74. つかの間目を閉じて
「なんか今日って、めっちゃ贅沢な一日やんな」
レクで、輪になって座るとき、隣りに来た想太が感激したように言った。彼もよほど楽しく過ごせたらしい。
「ほんまやな」
琉生も素直にうなずく。
カレーライスはむちゃくちゃ美味しかったし、そのあとの片付けさえも楽しかった。
ほんとになんて贅沢な一日なんだろう。
前に事務所の先輩が、校外学習どころか修学旅行にも行かなかったと話していた。
「なんか仕事入ってたんですね」と琉生が訊くと、
「いや、ライブのバックにつくことになってたからレッスンは入ってたけど。でも、抜けようと思えば抜けられた。でも修学旅行には行かなかった。……単に、オレが怖かっただけなんだ」
旅行の後レッスンに行って、『もう来なくていいよ』なんて言われたらどうしようって不安で。だからレッスンは一日も休まなかった。
彼はそう話していた。
自分の居場所を確保するために、みんな必死なのだ。
何か一つを選んだら、その他のものを全てあきらめてでも、その一つに賭ける。
それは強いプロ意識だと思う。
事務所の先輩たちの話を聞くたびに、琉生は自分の甘さに身がすくむ思いがする。
自分や想太は、ずっと恵まれた状況の中で、デビューを目指してきたように思う。
切羽詰まった思いはしてこなかった。
だから、おまえは甘いのだ、と言われたら、否定できない気がする。
もちろん努力はしてきたし、ずっと努力し続けている。
でもそんなのは当たり前なのだ。
みんなやっていることだ。
自分は欲ばりなのか。
デビュー以外にも――望んでいるものがある。
欲しいものがある。
最近の琉生は、そのことに気づいている。
そして自分の甘さを感じながらも、今日のこの一日を、大切に過ごしたいと思う。
クラスレクでは、“ハンカチ落とし”や、“フルーツバスケット”、“だるまさんが転んだ”といった、まるで小学生に戻ったようなゲームで盛り上がった。“だるまさんが……”では、オニになった想太と手を繋ぐことになった女子が、「ラッキ~!」と飛び跳ね、みんなの注目を浴びた。想太も笑いながら、「オレもラッキ~」と笑いながら返して、みんなで大いに笑い、そこからあとは、オニと手をつなぐたびに、みんな笑いながら「ラッキ~」と叫ぶようになった。
笑いがいっぱいの楽しい雰囲気の中、琉生は、さりげなく目の端にずっと空をとらえていた。
のびのびと笑っている彼女は、いつもどおり眩しかった。
レクのときには、言葉を交わすチャンスはなかったものの、このあと帰りのバスでは、隣同士だ。
そう思うと、なんだか穏やかな気持ちでいられた。
「自分のお隣の人がちゃんといるか、確認してくださいね」
そう言いながら、担任の倉内が、目で人数を確認している。
やがて確認が済み、バスは緩やかに走り出す。
「今朝はどうもすみませんでした~」
琉生は少しおどけて、笑いながら空に頭を下げる。
「いえいえ、どういたしまして~」
そう言って笑った空は、「そうや。忘れんうちに」と言って、リュックの中に手を突っ込んで、文庫本を2冊取り出す。
「これこれ。名作うしろ読み」
「ああ。これがオリエンテーリングのとき言ってた本?」琉生が言うと、
ページをめくりながら、空が楽しそうに言う。
「そうそう。あのね。これ。私、全然知らんくてびっくりしたのがあって」
彼女が見せてくれたのは、『アラジンと不思議なランプ』を解説したページだ。
「『アラジンは中国人だった』って。え? 何? これ」
琉生もその小さな見出しにびっくりする。
「ね。びっくりするでしょう? アラビアじゃなかったんや~って」
「へえ~」
もうそのページだけで、琉生は、その本がすごく気になってしまう。
(※『吾輩はライ麦畑の青い鳥 名作うしろ読み』斎藤美奈子 著 中公文庫)
「今のが続編で、1冊目は『名作うしろ読み』っていうタイトル。こっち。これが1冊目だよ」
そう言って、空がもう1冊の文庫本を渡してくれる。
「それとね。この本は知ってる?」
