85. 僕のかわりに
リビングで、レイの用意してくれたハチミツ紅茶を飲んでいるとき、空のスマホが鳴った。
『引っ越し準備があるから、早く帰っておいで』という母親からのLINEだった。
「あの。もう帰らないといけなくて」
スマホから顔を上げて、空が言った。
ああ。
もう帰るのか。
そう思うと、心が一気にしぼんで、琉生は目を伏せる。
「わかった。じゃあ、送っていくね」レイが言った。
「すみません。ありがとうございます」
空が頭を下げると、
「じゃ、先に行ってエンジン温めとくから、あとからゆっくりおいで~」
レイは先に部屋を出て行った。
「荷物は持つよ。あ。本も、忘れないで」
琉生が声をかけると、彼女は、膝にのせていた本を急いでカバンにいれた。
彼女のカバンを肩にかけ、琉生は、空の足を気遣いながら、その手を取ってそっと立たせる。
2人でリビングを出て黙って廊下を歩く。
靴を履き替え、玄関を出たところで、琉生は立ち止まった。
外の空気は意外に冷たく、彼女が一瞬首をすくめている。
琉生は、自分の首からマフラーをさっとはずす。
そして、それを包み込むようにふわりと彼女の首の周りに巻いた。
「これ。僕のかわりに連れて行って」
「琉生くん……」
彼女が目を丸くして琉生を見つめ返す。
「ふふ。大盤振る舞い、かな?」
琉生は笑ってみせる。
さっき、セーターを着たときに、思いついたのはこれだった。
何か一つでも、自分を思い出してもらえるようなものを、彼女にあげたかった。
冬の寒さから守れるよう、彼女を優しく包んであげたかった。
2人同じ気持ちというより、もしかしたら自分の方がずっと想いが強いのかもしれない。
琉生は思う。
それでもいい。
琉生は、まっすぐ空を見つめる。
この顔を覚えておく。次に会う日まで、ずっと。いや、この先ずっと。
見つめる目に願いを込めて、琉生はほほ笑む。
僕の大切な、空。
どうか。僕を覚えていて。ずっと。
次の瞬間、琉生を見つめる、空の瞳からみるみる、涙があふれ出した。
自分より遥かに強くて、潔い空が、ぽろぽろ大粒の涙をこぼしている。
空。
空。
その名を呼ぶ。
彼女の名前が胸の中に響く。想いが溢れる。
声に出しているのか心の中で呼んでいるのか、今の琉生にはわからない。
彼女がうつむいて、一生懸命涙を拭おうとしている。
その姿が愛おしくてたまらなくて、琉生は空を抱き寄せる。
離したくない。
ずっとこのままそばにいたい。
腕にそっと力を込めながら、琉生は関西弁で言う。
「約束やで」
「うん」
「きっと、絶対、お互いに会いに行く」
「うん」
「元気でおってな」
琉生は柔らかな関西弁で言う。なぜだろう。関西弁で言うと、より胸に沁みる気がする。
「うん。琉生くんも」
「もちろん」
胸の中に湧いた熱い塊が、全身を駆け巡る。
鼓動が大きく響く。
でも、琉生は心を決めた。
空。
びっくりさせるかもしれないけど。
空。
……いいかな?
そして、彼は、腕の中の空に話しかけた。
「空。大好きだよ」
彼の声に応えて、彼女が顔を上げ、「ん、私もだいすき」と言いかけた言葉の後半は、琉生のくちびるがそっと奪った。
そこからあとの記憶は、正直、少し曖昧だ。あまりにも夢中で過ごしたから。
ただハッキリ覚えているのは、レイが運転する車中で、琉生はずっと彼女の手を離さなかった――離せなかった、ことだ。




