.41 塗り潰された先の顔
気がつくと、真っ黒な世界にいた。
身体は指一本動かない。代わりに、生ぬるいお湯の中にいるような、暗くどんよりとした“もや”が身体の至る所にへばりついている。
少しずつ、しかし確実に“もや”は身体を蝕んでいく。
泣きたいほど怖いのに、痛いほど叫びたいのに、ここにいる木偶はそれを許さない。
『ごめんなさい』
……誰だ?
声が聞こえる。聞き馴染みのある声。
『テストで良い点が取れなくて、ごめんなさい』
あぁ、わかった。
勉強からも、親からも、現実ですら逃げ出した醜い不出来な男、優馬の声だ。
“もや”に包まれた身体は、逆らうことも、抗うことも出来ずにゆっくりと堕ちていく。深く引き込まれるにつれ、思考は澱みなく悪夢を眼下へと見せつける。
いつから親の顔色を伺うようになったんだっけ。
中学の受験が上手くいかなかった時?小学生の頃、少しヤンチャだった片山君を家に招いた時?保育園で一生懸命に作った折り鶴を渡しても喜ばれなかった時?
――どれも違うな。
違う。
違う、違う。
違う、違う、違う、違う、違う!!
どんなことをしたって、あの人達は俺を見てくれたりなんかしなかった。テストで良い点を取ろうが、引きこもりになろうが関係なかったんだ、全部。
両親の顔を思い出せない。思い出そうとすると、鉛筆で塗りつぶされたみたいに、顔だけが消される。
消された後はいつも、園児の落書きのような不恰好な線が三本、目と口として赤色で付け足された。
その顔にいつの間にか安心して、そして縋った。
『どうして?』
幼い声が問う。
さっきよりもさらに若い、小学生の俺。
排気ガスを肺に含んでいると言わんばかりの息苦しさを感じる。
気持ち悪い。この問いに答えるのは、気持ち悪い。
思い出せなくなったタイミングは分かる。
あの時の三者面談、中学最後の進路を決める三者面談を終えた時から、親の顔を思い出せなくなった。
『俺、分かるよ。なんで思い出せなくなったのか』
――は?
あっけらかんとした声は誰にも聞かれず、ただ頭の中を何度も反響させるだけだった。
行き場のない疑問に、
『とても簡単なことさ、誰でも分かる単純な答え』
と声は付け加えた。
その声は、もう俺の声色に聞こえないほど歪み、乱れている。
いつの間にか身体は堕ちるのを止め、冷たい地面と接触していた。指先が少し動くようになってる。
どうしてか、この冷たい地面が悪夢の終わりを告げていると、そう感じた。
『あぁ残念、時間だ』
「待て、答えを教えてくれ」
あ、声が……出せる。
『そのうち気づくさ』
そう言うと、声の気配は完全に消え去った。
それと同じくして、一粒の光すら無かった暗黒の先が淡く燃え、輝きだす。
その光は決して俺を包み込まない。辺りを照らすこともない。ただ、そこで輝き続けるだけ。
“もや”の無くなった身体で手を伸ばすも届くことはなく、触れようとするにはあまりにも深く堕ちすぎてしまった。
もがくように光を求めて、そして――俺は目を覚ました。
***
見たことのある天井に、埃っぽい空気。
寝心地の悪い石のベッドが身体の芯を冷やす前に、上半身を起こすが重心がぶれるのか、やけに軽い。
「ここは……俺、一体何して」
――異変に、気づく。
右手で頭を抑えようと袖口から手を出そうとして、指の感覚すら無いことに疑問を持つ前に、それは姿を見せた。
腕がない。
右腕が、無くなってる。
「あ――」
「あ゛あぁぁっ!!」
思い出した、あいつら。
あの三人が俺を突き落として、それで、化け物が俺のう、腕を……。
無くなった筈の腕が軋むように痛い。包帯の上から抑えつけるように支える。
あの血濡れた鎌が、恐怖が、脳裏に焼き付いてる。心を侵食する悪夢のような一瞬。
「ここ…俺が食事中に気を失った時に運ばれた部屋…」
ということは、まだあいつらはいるのか?どうして俺をこの部屋に運んだ、死体と間違えた?
