75. めまい
「僕も……大好きだ」
一瞬、お互いの目と目が合って、静かな沈黙が流れた。
今朝は仕事がなかったので、琉生は早めに登校した。
このところずっと忙しくて少し睡眠不足気味だけど、寝坊する気にはなれなかった。
朝のほんのわずかな、でも貴重な時間なのだ。琉生にとって。
一番乗りで教室に着くと、カバンから荷物を出して入り口の方に目をやる。
彼女の姿が見える、その一瞬が好きだ。
次第に、ぱたぱたと足音が近づいてくる。彼女はいつもちょっと急ぎ足だ。
足音が止まり、待っていた笑顔が飛び込んでくる。
「おはよう。なんか久しぶりやね」
空の声が弾んでいる。
「うん。やっとまともに朝から学校にいられる」
琉生も穏やかにほほ笑み返す。
「文化祭、文芸部の作業、何もできなくてごめんね。ほとんど部活行けてなくて」
自分でも思った以上に、このところ忙しくて学校に来るだけで精一杯の琉生だ。部活に行ける状況ではなかった。
「だいじょうぶだよ。いつでもこれるときにがんばって参加すればいいって方針の部やもん。それより、ほんとに忙しそうやね。……体調は大丈夫?」
「うん。なんとかね」
琉生はちょっとまばたきをする。睡眠不足で目がしょぼしょぼしている。
そんな琉生をちょっと心配そうに見つめて空が言う。
「部誌に載せる原稿はどう? 書けそう?」
「まだ推敲してないけど、一応書いた」
文化祭で文芸部は各部員が自分の選んだ1人の作家の作品についてパネル展示をすることになっている。展示の準備をする余裕がない部員は、部誌に寄稿するのでもいいことになっている。
琉生は部誌に寄稿する予定だ。
「誰の本について書くの?」
空が目を輝かせながら訊いてくる。
「朽木 祥さん」
「ああ。めっちゃいいね。『かはたれ』『たそかれ』とか、すごく好き」
「うん。まさにそれ。戦争と平和をテーマに、って聞いたとき、真っ先に浮かんだ」
どちらも、河童が出てくるファンタジー小説だ。
『かはたれ』では、河童族の生き残り・八寸が猫の姿で人間界に送り込まれ、母を亡くしたばかりで孤独を抱えた女の子・麻と出会う。それぞれの抱える孤独や家族への思いが丁寧に描かれていて、胸に沁みる作品だ。
単行本の表紙がまたすごくいい。(今出ている文庫版は、いかにもファンタジーらしい可愛いものになっているが、琉生は初版のどこか切ない淋しい表情の河童の表紙が好きだ)
『たそかれ』はその4年後の話だ。再会した八寸と麻が、高貴な血筋の河童・不知を河童界に連れもどすために奔走する。不知は中学校の、取り壊される予定の古いプールに棲みついている。どうしてもそこを離れようとしないのは、ある人と交わした約束のためで……。
戦争によって奪われた多くの命、温かな日常、夢や約束。もう二度と会えない人たちに、それでも会いたいと願い待ち続ける姿……。
琉生が涙を流しながら読んだ本だ。 (※『かはたれ』『たそかれ』朽木 祥/作 福音館書店)
空も同じらしく、
「……あかん。内容思い出しただけで、泣けてくる」
慌てて目元を拭っている。
(笑いのツボが同じって言葉があるけど、彼女とは、泣けるツボも同じなんだな)
琉生は空を見つめながら優しい気持ちになる。
「ほんとにね。僕も撮影現場で、待ち時間に読んで後悔したよ。メイク崩れたらやばいのに」
琉生が笑いながら言うと、
「私も電車の中で読んで、めっちゃやばかった……でも、2冊とも、大好き」
そう言って、空が笑った。
涙で少し潤んだ瞳が琉生を見上げている。
『大好き』
その言葉に思わずドキッとしてしまう。
次の瞬間、琉生の口から言葉がこぼれ落ちた。
「僕も……大好きだ」
一瞬、お互いの目と目が合って、静かな沈黙が流れた。
『大好きだ』
そう言った琉生は、真っ直ぐ空を見つめた。
それは、思わずあふれ出してしまった想いだった。
口にはするつもりのなかった言葉を、彼女の言った『大好き』という言葉につられるように、つい口にしてしまった。
琉生は焦る。慌てる。
自分は一体何を言ってるんだ。
急に変なこと言ってびっくりさせるじゃないか。
目を見開いて驚いた顔をした空は、ほんの数秒後、
「え? あ? ああ、2冊とも、大好き? 同じやね」
笑いながらそう言った。
そうだ。確かに、彼女は本の話をしていたのだ。
本の話だと思ってるんだ。
「え? あ、そ、そう。2冊とも」
うろたえながら、琉生も慌てて付け足す。
胸の鼓動がおさまらない琉生は、そっと彼女から目をそらして横を向く。
頬と耳が熱い。きっと赤くなっているかもしれない。
自分に言い聞かせる。
いや。
本の話だ。
ほんとに。
お互い、本の話だ。
少なくとも、彼女の方は。
自分は?
自分は?
琉生は、ちょっとめまいがしそうだった。




