83.『雪月花“本”時最憶君』
教室に向かって歩きながら、琉生はゆっくり深呼吸を繰り返す。少しずつ、気持ちが落ち着いてくる。
頭に手をやって、髪の乱れをさっと直す。
1年7組の教室の入り口に人の姿が見える。1年の数学担当の先生だ。
琉生が質問に行くたびに、「君の持ってくる問題は面白いね」そう言って、楽しそうに教えてくれる。琉生の大好きな先生だ。
彼は琉生の姿が見えたのか、軽くうなずいてみせてそのまま隣のクラスの方へ歩いて行った。
やがて琉生は、教室の前に着いた。
やっと。会える。
必死で自分の沸き立つ気持ちを抑えながら、入り口に立つ。
彼女が椅子の上に乗って背伸びしながら、高い窓のカギを閉めようとしているところだった。
(よかった……! 会えた……!)
嬉しくて、思わず大きな声で呼ぶ。
「織田さん!」
その声に驚いたのか、びっくりした彼女はバランスを崩しそうになって、慌てて椅子から飛び降りた。
降りた瞬間、ちょっと左足を捻ったみたいで、「いた……」と小さい声で言った。
琉生は大急ぎで駆け寄る。
「ごめん! 大丈夫? 急に声かけたから……」
(これがドラマやアニメだとちゃんと間に合って彼は彼女を抱きとめたりするのに。……現実は上手くいかない)
「だ、だいじょうぶ。ちょっと捻っただけやから」
彼女は、アタフタしながらも、琉生に笑いかける。
琉生は、少し気になって、彼女に訊く。
「今日、日直だっけ?」
「ん。違うけど、代わってもらった」
「どうして?」
聞きながら、琉生はほんの少し期待してしまう。
(もしかして、僕を待ってくれてた? )
つい深読みしたくなる。
今日の琉生はいつも以上に余裕なんかない。だから必死で彼女の目を見つめてしまう。
すると、彼女が思い切ったように、口を開いた。
「あのね。実は、私、今日で、」と言いかけたので、琉生は急いで彼女を遮った。
「話はあとでゆっくり聞くよ。今はひとまず、ここの戸締まりをして帰ろう」
琉生は残っていた窓のカギをさっさと全部閉め、机の上にあった彼女のカバンを自分の肩にかける。琉生自身の荷物はない。少しひんやりしてきたので、今はジャケットがほしいところだ。
「行こう。とりあえず、職員室には寄らないと」
教室の外に出て、扉のカギを閉めると、
「足? ほんとに大丈夫?」彼女にもう一度訊く。
「うん」
空はうなずいたものの歩き出すと、痛そうだ。
そして、なんだかションボリうつむいている。
そんな彼女を見ながら、琉生はちらっと思う。
(これがドラマなら。さっと彼女をお姫様抱っこして歩き出すんだよな)
でも、現実には、なかなかできるものじゃない。お姫様抱っこなんて。
今は廊下に誰もいないから……できないこともないけど。
でも、そんなことしたら、まず空本人に引かれてしまいそうな気がする。
『お姫様抱っこ』って、ほんとに女の子の憧れなのか?
どうなんだろう?
でも、歩くの、痛そうなんだけどな。どうしよう。
せめて、腕を貸すぐらいなら?