なんで俺を殺そうと。分からない、何も分からない。あの人達は味方じゃなかったのか。勇者だって、俺が必要だって言ったじゃないか。
三人の薄らと笑う顔が、鮮血に染まった記憶に蘇る。
「うっ、ゔぉえぇぇ」
胃液が逆流し、涙と共に吐瀉物がビチャビチャと音を立て、床にばら撒かれる。
鼻腔を刺す匂いと、唾液と胃液が混ざり合った気持ち悪さが口内を占め、“これが現実”であることを身に染みて伝わせた。
「はあ…くっ…」
何かの間違いであってほしい。
「……」
ラヴさんは、あの人はどこまで関わってるんだ。
もしかしたらあの三人が勝手にやったことなのかも。そうだ、そうに違いない。
―― 『いや失礼。ラヴ様も、酷いことをなされると思いましてね。』
いつかの誰かのセリフが頭をよぎるが、考えるよりも先に身体が動く。
「確認しないと」
バランスを崩しながら木製の扉に身体をぶつけ、慣れない左手で開けると、左右に分かれた薄暗い道に出る。
どちらの道にも人は居なく、街灯の松明が等間隔に並べられているだけが、より不安を煽ってきた。
外に出る道は確か左……ということは右か?
記憶を信じて右側の道へと向かう。
服を変えられ、靴を取られ、片腕で上手く走れない中、考えないように我を忘れて走った。
早くこの不安を取り除いて欲しかった。あの家に居た方がマシだと、思いたくなかった。
素足が土で擦れ少しの痛みと、息があがりかけたところで、湿っぽいこの場所に似つかわしくない甘く芳醇な香りが漂う。
「この匂い、嗅いだことがある」
食事の時に飲んだ、白い飲み物の匂いだ。
少し先にある扉のない部屋から強く匂ってくる、ということは。
いざなわれるかの如く足取りが早くなる。
ラヴさんと話して、誤解を解くんだ。
だって、だってあんな良い人達がこんな酷いことをするなんて、
……良い人?
良い人、だよな。
「ユウマ様」
部屋に入ると、前と同じように食事をする彼女の姿が。
ずっと求めていた、不安を溶かす安らぎの声が心と身体に透き通ってくる。
死の淵を彷徨った時ですら彼女の存在を求め、欲した拠り所。
「ラヴさん……」
「お目覚めになられたのですね」
ずっと会いたかった、話したいことが沢山ある、なのに――涙が止まらない。
「ゔっ…っ俺、怖くて…」
「……」
「ラヴさん?」
食事の手を止めず、食器の音が寂しく反響する。
ロウソクで小さく照らされた黒いベール越しの彼女の顔は、前よりも深く色を失い、閉ざされていると思わせた。
「いえ、失礼致しました。お話は聞いております、とても災難でしたね」
食事が終わったのか手を止め、赤い飲み物を喉で鳴らす。
「どうぞおかけになって下さい」
「は、はい」
長い机を挟み、何メートルも先にいるラヴさんを見つめる。前以上にベール越しの表情は分からない。
しばらく静寂は続き、無音に耐えられなくなった俺は声をかけた。
「あの、ラヴさん」
「何でしょう」
「いや、その……」
話は聞いてるんだよな。だったら、グランハムさん達が俺に対してやったことも知ってるはず。
だけど、なんだ。どうしてそんな普通でいられるんだ――もしかして、俺が悪いみたいに伝わってるんじゃ。
「な、何か誤解してるのかなって思って!」
「誤解ですか?」
「そうです。あのカマの怪物に会うまでは、本当に良かったんです。ただ、俺が何か気に触ることをしちゃったのかな、ていうか」
「……俺を、突き落とすようなことを」
あれは、俺を殺そうと。
