84. 新しい名前
「同じだよ。ずっと――大好き」
『同じだよ』
空の、その言葉が心に沁みてくる。
彼女も、同じ気持ちでいてくれたんだ。
琉生の心に、温かい安堵が広がる。
そして、ほっとした途端、
「くしゅん」
琉生は小さなクシャミをした。
「ご、ごめん」慌てて言うと、
「だいじょうぶ?」心配そうな空の瞳が、琉生を見上げた。
「う、うん」
うなずいたけど、ほんとは少し寒くなってきた気がする。
お互いの目を合わせていると、自然に笑いがこみ上げてきた。
抱きしめ合っていた腕をそっとほどき、ふふふと2人で笑い合う。
なんだか照れくさくなってしまったのだ。
「なんか。しまらないね。僕」琉生は言う。
「ううん。そんなことないよ。……っていうか、寒い中、そのシャツ姿で走ってきてくれたんやね」
「うん。少しだけ、ね」
そう答えた琉生だが、どこから走ってきたのか空に訊かれて、つい正直に答えてしまった。
「それって、バス停2つ分はあるやん」と空は目を丸くした。
「寒かったでしょ?」空の声が優しい。
「走ってるうちに暑くてジャマになるかもって思ったから、上着脱いだんだけど。案外、……寒かった」
またまた正直に言ってしまう。
今日の琉生は、すごく素直な気持ちになっている。
ずっと思っていたことをやっと彼女に言えた安心感なのか。
それとも、もしかしたら。
自分は彼女に甘えているのかもしれない。そう思う。
そんな琉生に、ゆったりした笑顔で、空が言う。
「ありがとう。あのね……今日会えて、本当に嬉しかったよ。もう無理かもって、あきらめそうになってたから。すごく嬉しかった」
瞳がきらきらして、心のこもった声と言葉が、琉生の心を包んでくれる。
「僕の方こそ。空が日直交代してくれてたから、間に合った。ありがとう」
『ありがとう』の言葉が温かい眼差しと共に、お互いの間を行き来する。
「ふふ。連係プレーみたいだ。どちらか一方だけでも、会えなかったから」
琉生の言葉に、
「うん。そうかも」空もうなずいている。
今、琉生も空も、お互いが同じ気持ちでいることを確信できる。
それって、ほんとに奇跡だと思う。
奇跡だし、すごい幸せだ。
琉生は、空の瞳を見つめながら、正直に伝えた。
実は、想いを伝えるかどうかを迷っていたこと。
仕事柄、自由に会うことも連絡をとることもできない自分が、空に好きだと告げたいなんて。
自分にそんな資格があるのか――ずっと悩んでいたと、琉生は告白する。
いや、告白というよりちょっと愚痴みたいだと琉生は思う。
(ごめん、空。僕は情けないヤツだ)心の中でつぶやく。
「なんの約束も出来ない僕が、君に好きだって言って、どうするんだって……」
「琉生くん……」
「いつか迎えに行くから、僕を待っててとか、そう言うのもなんだか一方的で違う感じがして……」
上手く言えないけど、琉生には、自分が空に『待っててほしい』なんていうのは、すごくおこがましい気がするのだ。なんか上から目線のような。
『待っててほしい』も『迎えに行く』も、なんだか違う気がして。
だから、ただ想いをそのまま、まるごと伝えるのが精一杯で。
『ずっと大好きだ』としか言えなくて。
『ずっと』という言葉に、琉生は、過去も現在も未来も、全部含めた想いを込めたつもりだ。
それでも。
もっと自分が大人だったら。
そしたら、もっと上手く気持ちを伝えられたのか。
どうすれば、もっと……。
あれこれ考えても、ずっと堂々巡りで。
――そんな自分が情けなくて、もどかしい。
ぐるぐるした気持ちの琉生の手を、空がそっと握って言った。
「あのね。琉生くん。約束をしよう。私たち」
「ん?」
琉生はじっと空を見つめて、その言葉を待つ。
「私は、琉生くんが大好き。これまでもこれからもずっと大好き。そして、琉生くんも私をずっと好きだって言ってくれたよね。だったら、2人で約束しよう。どっちかがどっちかを待つとか、待たせるとかじゃなく、それぞれに精一杯夢を追いかけて一生懸命生きて、それで、『今ならいいよね? 』って思ったときに、きっとお互いに会いに行く。そういう約束をしよう」
琉生は、目を瞠る。
空は、なんて、強い。
会えなくなることを悲しんで、ただ落ち込んでばかりいた、自分。
それに引きかえ、精一杯前を向こうとしている彼女。
そうだ。
大人じゃなくても。情けなくてももどかしくても。
今の自分にできるやり方で、彼女との未来を考えればいい。
空が琉生にほほ笑みかける。
「今日みたいにね、ちゃんと、2人の気持ちが重なるときがあると思う。だから、いつって、日を決めるわけじゃないけど」
その言葉を受けて、琉生は応える。
「“絶対会おう。今がそのときだ”そう思う日が来たら、そのときに、きっと会おう。そういうことだよね?」
「うん。その日に向けて、約束するの。2人で」
「……お互いがずっと大好きでいたら、ちゃんとその約束を果たせる日が来る」
「そう。私は、自信あるよ。約束を果たせる自信」
空が笑顔で言った。目がきらきらしている。
(ああ。この笑顔が好きだ)
琉生の大好きな、空の笑顔。
「僕だって」
そう言って、琉生は思わず空を抱き寄せる。心から、想いを込めてぎゅっと抱きしめる。
腕の中の彼女の温もりが愛しくてたまらない。
だからつい、甘えてしまう。
「なんか、元気が出た。君の転校を知ってから、ずっと悲壮な気持ちでいたんだ。もう会えなくなるって。正直すごく落ち込んだ。自分はガキすぎて、現状をどうすることもできないしって」