琉生はそっと、空の方に自分の腕を差し出す。
「?」
キョトンとする空に、琉生は、さりげないフリを装って言う。
「つかまって。よかったら。カバンはこのまま僕が持つから」
そう言うと彼女の手を取って、自分の腕につかまらせた。彼女の手の温もりが、シャツを通して伝わってくる。
2人でゆっくりと歩きながら、職員室までの廊下が長いようにも短いようにも感じる。心臓がドクドクいってるのが、もしかしたら彼女に聞こえているかもしれないけど。
腕を貸すだけでこれだから、彼女をお姫様抱っこなんてしたら、たぶん、心臓に穴が空きそうだ。
ドラマでは、何回も相手役の人を抱き上げて運んだりしたのに。
現実は大違いだ。ドキドキがとまらない。
とにかく彼女に合わせて、ゆっくり歩く。
廊下には他に誰もいない。
2人だけで歩く廊下。
歩きながら、琉生は精一杯静かな声で言う。
「今学期で、転校するんだってね」
「え。どうしてそれを?」
びっくりして、彼女が琉生を見上げてくる。
「偶然、職員室で。質問に行ったとき耳にした」
「そうやったん……」
「なんで……何も言わずに行こうとしたの?」
つい言葉が強くなってしまう。これは転校を知ってからずっと思ってたことだから。
「……ごめん」
「ごめんではすまないな。ちゃんとワケを話してもらわないと」
「……ごめん」
少しションボリしている空に、琉生は宣言する。
「今日は、送っていく」
「絶対に送っていく。そのために、必死でここまで走ってきたんだ」
「琉生くん……」
職員室に着くと、琉生は倉内先生のところに行って成績表をもらい、空は、職員室にいた学年の先生たちにお礼とお別れの挨拶をしていた。
教室の前で見かけた数学の先生も、いつのまにか職員室に戻っていて、笑顔でうなずいている。
倉内先生にカギを渡し、2人で職員室をあとにした。
下足室で靴を履き替えると、琉生は空に、
「ちょっとここで待ってて。動かないで。いいね?」と声をかけた。
「うん」
そして、来校者用の駐車場に走って行く。駐車場に空色の姉の車がとまっている。
近寄って、無事彼女に会えたことを伝えると、姉は「よかったね! じゃあ、行こうか。そうそう、今電話で、お父さん、今日1日入院して様子見るけど、たぶん石はもう下りたか小さくなったみたいで、痛みはないって。明日検査して特に何もなければ、退院していいって」そう報告してくれた。
「ああ。よかった……ほっとした。ああ」
少し不安が減った。琉生は安心して、空のところへ走って戻る。
やがて、姉の空色の車が走ってきて、琉生たちの目の前に止まった。
「さ、乗って」
琉生はドアを開けて、空を後部座席に乗るようにうながす。
「え? え? し、失礼します」
驚きながらもそう言って彼女が車に乗り込むと、「じゃあ、ドア閉めるよ」そう声をかけて琉生はドアを閉める。そして、自分も素早く反対側から彼女の隣りに乗り込んだ。
琉生がドアを閉めると、
「OK。じゃあ、出発ね」
運転席から、姉が元気よく言った。はりきっている。なんだかすごく。
(お姉ちゃん……あまりはりきりすぎないでよ……)琉生は、ちょっぴり不安だ。
「はじめまして。うちの弟がお世話になってます」レイが空に話しかける。
「え? は、はじめまして。あの、もしかして……レイさん?」
「ぴんぽ~ん!」
(やっぱり、レイ、いつもよりテンション高め?)
