアはこの世界に転生している。そして転生しているということは、一度死んでいるということだ。
(死んだ時の記憶……とか言わないでよね……)
あの夢を思い出すだけで、今感じていた空腹も、あっという間に減退してしまう。
そして恐ろしいことに、あの夢を見たのは、どうも昨日がはじめてではないらしいのだ。朝になって目を覚ましたラスフィアは、昨夜見た夢の内容に、既視感を覚えた。
レイドたちと初めて会ったときのような、既視感。
クロエとロイの時のような、既視感。
生まれてから今まで、随所で感じているような既視感。
あの光景を、ラスフィアは知っている。見たことがある。
(これまでもあの夢を見ていたのに、それを忘れていたのかしら……)
それはあり得ることかもしれないと、ラスフィアは考えた。
自分はこれまであまり夢を見ないと思っていたが、でもそれは見ていないのではなく、見ていても忘れていただけなのかもしれない。
(まあ、本当にあの夢が死んだ時の夢だとしても……結局は夢でしかないじゃない。もう済んだことだし!)
一度は死んだのかもしれないが、今は生きている。
そう楽観的に考えることにしたスフィアは、意識を切り替えることにした。
今日の天気は良好、頬を撫でる風が心地よい。詩でも諳んじたくなるような、麗らかな日だ。
(生きてることを楽しまなきゃ、損よ、損! あー、いい天気!)
半ば無理矢理に気分を上げにかかったラスフィアだったが、ふとあることを思いついた。
「……そうだ。クロエに会いに行ってみようかな」
それはとても良い考えに思え、ラスフィアはベンチから腰を上げた。
☩☩☩
ラスフィアがクロエに会いに行こうと思い立った、一時間程前のこと。
事件のあった翌日である今日。ラスフィアは通常通りマルグリット商会に出勤した。
ラスフィアとしては特に被害も受けていなかったため、今日も仕事をこなすつもりだったのだ。けれどお店に顔を出した途端、オーナー兼店長であるマルグリットに家に帰るよう促されてしまった。
マルグリットには、警視庁経由ですでに事件の詳細が伝わっていたらしい。
「昨日の今日で、出勤なんてしなくていいのよ! ごめんなさいね、ラスフィアちゃん……。あたしが遅番なんて頼んだから……!」
眼に涙を溜めながら己に謝る女性、マルグリット・サイモフを見つめながら、ラスフィアはこの優しい人にだいぶ心配をかけてしまったことを申し訳なく思った。
「気にしないでください、マルグリットさん。今回のことは元々は私が事件の目撃者だったからであって、そうそう起こることじゃないですよ」
確かにこの世界の歩道は元の世界よりも暗いし、人気もない。女性だけで夜道を歩くのは、防犯上よろしくなかったかも知れない。
だが外灯が全くないわけでもないし、何しろ職場であるマルグリット商会からラスフィアの住むアパルトマンまでは、そう距離があるわけではないのだ。
「でも、家との距離も近いですし、警視庁にだって近いわけですし……」
「いくら近くたって、実際に襲われているじゃない……!」
確かに、マルグリットの言う通り実際に襲われているので、これはラスフィアの分が悪い。
「そ、そうなんですけど……すぐに警察隊の方に助けていただきましたし……」
そこまで言葉にしたところで、マルグリットに両手をガシっと握られた。
ふくよかな体型のマルグリットだったが、その手は女性ながらに大きくゴツゴツとしている。昨日のクロエの小さな手とは、大違いだ。その大きな手に力いっぱい手を握られて、ラスフィアは心の中で悲鳴を上げた。
長年男たちに混じり貿易船から貨物の積み下ろしをしていたというマルグリットの握力は、かなりのものだった。
(両手が……両手が潰れるぅ……!)
なんとかマルグリットの大きな手から己の手を引き抜きほっとしていたラスフィアに、マルグリットが眉を垂れながら謝って来た。
「ううん、ラスフィアちゃん。今度のことは、あたし本当に反省したの。こんな可愛い子をあんな遅い時間に家に帰すなんて、襲ってくれと言っているようなものじゃない……! 本当にごめんなさい! トルロイの娘さんだからって、頼り過ぎたわ……!」
「……マルグリットさん」
それからラスフィアは、このままだといつまでも謝り続けそうなマルグリットをなんとか宥め、自分も次からは気を付けるとの約束を交わし、マルグリットの言葉に甘えて一日休みを貰うことで、この問題を手打ちとした。
そのような理由で、マルグリットのおかげで時間のできたラスフィアは、しかしすぐに家に帰る気にもならなかったため、帰る途中公園に寄り、日向ぼっこをすることにした。そしてその最中、仕事中のクロエに会いに行くことを思いついたのだ。
☩☩☩
思いついたが吉日とばかり、さっそく公園から職場方面へと引き返したラスフィアは、今ガルストラ警視庁を見上げている。まだこの国へ来て一週間も経っていないというのに、もう何度目かになる訪問だ。
「というか……思い付きで来てみたものの、警視庁って用もないのに入れるところじゃないわよね」
ラスフィアにとっては、ちゃんと用はある。だが中で働く友人に会いに来たなど、国の機関である警視庁に入るには、正当な理由にはならないだろう。
(それに……クロエだって、急に職場に来られたら迷惑よね……)
なぜこんな突飛なことを思いついてしまったのか。やはりまだ昨日の疲れが残っていて、頭が回っていなかったのかもしれない。こんな状態で仕事をしていたら、お金のやり取りを間違っていたかもしれないと思えば、ラスフィアを返したマルグリットの判断は、正解だったということだろう。
(……やっぱり、今日はもう家に帰ろう)
帰って大人しく、読書でもしていよう。
ラスフィアがそう考え踵を返そうとした時、知った声で名を呼ばれた。
「エーレン嬢?」
振り向けば、ライナスが驚いたようにこちらを見つめている。どうやら今日は一人のようで、レイドの姿もリアーナの姿も傍にはない。
「マクスウェルさん……」
名を呼んだところで、ライナスがラスフィアに近付いて来た。
「今日はどうしてここへ? ……まさか、また何かあったのでは」
心配そうに眉を顰めるライナスに、ラスフィアは慌てて事情を説明した。




