名前を呼ばれて
披露宴も終盤に差しかかっていた。
テーブルの上には、
飲みかけのグラスと、
少しだけ崩れたナプキンが残っている。
さっきまで大きかった笑い声も、
今はところどころで小さく続いていた。
コウタは何度目か分からないくらい、
ベースのストラップを直していた。
長さは変わっていない。
さっきも確認した。
それでも、
指が勝手に動く。
式は、
滞りなく進んでいる。
予定通り。
問題なく。
だからこそ、
このあとの数分だけが、
妙に大きく感じる。
進行表を見る。
閉じる。
もう一度、見る。
「……音量、あれでいいよな」
誰に聞いたのか分からない声だった。
ヒナタは、
少し離れたところでギターケースに手を置いたまま、
静かに頷く。
「大丈夫」
ハヤテも、
スティックを握ったまま笑わなかった。
「いつも通りでいい」
「それ、一番難しいやつだろ」
コウタはそう言って、
少しだけ息を吐いた。
ヒナタもハヤテも、
それ以上は何も言わない。
「……変だな」
小さく言う。
「何が」
ヒナタが聞く。
「自分の結婚式なのに、
ライブ前みたいに緊張してる」
ハヤテが、
少しだけ口元を緩めた。
「似てるんじゃね」
「何が」
「大事な人の前で、
ちゃんと鳴らすところ」
コウタは、
すぐには答えなかった。
その言葉だけが、
胸の中に静かに残る。
やがて、
扉の向こうで司会者の声が聞こえた。
コウタは、
ベースを持ち直す。
ヒナタが先に立つ。
ハヤテがその隣に並ぶ。
コウタは一度だけ、
二人の背中を見た。
それから、
小さく頷いた。
「ここで、新郎からのサプライズがございます」
会場の空気が、すっと集まる。
「新郎は、音楽活動を続けております。
本日は、その新郎が長く活動を共にしてきたバンド、
スノーフレークスの皆さまと、一曲演奏していただきます」
“Snow flakes”
はっきり、名前で呼ばれた。
コウタは、
一瞬だけ息を詰めた。
三人が前に出る。
ヒナタがギターを構える。
ハヤテがスティックを持つ。
コウタは、黒いベースを肩にかけた。
マイクは置かれたまま。
喋らない。
歌わない。
低いベースの一音目が入る。
会場の空気が、
静かに変わる。
派手じゃない。
でも、芯がある。
ハヤテのドラムは、
いつもより柔らかく、
ヒナタのギターは、
必要な分だけ前に出る。
三人の音が、
ちゃんと重なる。
途中、
コウタは一度だけ顔を上げた。
家族が、
笑っていた。
親戚も、
友人たちも。
その少し先で、
新婦も、
幸せそうに笑っていた。
ちゃんと、
届いている。
胸の奥が、
一気に熱くなる。
最後の音が、
静かに消える。
一拍。
そして、
大きな拍手。
司会者が、
少し声を張って言う。
「ありがとうございました。
スノーフレークスの演奏でした」
コウタは、
ベースを下ろしたまま、動けなくなった。
逃げなかった。
上手くできたかは分からない。
正しかったかも分からない。
それでも。
ヒナタの隣で。
ハヤテのリズムの中で。
家族の前で。
今、
ここに立っている。
「……っ」
一歩下がって、
顔を伏せる。
声にならない。
ヒナタが、
何も言わずに隣に立つ。
ハヤテが、
そっと背中を叩く。
拍手が続いている。
肩を震わせながら、
それでも顔を上げて、
もう一度だけ、深く頭を下げた。
「……無理」
拍手に紛れるくらいの声で、
コウタが言う。
「分かってた」
ハヤテが笑う。
「スノーフレークスって呼ばれたの、
反則だろ」
コウタは、
目を赤くしたまま笑った。
「……名前、つけてよかった」
*
会場の外の廊下は、
思ったより静かだった。
扉の向こうから、
まだ拍手と笑い声が少しだけ漏れている。
ヒナタとハヤテは、
並んで出口の方へ歩いた。
「コウタ……泣いたなー」
ハヤテが、にやにやしながら言う。
「泣いたな」
ヒナタは否定しない。
「想像以上だった」
「そう?」
「そう」
ハヤテは笑う。
「最後まで耐えてたのにな」
ヒナタも少しだけ笑った。
「名前呼ばれたのが致命傷だろ」
「Snow flakes」
ハヤテが、わざとらしく言う。
「でも、
ちゃんと最後まで弾いてた」
「そこな」
ハヤテが頷く。
「止まらなかったの、
コウタらしい」
会場を出る前に、
ヒナタは一度だけ、
開いた扉の向こうを見た。
コウタは、
たくさんの人に囲まれていた。
写真を撮られて、
声をかけられて、
少し困ったように笑っている。
「行くか」
二人は、
そのまま会場を出た。
少し歩く。
駅前の明かりが、
だんだん近づいてくる。
「……コウタ、
今ごろどうしてると思う?」
ハヤテが聞く。
「一人で深呼吸して、
そのあと、
また泣いてる」
「二度泣き確定か」
ハヤテが吹き出す。
「多分な」
しばらく、
二人とも何も言わずに歩いた。
駅前の明かりが近づくにつれて、
人の声が少しずつ増えていく。
さっきまでの拍手も、
会場のざわめきも、
夜の空気の中で遠くなっていった。
「変わってくな」
ハヤテが、ぽつりと言う。
「何が」
「生活とか、
立場とか」
ヒナタは少し考えてから答えた。
「でも、
音の場所は変わらない」
一拍。
「……ヒナタ」
ハヤテが急に言う。
「ん?」
「今日さ、
お前が一番冷静だった」
「そう?」
「そう」
ハヤテは、にやっとする。
「だから余計、
コウタ泣いたんだと思う」
ヒナタは、
それには答えなかった。
代わりに、
夜空を一度だけ見上げる。
「じゃ」
ハヤテが改札の前で立ち止まる。
「またな」
「うん」
ハヤテが改札を抜けていく。
ヒナタは、その背中を見送ってから、
反対側の改札へ向かった。




