第1部 開拓者達 第1章 王権事始め 第1話 桃源郷を求めて
はじめに、記載した概要から始めます。
最初に日本全土を統一しようとしたのは、奈良県桜井市の三輪山周辺の勢力でした。西暦三百年頃のことです。『日本書紀』には、御間城入彦五十瓊殖天皇が磯城瑞籬宮で鎮座したとあるように、『古事記』や『日本書紀』に登場する第十代崇神天皇(注1)を頂天にしたヤマト王権でした。そのヤマト王権は、九州を中心にした勢力(倭国(注2))から脱皮して、新たな国づくりをめざします。崇神天皇は、軍事力を背景に兵力の拡大を図り、各地の行政官の設置のため、北陸道・東海道・西道・丹波(山陰道)に軍隊を派遣します。『日本書紀』ではその軍隊の将軍として、北陸道に大彦命を、東海道には武淳川別を、西道には吉備津彦命を、丹波には丹波道主命を向かわせたとあります。その人達は、各地でヤマト王権の権威を占めそうとしたのでしょうか。それとも、理想の国づくりを。理想の国と言えば、東晋の詩人、陶淵明が示した桃源郷だと思われます。
日本を象徴するのは桜ですが、咲いたと思ったら、すぐに散ってしまいます。その点では、桃は春には花を咲かせ、夏には果樹として実を付ける。長期に亘って楽しめる品種でした。この桃の原産地は中国からペルシアに至ります。日本には元々生息していいませんでした。それが、縄文時代中期に中国から渡って来た人達が日本にスモモを持ち込みました。このスモモには、利尿作用とか高血圧予防や肝機能を高める効果があり、古くから中国で桃核を粉にして漢方薬にしていました。体に良いスモモを中国からの渡来人は、日本に持ち込んだのでしょう。その証拠として、長崎県諫早市多良見町舟津にある伊木力遺跡から五千二百年前の最古の桃核が出土しています。
桃によって得られる長寿。そのため、中国では桃が咲く郷の人達は、長寿であったところから桃源郷と呼ばれるようになりました。中国の昔の人は、理想とした郷、長寿で永久的な平和の郷を桃に因んで桃源郷と言いました。そのような考え方が日本にも伝わって、弥生時代には、祭事のお供え物として、桃、当時はスモモが使用されたようです。奈良県御所市名柄の名柄遺跡や兵庫県朝来市和田山町加都の加都遺跡でも桃核が出土しています。桃が太古の時代に重宝がられ、平和で共同生活ができる郷を作り出しました。この物語の出発点は、そのような郷を作り出した唐古の郷から始めます。唐古の郷は、現在の奈良県磯城郡田原本町唐古にある弥生時代の唐古・鍵遺跡公園に存在していました。考古学者が唐古・鍵遺跡の発掘調査を行い、桃核が大量に出土したことがニュースになり、中国系の人骨も出土し、鉄の鋳造技術があったとされる中国北方の燕でつくられた斧の再加工品も。興味深いですね。唐古の郷は、桃が咲く桃源郷だったのでしょう。
現在では、唐古の郷は奈良盆地の中央に存在しているが、弥生時代初期の頃は、大和高原を水源とした大和川の上流、初瀬川が奈良湖に流れ込み、山の土を運んで中州ができ、その中州に唐古の郷がありました。中州の状態なので、稲作には適していました。その土地に瀬戸内海から河内湖に入り、信貴山と明神山の谷間、亀ノ瀬から奈良湖南東の湖畔に稲の種を持ち込んで、稲作が始まります。その当時は、青銅器や鉄器のない時代でしたので、西にそびえ立つ二上山から採取するサヌカイトを石器として使用していました。また、当時の人は、唐古の郷の東側にある龍王山からドングリをはじめとする果実類を主食として、その果実類を採取して生活していたようです。その食べ物にはスモモもありました。スモモはバラ科サクラ属に所属し、さくらんぼや山葡萄などの果実も野生で採取することができました。弥生時代前期後半から中期の始めには、瀬戸内海経由で岡山県の吉備の人達が唐古の郷にやって来ます。そして、集落を築くようになりました。弥生時代後期には、中国から朝鮮半島経由で、鉄器文化が唐古の郷にも慎到し、鍵地区で鉄器の生産が始まる。また、弥生時代後期後半には、気候変動により降水量が増加し、全国的に海岸線や川縁りで水田を営んでいた地域が洪水で流される現象が起きました。唐古の郷も例外ではなかったようですが、この地に集まって来た人達、渡来人も含めて、灌漑施設の充実を図り、この時期を凌ぎました。この頃から古墳の増設が始まる。また、唐古・鍵考古学ミュージアムの資料によると、この時期に出土した土器の結果、弥生時代前期から中期中ほどまでは、愛知県や静岡県で出土している土器が多かったのに対して、弥生時代中期後半からは、岡山県から西の土器が増えています。このことから、弥生時代後期の唐古の郷では、東海の人々が住んでいた地域に西から北部九州や吉備地方からやって来た人達が共同で生活していたことがわかります。桃源郷の考え方は、西からもたらされたようです。
崇神天皇率いる集団は、日本をひとつにする国のために突如、奈良県桜井市の地に現れました。それが纒向の郷です。古墳時代初期には、社会が発展していく中で貧富の差や権力の分化が進み、上層部と下層部のものの考え方の違いがあらわれてきました。この頃には、稲作をする者、物作りをする者、その橋渡しをする者、権力を握る者が存在していきます。そのような時代になって、人間としての理想郷に対する思いも違ってきました。そして、原始的な階級制度が成立していきます。唐古の郷では各地から住みよい土地、理想郷を求めて集まって来た人達の集団でした。稲作をする者、鉄器の生産をする者、祈祷をする者など分業化するようになり、その分業の中で、各指導者が生まれ、その指導者を纏めていく唐古の郷の首長が誕生しました。それらの首長を纏めていこうとしたのが、崇神天皇が率いるヤマト王権だったのです。
注1:奈良時代の公家で日本漢詩集『懐風藻』を編集した淡海三船が第1代神武天皇から第41代持統天皇までの死後に付ける諡号を中国の漢詩から選び出した漢風諡号です。
注2:倭国は、中国で使用していた日本を表す名称で、実際には日本に存在した国家ではないと思います。邪馬台国もそうでしたが、その国は北部九州に存在していたようです。
次節では、ヤマト王権から派遣された人達の物語になります。