たぶん、自分でもそう思ったのか、レイは、そのあとは少し落ち着いた声で、優しくほほ笑みながら話しだした。
「いつも、本貸してもらってありがとう。それに、前は題名忘れて見つけられなかった本も教えてくれたりして。いつか直接お礼が言いたいってずっと思ってたの。だから会えて嬉しいわ。今日は、空ちゃんのお家まで送らせてね」
姉は、あっさり、彼女のことを、空ちゃんと呼んでいる。琉生でさえ、まだ下の名前で呼んでいないのに。
「いえ、そんな。お忙しいのに、もうしわけないです。どっかその辺の駅の近くで、ぽろっと落としてもらえれば」
「ふふふ。それはだめ~。足挫いちゃったんでしょう。うちの弟が突然声かけてびっくりさせて。椅子から落ちたってきいたけど。大丈夫? なんなら先に病院寄ってく?」
「いえ。そんな、それほどじゃありません。ちょっと捻っただけなんで。明日になったらマシになってます、きっと」
慌てて言う空に、レイはにっこり笑って「じゃあ、お家に向かいましょうか」と前を向いた。
そして、車が発進しようとしたとき、琉生は我に返った。
今ここで、あっさり彼女を家まで送ってしまうわけにはいかない。
チャンスが、ほしい。
ちゃんと伝える、チャンス。
それで、琉生は、精一杯、慌てた声を上げた。
「あっ!! しまった!! 忘れてた!!」
姉が振り返る。
「ちょっと、どうしたの?」
「ねえ、レイ。織田さんのうちに行く前に、ウチに寄ってよ。彼女に返さないといけない本、ウチに置いたままだ」
「あら。それは大変。じゃあ、ちょこっと回り道になるけど、ウチによってもいいかな?」
レイが、空に訊く。
「あ。大丈夫です。全然」
「了解。じゃあ、いったん、我が家に寄りましょう。ついでに、軽くお茶ぐらい飲んでいってね」
発進する前ちらっと琉生を振り返ったレイは、(だいこ~ん)と口パクで言って笑っている。空がちょうどシートベルトを締めようとして下を向いていたので、助かったが。
車は走り出し、大通りの車の流れに合流する。
「まだ結構混んでるね。さっきもかなり混んでたから、途中で降りて学校まで走ったんだ」
琉生は空に言った。
「もう間に合わないかもってあきらめそうになってたら、佐藤がLINEと電話で教えてくれた。『まだ教室にいるよ』って。『今なら間に合うから早く来い』って。想太にも訊いたけど、やつは成績表をもらってすぐに仕事に出たから、そのあとのことはわからなくて」
空が琉生の言葉にうなずいている。
空が落ち着いてきた様子なのを見て、琉生はずっと知りたかったことを訊くことにする。
「じゃあ。さっきの続き。なんで、何も言わないまま転校しようとしたのか、教えて」
真顔になった琉生に、空が少しうつむきがちに答える。
「ごめん……ただ、透明人間みたいになりたくなかったんだ」
不思議そうな顔の琉生に、空が話してくれたのは――
空が以前大阪から関東への引っ越しが決まったとき、彼女は普通に、クラスメートにそのことを話したらしい。すると、クラスで何か決めごとがあるたびに、「ああ、もうすぐ空ちゃんは転校するんだよね」そう言って、除外されてしまったこと。別にクラスメートに悪気があったわけじゃない。でも、「いなくなったら淋しい」そう言いながらも、みんなの気持ちが、しだいに彼女がいなくなったあとの方に向いてしまっていることに気づいて、すごく寂しかったことを、空は話してくれた。
「今、自分はここにいるのに、ちゃんと目の前にいるのに、まるで透明人間みたいに、みんなの意識から、私ははずされていく。それが淋しかったの。だから、今日も明日も明後日も、来週も来学期も、ずっと一緒にいるんだって、みんなには思っていてほしかった。さよならのカウントダウンは、自分1人でしようって。そう思ったから」
空が苦しそうに言った。
「なるほどな……。そういう気持ちになるのは、わからないでもない、な。でも、僕には、話してほしかった」
琉生は、そう言った。
「ごめん……」
そんな話をしていると琉生の自宅の前に着いた。
リモコンで、レイがシャッターを開け、そのまま車を乗り入れる。
「到着~」
駐車場内に車をとめると、レイが言った。
琉生の家に初めて来る人はみんな驚く。外からは、窓のない無骨なビルのように見える。でも、その内側は大きな窓がいくつもある、明るい開放的な家なのだ。空も少し驚いた顔をしている。
