第1部 開拓者達 第3章 信濃編 第4話 内密
田尻が多真木に打ち明けたのは、信濃の国から朝鮮半島の百済に人をおくることだった。
多真木と田尻は、安曽の郷の首長、多綜明の住居で再会し、昔話をしていたのですが、田尻が多真木に密かに話がしたいと言い出した。それで、多真木は多綜明に生島神と足島神の祠に行って来ますと田尻を住居から連れ出した。
「内々の話とは」
「この地に来たのは この地の国造を決めるための下調べ これは表向きの話なのです」
「と言うのは」
「真木も知っているように 文章を扱う文部係でミカドにお仕えした」
「そうだよ 田尻は文字が読めて 書くこともできるから」
「ある時 百済の王から書状が人づてに届いた」
「それには 何と書かれていたのだ」
百済は、『三国史記』の「百済本紀」によると紀元前一八年に建国となっていますが、実際は四世紀前半までに伯済国から成立したようです。崇神天皇の時代の頃でありました。その当時の百済は、北に高句麗があり、中国では西晋が三一三年に滅亡し、楽浪郡もその年に高句麗により消滅してしまいました。そのような百済は、晋国が中国南部に東晋を建国したことにより、東晋に支援を求め、倭国(当時のヤマト王権)に支援を求めてきたのです。
「我が国の兵力強化のため あなたの国から兵士を送って欲しいと」
「その知らせ 楽浪郡からではないのですか」
「それが楽浪郡はもうないのです 高句麗に」
「その知らせをミカドに伝えたのですか」
「もちろん それで この地域を治める国造の地位を与えるので 兵士の調達を」
「この地域だけですか」
「ミカドは 物部氏や紀氏にも声を掛けているらしい」
四世紀前半に日本から朝鮮半島に渡って、百済の女性と夫婦になり、ハーフの子供達が倭の五王の時代から欽明天皇の時代頃まで倭系百済官僚(注21)として来日しています。朝鮮半島に任那(日本府)があったという話は、このような人達が生活していたのではないかと思われます。日本府があったと言うのは日本だけの歴史でした。
百済の近肖古王から送られた七支刀に刻まれた年号を考えると太和四年(三六九年)となっています。この剣も、日本から兵士を送り、百済を支援した証拠だと思います。また、高句麗の「広開土王碑」に四世紀後半に朝鮮半島南部に進出し、倭兵が高句麗軍と戦ったと記載されています。
「田尻がこの地で しようとしていることがわかった」
「真木 力になってくれるか」
「田尻の願いとあれば この安曽の郷に来る途中で ある老人に話しかけられた その老人を見つけて 田尻の話を進めようか」
「それは助かる」
「日高の郷に帰る途中で その老人を見つければいい」
多真木は安曽の郷に戻って多道笹を連れ、田尻と共に軽井沢の方に歩き出した。
「ミカドから預かった特命を真木が出会った老人に話してもいいだろうか」
「どうだか 田尻が判断すればいいのでは」
その時、多道笹が。
「真木さん その老人 どんな方なのですか」
「確か 金刺一族の人だと言っていた」
「金刺」
「知っているのですか」
「金刺の集落でしたら わたしが案内しましょう」
注21:『日本書紀』で倭系百済官僚に上げられているのは、穂積押山、斯那奴阿比多(金刺氏)、紀弥麻沙、物部麻奇牟他14人。
釣り人の老人を探しに、多真木と田尻と多道笹は軽井沢に向けて出発する。




