73. 気づかないふり
「これ、なんだろな?」
同じ班の菱川が首をひねる。
琉生たちは、今オリエンテーリングの真っ最中だ。
今日の予定は、到着後すぐに、オリエンテーリング、そのあとカレーライス作って食べたあと、軽くレクをして帰る、というけっこう気楽な内容だ。
文芸部の先輩によると、1年生の校外学習は、学年によってはハイキングという名の登山が組み込まれることもあるらしい。
「オリエンテーリングか~いいな~楽しそう。自分らのときは、学年主任が山岳部の顧問で山好きだから、がっつり山道歩かされたよ。てっぺんでお弁当食べて」と部長の大田が言う。
「そうそう。お弁当食べてちょっと休憩したら下山して帰るだけ。レクとかそんなのなかったもんね。帰りのバスもくたびれ果てて、学校に着くまでみんな爆睡してたから」
副部長の城田が言うと、会計の三田もうなずいた。
「うん。うちのクラスもバスの中爆睡だったな」
「え~。うちの学年はキャンプ場で軽くBBQして、レクして帰ってくる、って感じだったけど」と2年の満田。
「がっつり登山があまりにも不評だったらしいね。噂によると、生徒より先生達に不評だったって聞いたな」
笑いながら2年の平澤が言った。
「でも、それはそれで、あまりにもあっけないって不評だったけどね」満田が付け加える。
琉生たちのオリエンテーリングは、スタート地点を出発したあと地図で指定されたポイントを探し、そこにある立て札のクイズを解き指定された時間内にゴールを目指す。クイズの正解数も得点に加算されるという。
クイズの出題者は学年の先生達らしい。
「なかなかいい問題が浮かばなくて……」と倉内先生が、つぶやいていたのを思い出す。
班によってスタート地点が違ったり、指定されるポイントが違ったりする。
織田 空とどこかですれ違うことでもできたら、いいな。琉生はそう思いながら歩いていた。
「これ、なんだろな?」
立て札を眺めながら、同じ班の菱川が首をひねる。
琉生たちは3つめのポイントで、立て札のクイズを読んでいた。
どこかの班が来たのか賑やかになって、 佐藤が、
「よっ」と声をかけている。
「よっ」と返事が返ってきて、琉生は気づく。
空のいる班だ。
「クイズ、どんな感じ? 難しい?」
空が佐藤に訊いている。
「いや、今のところ、とくに難しいとは思わないけど。文学ジャンルの問題は、琉生が大活躍」
そう言って、問題を読んでいた琉生の方に佐藤が視線をよこす。
「へえ。そうなんだ。琉生くん、読書家だもんね」「さすが」
「3問目は、どんな感じ?」空の班の子達が琉生に話しかけてくる。
「この3問目は、なかなか難しいね。今、思い出そうとしてるんだけど……」
琉生が応え、立て札の前の場所を譲ると、彼女たちは問題をのぞき込んだ。
『おそろしい武器を考え出してはその鉾先を昆虫に向けていたが、それはほかならぬ私たち人間の住む地球そのものに向けられていたのだ』
この一文で締めくくられている本のタイトル(日本語または英語で)と著者名を答えよ。
※ヒント:1962年にアメリカで出版され、その2年後に日本で新潮社から翻訳された単行本が出版された。
※翻訳本の初版タイトルは『生と死の妙薬』、のちに、原題をそのまま日本語訳したものに改題。
「え~。何これ~」
「イントロクイズみたいに、書き出しの文を見てタイトルを答えよ、っていうなら、まだやりやすいけど」
「坊っちゃんとか、吾輩は猫である。みたいな感じならねえ」
2つの班みんなが揃って首をひねる。
そのときずっと考え込んでいた菱川がふと思いついたように、つぶやいた。
「おそろしい武器を昆虫にってことは、殺虫剤のはなしかな?」
殺虫剤。人間の住む地球に向けられている……
その言葉をヒントに琉生は考える。
環境破壊。土壌汚染。有吉佐和子の『複合汚染』も環境問題の本だったと思う。でも、これは、
1962年初版。アメリカで出版。
ということは。
「沈黙の春!」
「沈黙の春!」
琉生と空の声が重なった。
思わず顔を見合わせる。
琉生は、空にほほ笑みかける。
「ああっ。そうか。レイチェル・カーソンか!」
同じ班の植田も言う。
「なるほど。言われてみれば」「ほんとそうかも」
みんなも同じように思いついたらしい。「そういえば、いつだったか、レイチェル・カーソンの生誕100周年フェアを本屋でやってるの見たような気もする」と誰かが言った。
みんな納得で、両方の班が解答用紙に『沈黙の春、レイチェル・カーソン』と記入する。
(※レイチェル・カーソン著 青樹梁一訳 新潮文庫)
「……ってことで、この先も、この2グループで一緒に回りませんか」
佐藤が提案している。
「賛成!」
