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第1部 開拓者達 第1章 王権事始め 第3話 志気高き若者

前話では、血脈でその当時の皇族が出来上がったかを述べました。

 崇神天皇時代には、中央集権化が進むにつれて、各地から若者が唐古の郷や纏向の郷に集結するようになりました。『常世の国物語』はその辺りから始めます。

 唐古の郷には桃の木が植えられ、春になるとピンク色の花を咲かせ、村人は田んぼを耕し、種籾を巻いている風景がありました。のどかで、穏やかな日だしが田んぼに差し込んでいました。その田んぼと田んぼの間のあぜ道を集落の方へ向かう若い青年が。それに気が付いた種まきをしていた初老の男が、作業を止めて声を掛けました。

「そこの若い者」

 若者は田んぼの方を。その初老の男は懐疑的なおもむきで若者に話しかけました。

「私のことですか」

「何処の者だ 見たことがないようだが」

「佐用から来ました 玉津といいます」

「佐用の者か 私は吉野からこの地に来た 小成という」

 播磨国佐用の郷は、恵龍山ケイリュウサンを越えた美作国吉野の郷に隣接していて、この小成は吉野の郷から唐古の郷に。

「佐用は、吉野に比べて農地も広いし 収穫も多いだろ」

「それが 出雲の王 宇迦都久怒命ウカツクヌノミコト(注3)の軍が佐用まで進出してきたのです」

「それで逃げ出したのか」

「はい 立野の郷(注4)まで そこで 大軍の船が停泊していました」

「大軍というと 何処の集団なのだろう」

「一艘の船から一人の甲冑を付けた人が降りてきました まだ 若いのに立派な姿をしていました とても魅力的な方で 近くにいた乗組員に声を掛けました」

「何を聞いたのですか」

「今から 何処へ向かうのかと」

「それで」

「纒向の郷へ それで その大軍を追って ここまで」

「その勇ましい方を追っかけて あぁ ミカドのことだ」

 唐古の郷の人達は、新しい世の中、理想郷の出現を望んで、崇神天皇の集団に期待していました。しかし、立野の郷で進軍が止まっていたのは、御影の郷を本拠地としていた摂津の王、河内青玉コウチノアオタマ(注5)が河内湖の周辺を支配していたため、河内青玉との交渉が纏まらなかった。河内青玉の娘、埴安媛ハニヤスヒメを皇室に引き取ることで、縁戚関係を結ぶ話になっていたようです。

「立野の郷で立ち往生していましたが ようやく動き出しました それで 私は野宿をしながら纒向の郷を目指したということです」

「それでここまで来たのか 纒向の郷はここから近い もしよかったら 私と一緒にこの集落で生活しないか」

「小成さん そうします 種まきを手伝いましょう」

「よし 話は決まった」

 玉津は、小成に連れられて集落に入りました。驚いたのは竪穴式住居の数と人の多さでした。その当時、三百二十㎡位の広さに二百個数の竪穴式住居が建てられていた。六m四方に四個数の竪穴式住居があったことに。小成の住居には、五人が住んでいて、玉津と年齢が近い男子と娘が二人いました。囲炉裏では、小柄な女性が土器に水を入れ、木の実や畑から収穫した菜っ葉を入れて、小枝を燃やして、食事の用意をしていました。

「食事が出来たわよ あなたも一緒に食べましょう」

 囲炉裏の周りに、小成が座り、その橫に玉津が。

「あなたの名前は」

「玉津といいます」

 食事の匂いを嗅いたのか、子供達が帰ってきました。長男は真木という名でした。

「真木 どこに行っていたのだ 種まきも手伝わないで」

「三輪山の麓まで」

「何をしていたのだ」

「今度 纒向の郷に来られた人達を見極めに行っていた 田尻と」

「田尻か、あいつとは付き合うなといっていたのに」

 田尻の父、田良は帯方郡の下級官僚で、晋国の八王の乱(注6)に巻き込まれ、帯方郡を捨て、倭国に渡り、桃源郷を探し歩いて、唐古の郷にたどり着いた。勿論、学識もあり、唐古の郷で頭角を表します。そのため、唐古の郷の人達から煙たがられていたこともありました。田尻はその田良の子として育ち、機転が利く性格でした。

