第1部 開拓者達 第2章 吾妻の国 第1話 旅立ち
豊城入彦命がお伴した手下一行と吾妻の国へ旅するルートを示しました。
崇神天皇の集団が纒向の郷に来てから、五年が経ちました。その頃に、疫病が流行り、民は次々と感染しました。その当時、疫病は結核菌の流行だったようです。そこで、大倭国魂神を祀る所を市磯長尾市から奈良県天理市新泉町星山の大和神社に移し、大物主神を三輪山の大神神社に祀ったところ、疫病が治まりました。崇神天皇一行は、当初、地元の神を祀っていたが、徐々に天照大御神を祀るようになっていきました。天照大御神の安置場所は伊勢神宮になるのですが、その話は第二話で少し述べました。
纏向の里では、物部一族を初めとした崇神天皇の外戚氏族や多一族のように天照大御神を主神とする一族が集まり、所帯も大きくなってきた。そのため、稲を栽培する土地の拡大と戸口の増大が必要になってきます。そこで、畿内だけで無く、西国や東国に勢力を伸ばす必要がありました。そのため、四道将軍という物語がでてきます。
崇神天皇には、七人の皇子がいて、その中で二人の皇子、活目尊と豊城入彦命は腹違いの兄弟でした。活目尊は正妻の御間城姫で、後の垂仁天皇となります。一方、豊城入彦命の母は、紀の国で日前宮と称された一大勢力のある紀一族の荒河戸畔の娘、遠津年魚眼眼妙媛で、皇位に付くことはできませんでした。それでも、豊城入彦命は崇神天皇の実績を間近で見ていましたし、国の在り方を見ていました。その国の在り方とは、集落が中心の弥生時代から国家という形態が生まれる古墳時代、民の生活環境もそうですし、戸口制度も。さらに、崇神天皇の時代になって、朝廷を中心に世の中が動くようになり、流通の分野でも崇神天皇が船を大量に造り、船の利用を盛んにしました。そのことによって、朝廷に献上物が届くようになります。また、調役を民に追わせることによって、災害時の復旧とか、戦さにも借り出されることになりました。その時代の変革を成し遂げたのが崇神天皇でした。『日本書紀』には、崇神天皇のことを「御肇国天皇」と称えています。崇神天皇が出雲や北陸や東海や丹波に四道将軍を送る中、崇神天皇は活目尊と豊城入彦命を呼び出した。
「どちらも可愛い我が子よ 私の跡目は活目尊にしてもらうことにした 豊城入彦命は東国を治めてもらいたい」
豊城入彦命も以前から、吾妻の国の新たな国づくりを模索していました。
「分かりました 我が国のために東国へ参ります」
「そうしてくれるか 夷守として多真木を連れていけばよい 戸口関係は吉備玉津がいいだろう」
豊城入彦命が吾妻の国に行くに当たって、紀の国の叔父、美智支真止乃命に挨拶に行きました。すると。
「従兄弟の毛野荒刀(注12)を連れて行きなさい」
毛野荒刀は橘の香りがする紀の国で育ち、橘は弥生時代から不老不死の妙薬と言われた花でした。美智支真止乃命は何か体調を崩した時に、橘の花を煎じることができる毛野荒刀を連れていくようにと助言したのです。橘は柑橘類で、桜の咲く頃に橘は白い花を咲かせ、夏には良い香りをした実を付ける花で、平安時代から始まったと言われている「ひな祭り」には、左側に桜を、右側に橘を飾る習慣が定着した縁起の良い花でした。毛野荒刀は吾妻の国にも不老不死の妙薬、橘が咲いていると願っていました。
そして、豊城入彦命は紀の国から纒向の郷に帰ってみると、真木と玉津が。
「吾妻の国に行くのを聞きつけた物部勝耶も連れて行ってください」と言い出しました。
「物部勝耶(注13) わかった」
「勝耶は 吾妻の国にも物部一族が住み着いていますので 役に立つと思います」
豊城入彦命は真木と玉津に勧められて、物部勝耶連れて行くことにしました。
豊城入彦命一行は、宇陀の郷から名張の郷に出て、伊勢に近づきます。伊勢は、神風が吹いて常世の波が押し寄せる地でした。豊城入彦命が伊勢の地に踏んだとき、広範囲の水田が広がり、その地は米どころでした。天照大御神の安置にふさわしく、稲を奉納するには最適な場所でした。伊勢神宮が創建されたのは、豊城入彦命一行が伊勢に立ち寄った少し後で、第11代垂仁天皇の時代。倭姫命(垂仁天皇の娘)が天照大御神の神体、八咫鏡を伊勢神宮の内宮に安置されています。
伊勢湾に出た豊城入彦命一行は船で北上して、東海道と伊勢街道の合流地点でもある清洲城付近まで行きました。清洲の郷はその当時、伊勢湾に面していて、デルタ地帯で稲作に適していた。この地区には大きな集落があり、この集落から唐古の郷に流れて来た経緯もあり、纏向の郷からやって来た豊城入彦命一行を出迎えてくれました。この地は後に尾張氏の拠点となり、第12代景行天皇の皇子、倭建命がこの地の尾張氏の姫、宮簀媛と出会った土地でもありました。
豊城入彦命一行は、清洲の郷を出て、北上して木曽街道に入ります。この地は、三野の国と呼ばれ、四道将軍の大彦命が大倭の国から琵琶湖経由で関ヶ原を通過して、三野の国に入り、北上して高志の国(越の国)に向かった土地でもありました。また、後の阿倍氏や加茂氏とも関係深い土地です。三野の国から古代街道の中山道を通って、諏訪湖に向かいました。諏訪湖周辺は、縄文時代中期には縄文人が多く住み着いた土地で、縄文時代晩期には減少したものの、弥生時代後期には水田で稲作をするようになった土地で、諏訪大社に大国主命の子神、建御名方神が祀られているように、この地に出雲から進出してきた人達もいたようです。そして、諏訪湖から蓼科山の麓、蓼科高原を経て、浅間山の麓から碓氷峠(群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町の境界にある峠)を超えて、碓氷川沿いに進むと烏川に。烏川を渡ると目の前が広がり、豊城入彦命一行はそこで足を止めとなりました。そこは、豊城入彦命達がこれから開拓する日高の郷(群馬県高崎市日高町)です。その地は利根川の上流にあたり、赤城山の麓で、デルタ地帯になっていました。豊城入彦命一行の旅路はこの地に留まることになり、この地で理想の郷を築くことになります。
注12:毛野荒刀は架空の人物ですが、後の上毛野氏と下毛野氏となります。本居宣長は『古事記伝』で「木の気と云ることもあり」とし、木の国すなわち「紀の国」が「毛の国」と転訛したとしています。
注13:物部勝耶も架空の人物ですが、物部氏は全国的にネットワークを持っていた。元々、物部氏は縄文文化を継承する一族が結集したと思われます。
旅先での物語を次の話で載せます。