全員が賛同して、琉生たちは8人で、つぎのポイントを目指すことになった。幸い、3つ目以降のポイントが、どちらの班も同じだったのだ。
琉生はさりげなく空の近くを歩く。
「さすが、織田さん」そう声をかけてみる。
「そういう琉生くんこそ。……あ。そういえば、名著をおわりの一文から読み解く、っていう本があるけど。読む?」
さっきとは違って、すっかりいつものペースの空だ。
「え。読みたい」反射的に返す。
「名作うしろ読み、っていう本」(※斎藤美奈子著。中公文庫)
「へえ~。面白そう」
「うん。なかなか興味深いよ。続編もあってね。そっちはまだ読んでないけど。今日、両方リュックの中に入ってる」
「じゃあ、貸してもらっていい?」
「もちろん」
琉生は嬉しくなる。
さっきのような、ぽやんとした、やけに素直な彼女もいいけど。いつもの、とにかく本に夢中な彼女も好きだ。
ふふと笑って、言う。
「……それにしても、さすが織田さん。キャンプ場に来るときも、本、持ってるんだね」
「本は、別腹? やもん」
空が目をキラキラさせて言う。
「わかる。僕も、そうやから」
琉生の言葉に少し関西弁が混じる。
ラッキーはまだまだ続いた。
オリエンテーリングに続く予定は飯ごう炊さんでカレーライス作りなのだが、少し変更があって、琉生たちの班と空の班の使うかまどが隣同士になったのだ。
しかも、空も琉生もかまど担当だ。
結局、火おこしから煮炊きまで2班で協力してやることになって、琉生は、空達の班の火おこしも手伝った。カレー作りの段取りは、日頃料理し慣れているらしい、空の手際が良かった。
鍋に入れた野菜にいきなり水を入れようとした琉生に、
「野菜をしっかり炒めてから水を入れた方が美味しいよ。とくにタマネギ」と言った。
かまどの前に並んで思いつくまま、おしゃべりをする。
こんな何気ないおしゃべりは、中学の図書館のカウンター以来かもしれない。
空が頬を火照らせながら、
「火がめっちゃ熱いね」と言う。
「ほんとだね。そういえば、人類が最初に火を使った痕跡が見つかったのは、イギリスの遺跡らしいね」と琉生。
「え? そうなん? いつ頃の遺跡?」
そうだ。彼女は、こういう歴史とか遺跡の話も好きだ。でも、残念ながら、琉生はその詳細を忘れていたので、
「う~ん、いつだっけ。……忘れた」
えへへと笑って首をかしげるしかなくて、後でちゃんと調べようと思う。
「ふふ。また思い出したら教えて。……あ。そろそろ、カレールウいれよっか」
のんびりした声で、空が言う。
「了解」
カレーのスパイスの香りとご飯の炊ける甘い匂いが広がる。
幸せだ。
ご飯もカレーもまだ出来上がっていないけど、これはきっと美味しい。
琉生にはわかる。
(美味しいって幸せなんだ)
誰かがそんな言葉を言ってたな。
匂いだけでも、幸せの予感がする。
いや。予感じゃなくて。
この穏やかな時間が、すでに、幸せだ。
図書館の全集の神様のおかげなんだろうか。
実は秘かに何度か、全集の棚の本を読んでいる琉生だ。
たぶん、こんな穏やかで心地よい時間を、自分はきっとずっと忘れない。
そして、同時に思う。
もう会えなくなるのか。
こんなふうに言葉を交わすことも、目と目を合わせることも。
もう――なくなってしまうのか。
胸が詰まりそうになったとき、急に空が言った。
「う。煙が目にしみて」
そして、炭がいっぱいついた軍手をはめた手で顔をこすっている。
「大丈夫?」
琉生は彼女のほうをのぞきこむ。
そこには、目元や鼻の頭やほっぺにところどころ炭をつけた、小さなタヌキのような顔があった。
琉生は思わずほほ笑んで、くふふと笑った。
「織田さん、……大変なことになってるよ」
「え? え? 何?」
「顔にね、炭が。ついてる」
琉生は軍手をはずしポケットからハンカチを出す。そして、キョトンとした顔で琉生を見上げてくる彼女の鼻の頭と目元とほっぺをそっと拭った。
次の瞬間、彼女の目から涙の粒が頬を転がり落ち、琉生はハッとした。
すると空は、あわてたように「ごめん。貸してな」と言いながら、琉生からハンカチを奪い取り、
「あかん~。煙が目にしみて、涙がとまらへん~」
笑いながらそう言って、ハンカチで涙を抑えている。
一生懸命ごまかそうとしているらしい。
でも。
琉生は見てしまった。――彼女の涙を。
「ごめん。ハンカチ。汚してしまって」そう言って笑う空に、
「ダイジョブダイジョブ。鍋は、僕が見とくから、顔洗ってきたらいいよ」
琉生はにこやかに笑って返す。
気づかないふりをする。琉生は決めた。
彼女が隠そうとするのなら、僕は、気づかないふりをする。
一緒にいられる最後の日まで。
僕は、笑顔で彼女と過ごそう。
そう思う。
彼女がそれを望んでいるなら、と。