「田尻が 纒向の郷のどこに宮があるか 一緒に探しに行こうというので 三輪山の麓まで行ってしまった」

「それで 宮はあったのか」

磯城彦シキヒコの社殿に仮住まいしておられるらしい」

 磯城彦は、奈良盆地の東南部の地域、現在の奈良県磯城郡と奈良県桜井市一帯を治める首長でした。

「磯城彦を頼ったのか それでは 長く磯木の郷におられたらまずい」

「何故ですか」

「磯城彦の兄 磐余彦イワレヒコが磐余の郷におり ミカドの進出には反対している 早く纏向の宮を建てなければ このことを我が君に報告しなければ」

 小成は唐古の郷の首長、多井耳タノイミミ(注7)の竪穴式住居に向かった。

「どうした 小成」

「ミカドが纒向の郷に入ったのは ご存じですね」

「それは ミカドからの使者が来て」

「ミカド 今 磯城彦の社殿におられるのも」

「磯城彦のところか よくない 早く纒向の宮殿にお連れしないと」

「私もそう思います」

「ミカドの宮殿は物部一族が担当している 物部伊香色雄命イカガシコオノミコトに催促してみよう」

 崇神天皇の集団は纒向の郷に到着しましたが、そこには崇神天皇の宮殿ではまだ整備されていませんでした。そのため、磯城彦の社殿を仮の宮殿としたのです。『日本書紀』によると崇神天皇の宮殿は磯城瑞籬宮シキミズガキノミヤと記載されています。大正時代に建てられた石碑が存在し、その場所は志貴御県坐神社シキミアガタニマスジンジャ境内に。この神社の祭神は、大己貴神オオナムチノカミで大国主命の別名で、国津神を取り仕切る神でした。幸魂奇魂サキミタマクシミタマの神として祀られています。幸魂は人々を平和で幸福な気持(魂)に導き、奇魂は神霊によって物事を達成させる力を持たせる気持(魂)に導く働きをしています。この志貴御県坐神社は奈良県桜井市金屋にあり、三輪山の西南の麓に。

 天照大御神と大国主命の関連の一つの逸話は、『日本書紀』の崇神天皇五年条にあり、「国内に疾疫多くして 民死亡れる者有りて 且大半ぎなむとす」とあります。崇神天皇の時代に疫病が流行して、民の半分が疫病に罹り、民が半減しました。最終的に、大物主神は三輪山の大神神社に祀り、天照大御神は変遷がありましたが、伊勢神宮に祀ることで落ち着きました。

 もう一つの逸話は、『古事記』の国譲りの段で、高天原にいた天照大御神が高天原と黄泉の国(常世の国)の間にある大国主命が治めていた国、葦原中国を平定するため建御雷之男神タケミカヅチノオを送り込みます。大国主命は我が子の建御名方命タケミナカタノミコト事代主神コトシロヌシノカミが承諾すれば、国を譲ると証言しました。もし、子供達が承諾したら。そこで、建御雷之男神は事代主神のところに。事代主神は快く、この国を天照大御神に差し上げましょうとなりました。建御名方命とは、武力で攻め立て、諏訪湖まで追い詰めます。そして、建御雷之男神は殺害して承諾を得ようとしましたが、建御名方命はこの諏訪湖から動かないと言って、国譲りを承諾しました。それを大国主命に報告すると、出雲大社を建立して、八十の神共々祀って頂けば、天照大御神にこの国を譲りましょうと約束しました。

 『古事記』の国譲りの段は神話ですから現実的ではないですが、崇神天皇の集団が纒向の郷に来たときに、地元の大国主命を祀っていた首長達は、崇神天皇の集団に従ったのでしょう。

 小成は、多井耳の所から戻ってきました。帰ってみると玉津と真木はすっかり仲良くなっていました。真木は、明日にも玉津を磯木の郷に連れて行く約束をしていたようです。

「玉津さん ミカドを見たことがあるのですか」

「立野の郷でちらっと見ました」

「私は どんな人なのかと」

「立派な人でした 真木さんは 何故 ミカドに会いたいのですか」

「ミカドの配下になって 新しい世界を築きたいです」

「どのような世界 争いのない世界ですか 佐用で 出雲の軍が攻めてきて 私が育った郷の人達が殺されてしまいました もう そんな世の中にはなって貰いたくないです」

「争いがなくなるには もっと強い軍とか理想を持った権力が必要だと思います」

「それが ミカドにはあるのですか」

「田尻が言っていたのだけれど 同じ土俵ではいつまでも争いが続くと 今の晋国のことを言っていると思う」

「大きな権力基盤を持ったものが 最後には勝利するということですか」

「唐古の君は それをミカドに期待してこの地に迎えたと思う」

「それで 磯木の郷に行って ミカドがどのような人物かを見極めようと」

「私の思うには ミカドは農作業をしている民の味方であって欲しい」

「そうだね 農地を拡大することができる人であって欲しいですね 玉津さん 明日にでも ミカドがおられる磯木の郷に行ってみますか」

「はい 連れて行ってください」

注3: 宇迦都久怒命は、当麻蹴速と相撲で対決した野見宿禰の父で、土師氏の祖。

注4: 立野の郷は、現在の兵庫県たつの市。野見宿禰がこの地で亡くなり、出雲か野見宿禰を忍んで揖保川の石を積み、墓にした。それで、立野と言われる。

注5: 河内青玉は、凡河内氏の祖で「オオシ」が付いていることから、河内たけでなく、摂津や和泉も支配下にあったという。

注6: 八王の乱は、魏が滅亡して、司馬炎(武帝)が晋を建国した。しかし、その司馬炎も290年に後任の皇帝も決めずになくなった。後継者が多かったこともあって、身内の8王が争いを始めた。291年から306年まで続く。

注7: 多井耳は架空の人物ですが、後の多氏となる。『古事記』によると古族多氏の子孫は、多朝臣、意富臣、小子部連、坂合部連など中央豪族で繁栄した。



次話は、志気ある若者がヤマト王権の一員に。

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