76. 『行かないで』
雨だ。
冷たい雨が降る。
彼の前には、傘を差して遠ざかってゆく彼女の後ろ姿だけが見える。
何も言えなかった。
「さよなら」と「元気で」以外は、何も。
彼女の前の信号が赤に変わり、彼女が立ち止まる。
その後ろ姿が、やけに小さく心細げに見える。
(だめだ。このまま、こんな気持ちのまま、彼女を行かせたらダメだ)
彼は、持っていた傘を放り出して、彼女に向かって猛ダッシュする。
たちまち、雨に打たれて、彼は全身ずぶ濡れになる。
反対方向の信号の音楽が変わる。
もう少しで、彼女の前の信号が青に変わる。
信号が青に変わった瞬間、彼は彼女に追いつき、後から彼女を抱きしめる。
「だめだ。行かないで」
彼女がかすかに腕の中でもがく。
「ずっと、オレのそばにいて」
ささやきながら彼の腕の力が強まる。
「……好きだ。大好きだ」
彼の言葉に熱がこもる。彼女は彼の腕の中で、涙をこぼす。
彼女の差していた傘が地面に転がり、2人は雨の中抱きしめ合う。
「カ~ット! OK!」
監督の声がかかる。
現場の空気がホッと緩む。
雨の中の撮影は、けっこう大変だ。何度も撮り直しがきくものではない。
「できたら、最小限のテイクで撮りきりたい」そう言われていた琉生だ。
もとより、琉生は想太と同じく、NGが非常に少ないことで有名だ。
監督の撮りたい姿を見事に一度で見せられる、とも言われている。
「よかったよ。琉生。いいシーンになった」
監督が、声をかけてくれる。
監督は相手役の俳優にも、にこやかな笑顔で、ねぎらいの言葉をかけている。
「ありがとうございます!」
ホッとして琉生も相手役の人も笑顔になる。
これで、自分たちのドラマは撮影終了だ。
「寒いですね」彼女が言った。
「ほんとにね。大丈夫ですか」琉生も応える。
琉生も彼女もずぶ濡れで、たちまち寒くなってきた。
スタッフが傘と大判のタオルを持って駆け寄ってきてくれる。
「おつかれさまで~す」
スタッフが言い、タオルを頭と肩からかけてくれる。
琉生は、手渡された温かいお湯のカップを手の平で包み、暖をとる。
琉生は、基本、撮影のときは、基本白湯か水を飲む。万が一衣装にこぼしても安心だし、歯に着色することもないからだ。
今、琉生がいるのは、週末の深夜帯ショートドラマの撮影現場だ。
30分の枠を、15分ずつで分け合う形で、同じEMエンタテインメントの研修生が出演する。
琉生の作品が何話目になるのかはまだわからないが、琉生と想太を含む、10人が選抜されて出演する。
10作品全部が、年上の彼女とのラブストーリーで、琉生の作品は、留学する年上の彼女とその幼なじみの彼の物語だ。
ストーリーはシンプルで、出演者それぞれの魅力がたっぷり味わえるように、顔のアップや、胸キュンシーンをつめこんだものだ。
「なんか、琉生、雨に濡れる役、多くないか?」
台本をもらったとき、想太がそう言って笑った。
そういう想太は、また髪の毛を短くしないといけなくて、「またや……」とつぶやいていたのだが。
「濡れるのもやけど、一人称がオレのも、最近多い気がする」
「ああ、そやな。案外似合うで」
「そうかな?」
想太は、水泳選手の役で、ちょっと胸筋と腹筋が見えるというので、秘かにちょっとがんばっているらしい。
「雨とちゃうけど。オレも、濡れてる状態のシーンが多いねん」
「まあ、水泳選手やもんな。何泳ぎ?」
「クロール。バタフライはあんまり得意ちゃうからよかったわ」
「そうか。撮影日はいつ?」
「え~とな、たぶん来週、琉生の翌日ちゃうかな? やから、今週中に髪の毛切りに行かなあかん。せっかくええ感じに伸びてきたのにな」
想太が、前髪をつまんで少し惜しそうに言う。
「そやな。ちょっと残念やな。でも、想太、髪短いの、すごく似合うし、めっちゃカッコええで」
琉生が、関西弁を駆使して言う。
この頃、琉生の関西弁は、かなりナチュラルになってきたと評判だ。
「ありがとう」そう言って、想太が表情を和ませる。
「……それにしても、琉生、関西弁、上手くなったな。そろそろ、M1目指してコンビ組む? ネタめっちゃたまってるで」
「……考えとくわ」
琉生はほほ笑んで返す。
アイドルデビューをすませてから、な。
そう付け加えた。
「お疲れ様でした~」
挨拶をして撮影現場を離れた琉生は、マネージャーの三田が運転する車に乗る。
「すごく心のこもった良い表情してたよ。ほんとによかったよ。とくに声の出し方、間の取り方、絶妙だったね」
今日は、三田がすごく率直に褒めてくれる。嬉しい。
褒め言葉だけなのは、案外珍しい。いつもいいところは良い、と褒めてくれるけど、彼は演技に限らず気になったことを何かしら指摘してくれる。今日は、何もなかったのか。
琉生は、けっこう、三田の指摘を楽しみにしている。演じている自分では見えないことを把握してくれる人がいるのは貴重だと思う。
「……確かに、自分でもすごく集中してやれた気がする」
応えながら、琉生は、心の中で、今日のシーンを思い返していた。
「だめだ。行かないで」
「ずっと、オレのそばにいて」
「……好きだ。大好きだ」
セリフをあらためて思い出すと、だんだん顔が熱く火照ってくる。
なんかめっちゃ照れくさいんだけど。
よくこんなセリフ言えたよな……。
そう思う一方で、実は少しドラマの彼が、羨ましく思える琉生だ。
自分で演じておきながらなんだけど、琉生自身には、こんな行動はできそうにない、と思う。
現実には、そんなふうには、なかなか言えないものだ。
「行かないで」と言われても、相手も困るだろうな。
「そばにいて」と言われても、実際、そのあと、どうやってそばに居続けるつもり?
ドラマは、抱きしめるシーンで終わるけど、現実にはその先がある。そこからあとも人生はずっと続く。
その先ずっと、相手の人生まで抱えていくことが、自分にできるのか。
ついつい考えてしまう。
そんなことを思うと、琉生は自分が情けなくなる。
まるで子どもでしかない自分には、相手の人生を抱えて進んでいけるほどの力も自信も、何もない。
相手の人生に対して、責任をとれるような大人ならば、言える言葉は違ってくるのだろうか。
でも――今の自分には、何も言えない。
そう。
琉生は、今日演じた役の主人公と、自分自身を重ねている。
そして、ずっと悩んでいる。
「……好きだ。大好きだ」
主人公の言葉は、琉生の胸の中で、ずっと渦巻いている。
この前、不用意に口にしてしまった、『大好きだ』の言葉が、琉生の中にずっと熱を持ったまま、残っている。
ただ普通に本の話をしていたのだ。
それなのに。
自分を見上げて笑う、彼女の瞳をのぞき込んだとき、つい。
つい、口にしてしまったのだ。
『大好きだ』




