第1部 開拓者達 第1章 王権事始め 第4話 若き開拓者達
玉津と真木と田尻は、ヤマト王権の手下として志願します。
真木と玉津は唐古の郷を朝早く出発し、磯木の郷に。そこには、田尻の姿が。
「なんだ 田尻もここに来ていたのか」
「それが 父親に聞いたのだけれど ミカドが手下を探していると言っていたので」
「下働きをする若者を」
「そうさ それで志願しようと思って」
「真木もそうなのか」
田尻は、真木の横にいる見知らぬ人が気になった。
「この人 玉津というのだけれど 立野の郷でミカドを見かけて 纒向の郷まで追いかけてきたらしい それで 磯木の郷におられると教えると そこに行きたいというので連れてきたのさ」
「そうか 真木も志願するのか」
「そのことだけれど 私も志願したいけれど 父がどういうか」
玉津は素早く。
「私は志願します」
「では 玉津さんも私と一緒に」と言って、田尻は玉津の手を握りしめた。
「玉津さんは 争いのない世界を作るためには ミカドのような人に付くのがいいと言っていたね」と真木が。
「私も そう思う 晋国では 桃源郷という言葉があって 自分が描いている理想の郷のことだけれど もう一度 その桃源郷を見つけようとしても二度と現れない だから この場所が玉津さんの桃源郷だと思ったら 逃がしてはだめですよ」と、田尻は玉津の肩に手をやった。
「桃源郷」
玉津が描いている理想の郷づくりは、崇神天皇の部下になり、行動を共にすることで実現することになります。
田尻と玉津は、磯木の社殿の前まで来ました。そこには、奈良県橿原市曽我町にある曽我の郷の若者、佐実と奈良県葛城市笛吹辺りの葛木の郷から来た尾米が志願のために来ていました。
「お~い これから ミカドが会われるそうだ四人いるな」
社殿から出てきた夷守(注8)の大伴道人が出てきた。それで、田尻と玉津、それに佐実と尾米が社殿に入った。
「これから、ミカドの手助けをしてもらいたい 名前とどこから来たか そこの者から」
「田尻で、唐古の郷から来ました」
「私は、玉津で、佐用の郷からです」
「曽我の佐実と言います」
「葛木の尾米といいます」
「文字が書ける人はいるか」
その時、田尻はニヤッとして。
「私 元々は帯方郡にいました 漢の字が読めます」
「書くこともできるのか(注9)」
「はい」
「次は 財宝の管理」
その時、手を上げたのは佐実でした。
「では そこの佐実に頼もう」
「武器の管理だな そこの尾米に」
玉津には声が掛からなかった。それで。
「私は 何をすればいいですか」
「あぁ 玉津か それでは 食糧の管理を頼もう それと みんなはこれから 田尻は文の田尻 佐実は曽我の佐実 尾米は葛木の尾米 玉津は 佐用の郷だったな 佐用は吉備にあるので 吉備の玉津と名乗りなさい(注10)」
四人の役どころも決まり、呼び名も大伴道人から貰いました。そして、宮使いが始まる。一方、真木は内心、田尻と共に行動したかったのですが、親の許しを得ないことには。そんな気持で、唐古の郷に戻りました。
「真木 また 磯木の郷に行っていたのか」
「田尻と玉津は ミカドの下働きに志願しました 私もしたいのですが父上の許可がないと」
「志願して 何をしたいのだ ミカドの側で新しい国を作りたい」
「それは」
小成はそう言って、黙り込んでしまった。
「新しい国とは どんな国なのか 今の唐古の郷でいいのでは」
「稲をたくさん栽培出来て みんなが困らない世の中にしたい」
「ミカドに仕えて それができるのか」
「できると思う 田尻に聞いたのですが ミカドは民のことを思っておられる方だといってました」
「では 君のところで一緒にミカドがどのように民を幸せにしてくれるか聞いてみよう」
