そのじゅう:うさぎさんはとらさんを獲物にする
すぴょすぴょと間抜けな寝息を立てるはくちゃんの寝顔をじっと見下ろす。
べったり張り付いていた身体を体温が伝わる程度の距離で離して、いつの間にかすっかり追い越した華奢な身体を抱き起こした。
はくちゃんは俺と違って今でこそ元気に走り回ってるけど、昔は布団の中で過ごすことが多かった。額に汗を流してぐったりして動かなくなるのを見るたびに、はくちゃんがいなくなってしまうんじゃないかと毎度心配したものだ。
本当に小さい時、俺の前で無理をしていたはくちゃんは、電源を落としたようにふっつりと動きを止めて倒れたことがある。大好きな姉が倒れて、揺すっても触っても叫んでも目を覚まさないことにパニックを起こした俺がわんわん泣き喚いて助けを求めたのも、今では懐かしい思い出だ。
もっとも懐かしくあってもいいものではない。あの時はまだ俺より身長が高かった悟狼に物凄く怒鳴られて正気に返った。しかも地面の上でぐったり倒れて動かないはくちゃんを背負って家まで連れ帰ったのも悟狼で、俺はと言えばそんな二人の後ろを声を殺して泣きながら付いてくことしか出来なかった。たまたま悟狼の家に遊びに行っていた日で、彼の家がある階までマンションの階段を一歩一歩進んでいく時間が強烈に長く感じたのを覚えてる。
「───あら?虎珀ちゃん、寝ちゃったの?」
「ん」
ソファに背を凭せ掛け、はくちゃんの身体を腕の中にちょうど良く収まる位置で抱え直す。あの頃は背負ってもほとんど歩けなかったのに、今はすっかり簡単に持ち上げれた。
じんわりと腕に伝わる温もりが愛おしい。抱えなおした虎珀の頬にすりりと頬をよせ、大きく息を吐き出す。心臓の鼓動が早鐘を打ち、リラックス状態なのに不思議な緊張をしていた。
「オレンジジュース、虎珀ちゃんの分飲んでもいいかしら」
「どうぞ」
視線は送らず端的に返事をする。はくちゃんが起きてたら注意されるかもしれないが、これでも随分と関係は改善したほうだと思う。正直、許せる気がしない時期もあったくらいだ。はくちゃんが、そして本当に嫌になるものの悟狼の野郎がいなければ、あんなに早く許せる日は来なかっただろう。
揺れる栗色の髪に昔は見つけなかった白いものが混じってるのを見て、ああこの人も年を取ったんだなと感じる。いつもどんな時でも笑顔の印象が強いこの人の泣いた姿は、覚えてる限り三度しかない。
コップを口につけて一気に半分までオレンジジュースを飲み干し、息をつくと僅かに眉尻を下げて俺を見た。
「あなた、まだはくちゃんが好きなの?」
「・・・聞かないとわからないのか」
「───いいえ、聞かなくてもわかるわ。あなたは昔から虎珀ちゃんばかり見ているもの」
重たいため息を吐き出した母は、空になったグラスをテーブルに戻す。そしてひたりと栗色の瞳をこちらに向けた。
「可奈ちゃんがあなたを好きって、告白したんだってね」
「だから?」
「可奈ちゃんじゃダメなの?虎珀ちゃんはあなたの姉よ。でも可奈ちゃんなら」
「・・・下らない」
いきなり何を言い出すのかと、眉間に刻まれた皺が深くなる。
可奈とは狼野郎の妹の名前だ。一応、俺たちにとっては幼馴染になる女だが、だからといって別に特別なわけじゃない。
俺にとって特別なのははくちゃんだけ。はくちゃんに付き纏う鬱陶しい野郎として悟狼は認識してるものの、一つ年下の可奈には深い印象がない。
一応悟狼の家に遊びに行くたび何かと付き纏われた気はするのだが、はくちゃんに近づく悟狼の邪魔をするのに必死で対して相手をした記憶もない。興味がないのだ、根本的に。
「姉と言っても血の繋がりはない。あんたらが隠してた真実を今の俺は知ってる。良かったと思って欲しいくらいだ。俺たちに血の繋がりがあれば本当の禁忌になっていたのだから」
悲しげに眉を下げる母の姿に、昔ほど苛立ちは沸かない。けれどはくちゃんへの想いを否定されるなら、話はまた別だ。
はくちゃんと俺。血が繋がってないと知ったときの衝撃は、生涯忘れることはないだろう。
出来すぎたドラマのように、深夜両親が話しているのをたまたま聞いてしまったあの日、胸に去来したのは悲しさと苦しさ。
ずっと絶対に切れないと信じ込んでいた絆が本来は何も存在しないと知らされて、正気を保っていられるほど余裕は無かった。
けど同時に心の奥深く、自分でも認識していなかった場所が歓喜した。嬉しい、幸せ。これで誰に憚ることなく、いつか彼女を名実ともに手に入れられるかもしれない、と。
「俺が好きなのははくちゃんで、はくちゃんだけだ。可奈のことは好きでも嫌いでもない」
「酷い言い草ね。あの子は本当に昔からずっとあなたを見てるのに」
「俺だってずっとはくちゃんを見てる。はくちゃんだけが俺の特別だ」
二つの感情が複雑に入り混じり、一時は混乱する想いを収める鞘が見つからず、一人で勝手に荒れていた。
鬱屈した感情を発散するために喧嘩を売ったり、売られた喧嘩を伸しつけて返したり、学校にも碌に通わずサボって街を徘徊し、夜遅くに怪我をこさえて帰宅した。
どんな顔をして家に居ればいいか、わからなかった。父親と信じていた人に裏切られたと思った。母親に騙されたと思った。