リビングのソファに空を座らせて、姉は救急箱を取りに行き、琉生は急いで自室に向かう。
今日、空に渡したかった本を通学カバンから取り出す。
この本を持って行こうと決めたのは、昨夜遅くなってからだった。
偶然書店で見かけて買ってきた本を、寝る前にパラパラと眺めていて、あるページを見つけた。
琉生は、そのページに制服のポケットから取り出した、折り紙の花束をそっと挟む。
しばらくして部屋の入り口で、「コンコンコン」と空の声がした。
扉は開いていたので、ノックの代わりに言ったのだ。空らしい。
「どうぞ」
琉生は応える。
ゆっくりとした足取りで、部屋に入ってきた空は入り口近くの背の高い大きな本棚に目を瞠っている。
本棚を見渡すと、彼女はため息交じりに言った。
「すごいジャンルが幅広いね……」
「気になる本はとりあえず読んでみることにしてるからかな。でも、織田さんちのほうがもっといろいろあるんじゃないのかな」
「どうやろ?」
2人並んで棚を眺めていると、彼女は、伊予原 新さんや、青山美智子さんの本に目を留めて、なんだか嬉しそうだ。2人とも彼女の好きな作家さんだ。もちろん、琉生の好きな作家さんでもある。
たぶん、琉生の本棚も、空の本棚も、共通するところが一杯あるはずだ。
空の隣りに立って、琉生はぽそっと言う。
「今日、織田さんに、どうしても渡したいものがあったんだ」
「ん?」
空が丸い目で、琉生を見つめてくる。
「これ……」
琉生は彼女に、手にした小さな本を差し出す。
優しい卵いろの表紙に細い薄緑の線で花が描かれていている。
表紙には、金色の文字で、『The Little Book of World Poetry』 その下に、黒い文字で『小さな 世界の詩の本』(渡邊めぐみ 編著 リベラル社)と書かれている。
「これを、君に渡したかった」
琉生は想いを込めて彼女に告げる。
本を受け取った空が栞の挟んであるページをそっと開く。
そこには、小さな紙で折った花束が挟んである。
白居易の詩のところだ。
前に漢文の授業に出てきた、白居易が、友人殷協律へ贈った詩で、中に『雪月花時最憶君』というフレーズがある。
――雪月花の美しいとき、僕は君を思う。
お互い離れていても、自分の心に響いたものを君にも伝えたい、きっと君なら同じように感じてくれるだろう。
そんな気持ちが込められている。
空は、一瞬目を瞠って、そのあと、折り紙の花束に目を奪われているようだ。
満開の黄色いミモザの花を、空色の紙でくるんだような、花束。
「わあ。可愛い……」
「この前、取材に行ったお店で、折り方教えてもらったんだ。紙もそのお店で買ってきた」
花束の中のメッセージを思い出して、琉生は少し照れくさくなる。
「この本と一緒に渡したかった」
「……ありがとう」
空がうるうるした瞳で琉生を見上げる。
そして、空も手にしていた紙袋を琉生に差し出した。
「これ。私も、琉生くんに渡したかった」
「ありがとう」
受け取って、中の本を取り出した琉生は、思わず声が出た。
「空……!」
彼女をそう呼んだのは初めてだ。
それほど琉生はびっくりした。
空がくれたのは――
『The Little Book of World Poetry』 その下に、黒い文字で『小さな 世界の詩の本』
琉生が、空にあげた本とまさに同じ本だった。
そして、その本に挟まれた栞とそのページに、琉生は目を見開く。
104ページ。
白居易の詩のページだ。
同じだ。
空も同じことを考えていたのか。
本に挟んだ手作りの栞には、『雪月花時最憶君』の文字があった。
ただ、元の言葉に吹き出しを添えて、一文字書き加えられている。
『花』と『時』という字の間の吹き出しには『本』と書いてあった。
『雪月花のきれいなとき、そして、素敵な本に出会ったとき、私は君を一番に思い出すよ』
彼女の気持ちが伝わってくる。
琉生が、じっと本と栞を見つめて立ち尽くしていると、
「同じだね」
空が彼にほほ笑んだ。
お互いが、今、同じ思いでいる。
そのことが嬉しくて、琉生は思わず両腕で彼女を抱き寄せる。
そして、やっとの思いで声を絞り出す。
「空……好きだ。大好きだ」
力一杯彼女を抱きしめながら、もう一度心を込めて彼女にささやく。
「ずっと……大好きだよ」
彼の腕の中で、空がうなずいた。
「同じだよ。ずっと――大好き」