大和の地に東海地方から、桃源郷を求めて弥生時代中期に移住してきた人達によって、湿地帯で稲作が行われていました。その当時は、三輪山の裏に広がる奈良県東北部の高原地帯から流れる初瀬川の土石流によって、デルタ地帯ができ、そこに集落を形成されていた。しかし、度重なる川の氾濫による洪水災害により、デルタ地帯は稲の崩壊を経験し、大和高原からの土砂で奈良湖が埋まっていくたびに、集落を移動していきました。現在では、自然災害と位置づけますが、その当時の人々はこれらの災害が霊魂によって起こると考えていました。三輪山を山の神として崇めたのです。弥生時代後期になって、初瀬川の土石流により、奈良湖が埋まって行く中で、瀬戸内海から河内湖経由で、出雲や吉備の人達が移住してきます。その人達は祭事場に祠を建て、巫女に霊魂を祈らせました。その霊魂が八十の神々。その八十の神々を総括するのが大国主命だったのです。唐古の郷から東にある三輪山を神が宿る山として崇め、そこに出雲大社のように社殿を築きました。その祠に大物主神を祀ったのです。それが三輪山の大神神社です。唐古の郷の人々は大国主命の姿を変えた倭大国魂神を崇拝していた。そこに、唐古の郷には人口が増え、多井耳がそれの人々を纏めるため、首長になりました。後の多氏。唐古の郷を含めた大倭国が大国主命を崇拝することで、霊魂を静めようとしていたときに、多一族は神戸の制度(注11)を取り入れ、祭祀に費やす費用を民から徴収する制度を確立した。律令制以前の原始的な戸籍制度のようなもので、構成される民を戸口かし、今まで存在した大集落を郷という行政機関の末端として位置づけました。民から徴収するのは稲の収穫であり、江戸時代の年貢の性格を持っていました。稲の収穫の推進により、余りを郷の運営に使う仕組みを取り入れたのです。災害が起こればそれに充てたりもしました。この新しい制度には、稲の収穫が大前提なので、神に祈る形体も変化してきます。それは農業神の存在で、太陽神の信仰でした。そのあたりから、天照大御神が出現します。多一族の信仰も太陽神であり、鉄器製作にあたって火を使うことから、火の神が出現し、船を運航するための神として水の神、風の神や狩猟の神として山の神などの八百万神を作り出し、その頂点に天照大御神を据えたのです。この新しい制度や神霊にかんする考え方を持っていたのが、多一族でした。そして、崇神天皇が率いる集団であした。初期のヤマト王権です。
真木が崇神天皇の集団で下働きをしたいというので、小成は真木を連れて多井耳のところに連れて行きました。
「小成 息子と一緒にどうした」
「君 真木がミカドの下で働きたいと言っているので」
「ミカドに仕えるのか それはいいことだ」
「君はそう思われますか」
「真木 どのようにミカドを支えるつもりだね」
「ミカドが東方に進出したときに」
「夷守 今 大伴がしている役目か」
「はい」
「それでは 真木にこの剣を与えよう そして これからは多の真木と名乗るように」
真木は、多井耳の推挙で崇神天皇の元で働くことになりました。
注8: 夷守は防備のため、重要な土地を守る人。
注9: 通説では、日本に漢字が入ってきたのは5世紀になってからとなっていますが、邪馬台国が存在していた頃には、一部の高貴な階級では読み書きが出来た。1世紀頃の土器にも漢字らしきものが発掘されている。
注10: 崇神天皇の時代に部民制が引かれ、例えば、物を調達する役割を担っていたので物部と名乗らせた。それで、現在の姓と名前の間には「の」が付かないが、古代ではこの「の」を。その部民制の他に、地域出身であれば、その地域を姓にして、「の」を付けて名前がくると古代の人は決めていた。そうでないと名前だけだと、混乱してしまうので、便宜上の制度でした。
注11:古代から中世の日本において特定の神社の祭祀を維持するために神社に付属した民戸のこと。
この後、いよいよ吾妻の国に旅立ちます。




