第1部 開拓者達 第3章 信濃編 第3話 再会
安曽の郷に着いた多真木は、幼なじみの田尻と再会する。
多真木は千曲川沿いに歩き、小高い山を見つけた。尾野山です。それから、千曲川の支流、依田川に沿いました。すると、目の前に富士嶽山が。その麓を歩いていると集落が。そこが安曽の郷でした。この集落の周りには環濠が設置され、入り口には櫓門が。その門には、夷守が警備に就いていた。
「この集落には むやみに入ることができないですが」
「わたし 多真木と申します」
「あぁ 多一族の方ですか」
「そうです 厳重に警備されていますね」
「よそ者がこの辺りに」
「よそ者とは」
「出雲の連中です この辺りを支配しようと企んでいます」
「出雲の人達がこの辺りにくるのですか」
「以前 大彦命さまにお伴して北陸道に遠征しました その時に出雲の連中を北陸道から追いやったのです すると その連中が南下して この科野の国に流れ込みました 大彦命さまはこの科野の国をミカドの支配地としたいと言っておられました」
「それで 多一族がこの地に」
出雲の人達は大国主命を神と崇める人達で、元々各地に土着神が存在していたのですがそれら神々を大国主命に集約しようとする人達のことです。その当時の世界観は、信仰が権力闘争に使われていたと考えてもいいかと思います。大国主命を主祭神とした神々を国津神と言い、天照大御神を主祭神とした神々を天津神と。この神々の区別は、この時代には存在していませんでした。この区別がはっきりと区別されたのは、大和朝廷が盤石な地位になってから。飛鳥時代から奈良時代のことです。『古事記』や『日本書紀』が編纂された頃と言ってもいいでしょう。藤原氏が実権を握った頃と言っても過言ではありません。その当時、藤原不比等の政権下で、律令神祇制度が公布されました。その制度は、「祭」と「政」を区別させるためで、律令制度が施行される前の朝廷では太政官よりも神祇官の方が上位に設定されていました。その体制を変えるのが律令神祇制度です。神祇の「神」は天津神、天神で、「祇」は国津神、地祇を表しています。この制度が公布されてから、相対的に地祇を祀る神社では、天孫族に関わりのある素戔嗚命を主祭神にするようになりました。
崇神天皇の時代ではこのような天津神や国津神は、はっきりと区別なされていなかったようです。ただ、ヤマト王権は天孫系で、出雲勢は神祇系でその中には高天原から追放された素戔嗚命系も含まれています。そのような時代でしたから、三輪山大神神社に祀られている大物主大神(大国主命)も崇拝されていました。
「出雲の連中 この地に大国主の神様を祀ろうとするので 大倭の国から生島神と足島神をこの地に」
「生島神と足島神は どこに祀られていますか」
「下之郷に祠を建てて(後の生島足島神社です)」
「それでは わたしもその祠に」
「是非 お参りしてください さて 今回 この地に来られたのは」
「豊城入彦命さまが毛野の国に来られていて その地を吾妻の国の我が王権の拠点にするため そこで警備が必要になり 夷守になっていただく人を探しに」
「それで 多一族がいるこの郷に 用件はわかりました それでは 我が首長にお目にかからせましょう 遅れましたが わたし 多道笹と言います」
多真木は、多道笹に連れられて首長の竪穴住居まで来ました。
「真木さん ここでお待ちください 首長に」
少し経って、首長が出て来ました。
「多真木さん どうぞお入りください わたしは多綜明と言います」
多真木が多綜明に案内されて庵の側に座りました。対面には。
「あ 田尻」
そこには、田尻が座っていたのです。
「真木 久しぶり」
「田尻 何故ここに」
田尻は、崇神天皇の命でこの科野の国の国府として国造を任命するに当たっての下調べに来ていたのです。
「それはともかく 真木がここに来たわけは 多道笹さんから聞きました 豊城入彦命さまはお元気にされていますか」
「いよいよ 国づくりだから」
「真木も知っているかと思うが ミカドは各地に直轄地を設置して その管理をする役目の国造を任命しようとされています そこで わたしに その下調べを」
その時、多綜明が。
「田尻さまには しっかりと調べて貰います さて 多真木さんの用件ですが わたしも 豊城入彦命さまはミカドの宮殿でお目にかかったことがあります ワカがそのようにお望みなら ここにいる多道笹をワカに仕えさせましょう」
「それはありがたいです」
その後、多真木と田尻は昔話に花が咲きました。
多真木は、日高の郷の夷守を見つけて。