さらに、もう1冊、空がリュックから本を引っ張り出してくる。
「ん?」
一体、彼女は何冊本を持ってきたんだろう。
「あのね。これは、ドストエフスキーの『罪と罰』の読書会を本にしたものなんだけど」
「罪と罰、か。タイトルは知ってるけど、実は、読んだことないな」
琉生が言うと、空がすかさず、「私もやねん!」
「読もうと思っても、本の厚さと登場人物の名前の長さにくじけて」と笑う。
「でも、これって。タイトルに『罪と罰』を読まない、って書いてある」
「そうやねん。読んでいない4人の作家達が、読まずに内容を推理して語り合う座談会形式の本」
(※『罪と罰』を読まない 岸本佐知子、三浦しおん、吉田篤弘、吉田浩美 著 文春文庫)
「面白そう」
「うん。はじめにね、冒頭の1ページと、結末の1ページをプリントしたものを手に座談会をするねん。読んでないのに、いろいろ想像したりして、話を推測していって」
琉生も興味をそそられる。
「さすが作家さんやな~と思うのと同時に、こんな有名な作家さん達でも、ロシア文学、読んでなかったりするんやなぁってホッとしたりして」
そう言って笑う空に、琉生はボソッとつぶやく。
「……ついでに告白するとさ。僕、トルストイの『戦争と平和』も読んでない」
「え? 琉生くんも? 私も読んでない」空が言った。
「え? そうなの? 織田さんも? いや、なんかさ、重厚な感じがして、ちょっと気後れして……」
琉生の言葉に空がうなずく。
「わかるわかる。本の厚さで言ったら、他に同じくらい分厚いのいろいろ読んでるのに、なんだかこれは読みにくいって本、あるよね」
「そうそれ!」
本の話でどんどん盛り上がる。
「じゃあさ、あのね。これは?」
またもう1冊、本が空のリュックから出てくる。
「え? 一体何冊持ってきてるの? なんか、そのリュックがドラえもんのポケットに見えてきた」
琉生が目を丸くして言うと、
「あ。あと2冊だけ」そう言って、空がはじけるように笑った。
「“だけ”って……全部で一体何冊……?」
「6冊。ほら、本は“別腹”だってば~」
元気よく笑いながら言う空に、琉生も笑い返す。
彼女が次々話してくれる本の紹介に応えながら、琉生は思う。
きっと彼女は、琉生に見せたい本話したい本をいっぱい考えてくれたのだ。
琉生がまだ読んでなさそうで、面白がりそうな本。
かなり重たかったはずなのに。
琉生のために、いっぱいリュックに詰めこんで。
彼女がまだ読み終わっていない本以外の5冊全部を貸してもらうことにして、琉生は空にほほ笑む。
「ありがとう。楽しみがいっぱいできたよ。嬉しいな」
精一杯心を込めて言う。
空の笑顔を見つめ返しながら、琉生の胸はきゅうっとなる。
やっぱり僕は、彼女が好きだ。
たぶんきっとずっと好きだ。
……もう二度と会えなくなるとしても。
それでも。
琉生は今、彼女に一番伝えたい言葉を、口にはしない。
自分には夢がある。
そのためにずっと歩いてきた、道。
想太と出会ってからは、2人一緒に歩き始めた道。
アイドルとしてCDデビューするための道。
想いに流されそうになるのは、自分の甘さだ。
自分にとって何が一番大切なのか、見失いそうになってしまうのは、自分が甘いせいだ。
琉生は自分を叱咤する。
それでも、琉生にとって、彼女との時間は大切なのだ。やはり。とても。
琉生は、彼女が選んで持ってきてくれた本達を大事にリュックの中にしまう。
同じ本を読むことで、琉生は時間と空間を超えて、彼女と同じ世界を共有できる。
せめて、彼女と共有できる世界を持つことを、自分に許してもいいだろうか。
それにしても彼女のそばにいるとホッとするのはなぜだろう?
琉生は、早朝からの仕事の疲れもあり、ふと眠気を感じ、つかのま目を閉じた。
「琉生くん?」
遠く近く、自分の名を呼ぶ空の声が聞こえた気がする。
そして琉生は、自分では気づかないうちに、いつしか空の肩に寄りかかるようにして、眠っていた。
ほんの短い時間だったけれど。