「うん……私もいっぱい泣いたよ。もう会われへんのやって。遠く離れて、連絡さえ取れないしって」空が言う。
「ごめんね」
琉生は申し訳ない気持ちになる。
彼の事務所の方針で、まだ正式デビューもしていない未成年の研修生は、個人の連絡先を事務所に無断で教えてはいけない、決まりになっているから。
「こっそり教えても」言いかけた琉生を、空が止めた。
「それはだめ。私は、琉生くんには、後ろめたい思いを抱かずに、いつだって正々堂々としていてほしい。だから、事務所との約束を破るのはだめ」
「でも、連絡を取りたいときもあるし、毎日だって会話できたらって思うよね……」
琉生は、それをずっと悩んでいたのだ。
すると、空がちょっとイタズラっぽい顔つきになって、
「あのね。その件なんだけど……」
空が考えた作戦を話してくれた。
その作戦とは――
あるネット小説の投稿サイトで、お互いの作品やお互いの近況について書いた文章に、コメントを残し合うこと。コメントには、一度きりだけど、返信できる機能がある。もちろん、踏み込んだ個人情報にかかわることは書けないけれど。でもお互いの毎日の様子を垣間見ることはできる。
空が言う。
「これなら、事務所との約束破ってないし。なんなら毎日だって、文字の上でだけど会話することもできるよ。基本一往復の会話だけどね。あんまり込み入った話はできないけど……」
「それ、いいね。すごいグッドアイデアだ」
「でしょう?」
空が得意そうに笑った。
琉生はすごく嬉しくなって、思わず口にする。
「さすが空! さすが僕の大好きな空!」
もう何度でも、『さすが』と言いたい。
そして、その名を何度でも呼びたい。
琉生が手放しで褒めていると、空が少し頬を赤くして照れている。
「琉生くん、今日はなんか、大盤振る舞いっていうか……」
「いいんだよ。何度だって思いっきり言いたいんだ。僕は、空が大好きだ。言いたい言葉は、ちゃんと言えるときにいっぱい言っとかないと」
(そうだ。今、できるだけたくさん、その名を呼ぼう。何度だって……)
そう思ったとき、大きなクシャミが出た。さっきより、少し寒くなってきた。
ほんとに、今日は、どうにもしまらない。
空が心配そうな顔になって、
「たいへん。早く、上に何か着て。風邪引いたらあかんし」
「あ。う、うん」
慌てて琉生は、空から離れて、クローゼットからセーターを出し、急いで着る。
そして、ふと思いついて、いつも登下校で身につけているマフラーも首に巻く。
これはかなり暖かくて、肌触りもいいので、琉生のお気に入りだ。
空のそばまで戻った琉生は、空に訊いた。
「ところで、そのサイトは、これまで空がずっと作品を書いてきたサイトなんだよね? ということは、ずっと書いてるっていう、ウワサの長編小説も読めるってこと?」
(今まで、完成したらとかどうとか、って言いながら、教えてくれなかったけど)
「う。ほんとは、完結までは、だめっていうつもりやったけど。この際しょうがないなあ。でも、できたら、その長編より先に、短編とか、中編とか色々あるからそっちから読んで」
空はちょっと照れくさそうだけど、琉生は嬉しい。初めて彼女の作品を読むことができるのだ。
「へえ。ワクワクする。当分、楽しみが尽きないな。片っ端から読むよ」
「うう。ちょっと照れくさいな」
「……あ。でも、空のペンネームは?」
「……くうちゃん。ほら、空の別の読み方」
「なるほど。じゃあ、僕もペンネーム決めて、早速投稿しないと」
「読む専門だって、いいんだよ」
「いや、なんか創作意欲が刺激されてきた。でも、いきなり小説は無理かな。そうだ、短歌。僕は、歌人目指そう」
琉生はすごく前向きな気持ちになってきた。
「すごいね。やる気満々だね」
「うん」
「で、ペンネームは?」
「ん~。そうだな……」
琉生は部屋をぐるっと見回す。テーブルの上にシマエナガの写真集が載っている。
「シマエナガ。シマエナガのシマちゃん」
「シマエナガのシマちゃん。ふふ。可愛い」
「まんまやん」ってつっこまれるかと思ったけど。意外に空は笑って可愛いと言ってくれた。
そんな笑顔も可愛くて、愛しい。そして、嬉しい。
シマエナガは今、琉生のお気に入りだけど、もちろん空にはかなわない、と思う。
琉生は、新しく知った名前を空の目を見つめながら呼んでみる。
「くうちゃん。……いや、今はまだ、空、っていっぱい呼びたい」
空がにこっとして、応える。
「シマちゃんの琉生くん」
「ん」
そのとき、リビングの方から、レイの呼ぶ声が聞こえた。
「お~い。お茶入れたよ~。一緒に飲もう?」
「は~い」
姉の呼びかけに2人で返事をしながら、琉生はまた空の名を呼ぶ。
「空」
「ん?」
「ありがとう。いろいろ考えてくれて」
空は笑顔で首を振る。そんな彼女に、琉生はちょっとまじめな顔で訊く。
「大盤振る舞い? もう一つしてもいい?」
「ん?」
キョトンとして顔を上げた彼女の額に、琉生はそっとキスをした。
これ以上は、琉生自身の胸の鼓動がジャマをして、無理だ。
あるいは、そこで止めておかないと、ブレーキがきかなくなるかもしれなかった。
びっくりして、赤くなってかたまっている彼女を抱えるようにして、琉生は歩き出す。
「行こう」
でも、そう言った琉生自身の耳も頬もなんだかやたら熱くて、きっと赤くなっているにちがいなかった。