そして大好きな姉を前に、どんな顔をすればいいかわからなくなった。
「どうして虎珀ちゃんなの?虎珀ちゃんは、血は繋がってなくてもあなたの姉なのに」
どうして?誰かを好きになるのに明確な理由が要るのだろうか。好きだから好き。それだけの話。
俺は物心付いた時には既にはくちゃんが好きだった。でも昔は今と違って純粋に姉として慕っていたと、思う。
それが変わったのはいつ頃だろうか。変化を認識できないくらい、ゆっくりゆっくりと形を変えて、気がつけばもう『恋』していた。
劇的に落ちるのも『恋』ならば、意識しないうちに変化している想いも『恋』の一つ。俺の想いは時間をかけて積み重ねた『好き』で出来ている。隙間なく降り積もった雪が凍結し、想いは今でも降り止まない。ただただ降り積もった『想い』で心が固まり大きくなる。色あせることはなく、色が付くことすら考えられない混じり気ない純粋な感情。
しかしそれは綺麗なものだけで出来てるわけじゃない。降り積もる感情は美しい欠片ばかりでなく、醜いものだってあるだろう。だがはくちゃんに関わることで生まれたすべての『感情』は俺にとって特別だった。
沈痛な眼差しを向ける母の姿に、すっと目を眇める。
目の前の女性は確かに家族で、彼女にはくちゃんに向けるような『想い』は抱いてないし、抱く相手でもない。
はくちゃんは俺が荒れてる時期もずっと変わらなかった。気まずそうに視線を逸らす母親、何も言えずに口をつぐんで静観する父親。そんな二人と違って、いつもどおり『弟』を心配してうろちょろしていた。
状況を知らなかったというのもあるけど、きっと状況を知っていても同じだったと思う。はくちゃんにとって、俺は特別な『弟』だから。
「虎珀ちゃんは、全てを知った上であなたを弟として扱っているのよ」
「知ってる」
「それでも虎珀ちゃんを『女の子』として好きなままでいるの?」
重ねて問いかける母親に、一つため息を吐き出した。
何を今更言っているのか。自分の『想い』は揺らがない。もともと土台はきっちり作られていて、その上にじわじわと骨格を作り肉を付けていった想いだ。その場限りの感情なら、もうとうに捨てている。
はくちゃんは俺のことを『弟』としてしか見ていない。凄く業腹ものだが、恋愛関係になるなら、悟狼の方が確率が高いだろう。
でもはくちゃんは何があろうと俺の手を放したりしない。無条件に信頼できるのは、無鉄砲な部分があるどこまでもお人よしの部分を知ってるから。
昔、俺が荒れてる時期、たまたま喧嘩していたところをはくちゃんに抑えられたことが一度だけある。
相手はここら一帯でも有名な男で、ガタイも経験も胆力も何もかも勝ち目がない相手だった。
拳一つで沈められそうになって、ぐらつく頭を必死に足を踏ん張って支えて、額が割れて滴る血に視界を奪われそうになりながら相手を睨んでいた時、形振り構わず走ってきたのがはくちゃんだった。
自分より頭二つ分は身長が高い男の腕に必死に両手でぶら下がって、『やめて』と、『弟なの』と、『殴るなら代わりに自分を殴れ』と泣きながら訴えた。
どう考えても俺以上に勝ち目がないのに、わあわあと大泣きしながら、必死に小さな身体で立ち塞がって。
喧嘩していた相手に土下座して許しを請うたのは、今も昔もあの一回だけだ。自分が傷つけられるのはいい。でもはくちゃんだけはダメだと、考える前に身体が動いた。
俺は決して、はくちゃんみたいにお人よしじゃない。それでも理性より本能が先立つ想いを、認めずに逃がしたくなかった。
腕の中にいる華奢な少女を抱えなおすとソファからすっと立ち上がる。
こちらを見上げる母親の視線に、ゆるりと口角を持ち上げた。
「当然だ」
好きになって欲しいから好きになるんじゃない。相手を好きになるから、好きになって欲しくなる。
俺ははくちゃんが好きだから同じ想いを返して欲しいけど、そうじゃないからといって嫌いになるのも、好きじゃなくなるのも違う。
泣きそうに瞳を揺らした母親に背中を向けて、そのままはくちゃんの部屋へと向かった。
暢気に眠り続けるはくちゃんの寝顔がとても愛しい。自分の腕の中ですっかり安心しきって全身を預けてくれる。それがどれだけ嬉しいものか、彼女はきっと気づいていない。
でも今はまだそれでもいい。『弟』でいる限りはくちゃんは俺を見限れない。絶対に見捨てたりしないと、自信を持っている。
「それでもいつか───俺を『男』として見てね。兎も虎を食べたいって思うんだよ」
自分とは違い、まっすぐな髪に頬を寄せる。擽ったい感触に心が跳ねて、幸せをじっくり噛み締めた。
今はまだ、はくちゃんは恋愛をしないだろう。自分たちの関係を変えるのを恐れている臆病な人は、薄々気付いている事実にも気付かないフリをしている。
おそらく悟狼もはくちゃんの心の惑いに気付いてるに違いない。けれどあいつももう少しこのままの関係もいいと思ってるから、だからこそ静観してるのだ。
「あと少しだけ待ってあげる。だから早く大人になってね、『お姉ちゃん』」
今はもう、口にしなくなって久しい呼び方。
耳元でこそっと囁くと、健やかに寝ているはずの唇がゆるりと持ち上がって、とても可愛らしい笑顔を浮かべた。