「だから、その、なんていうか」
形繕った言葉は喋るにつれボロボロと崩れ去っていく。
一番聞きたいこと、探し回っている最中に何度も浮かんだその疑問が、崩れた言葉から現れる。
「信じて、良いんですよね?」
ここにいる人達を、グランハムさん達を、そして――貴女を。
「えぇ、勿論」
一切の感情を見せることなく、彼女は言う。
望んでいた言葉をもらったはずなのに、どうしてか心の底から喜べない自分がいた。
そんな自分を無視するように、
「それなら、良かったです」
と言った。
***
石の階段が俺とラヴさんの足音を反響させ、薄暗い空間にわずかな彩りを加えていた。
あの後、「片腕では不便でしょうから、治して差し上げます」とのことで、治療室のような場所へと向かっていた。
今まで遠いところからしか見れなかったラヴさんを近くで感じることができ、少し高揚している。
意外と身長が低く、背筋がスラりと伸びていて、歩く姿も上品だ。
「結構降りるんですね」
「そうですね」
もう五分以上降りてる気がする。
地下のさらに地下という感じだろうか、匂いも何だか生臭くなってきてあまり長居はしたくない場所だ。
長く降りきった末、ようやくその場所へと辿り着く。
広い空間にぽつんと、手術台のようなものが真ん中で照らされていた。
「ユウマ様」
台に着く前に彼女は足を止め、こちらに振り返った。
明るく照らされているというのに、ベール越しの表情は全く見えない。白い肌と黒い口紅が異質なまでに主張されている。
「はい?」
「先ほど、『誤解されている』と、おっしゃいましたね」
「えぇ、そうですけど」
それはもう解けたんじゃ、
「わたくし、誤解なんて一切しておりません」
「え」
瞬間、後頭部に強い衝撃と痛みが走った。
水墨画のようにぼやけた視界で振り返ると、大柄な男と口元に線を付け足された男が立っていた。
「な……んで」
男達によって身体は無惨に引きずられ、台へと寝させられる。
「『魔術・強固な縛り』」
誰かがそう言うと、首と腰、左腕と両足が動かなくなった。声に聞き覚えがある。あの時崖から突き落とされた時の、
「ユウマ様」
ラヴさんの声だ。
「今からユウマ様の細胞、皮膚、髪の毛から爪先に至るまでの全てを頂戴致します」
――なにいってるんだ。
「わたくし達が欲していたのはユウマではなく、身体なのです」
彼女の細い指が、左手の甲をスルりとなぞる。
指の先端に軽く触れると、木を割くようにバキッと音がする、と同時に熱と神経が剥がれる痛みが襲う。
「がっあ゛ぁあ!!」
なんで、なんで、どうしてラヴさん。
「あぁ!いけません、ユウマ様」
大粒の涙が目に溜まり落ちかけたところで、彼女の口元が目に近づき、ざらりと舌で水滴を拭き取った。
「もう涙の一滴も無駄にはしませんからね」
黒い口元が口角を上げ、耳まで裂けてるように見える不敵なまでのその顔。
「あ」
――あの時の顔だ。
思い出した。
線の向こうの母の顔。
三者面談の時、自分の息子が出来損ないの不出来だと知って母は、
笑っていた。
心の底から、笑っていた。
『なんで思い出せないか、わかった?』
……分かったよ。
あの三者面談以降、俺は親の顔を一度も見ていない。だから思い出せなかった。見てないんだから、思い出せるわけない。
『な?単純な答えだったろ』
あぁ本当に、なんて愚かだろう。
つんざくような悲鳴はこの場にいる“人間”には聞かれず、身体から体積と水分が無くなっていく。
「ユウマ様ご安心を。無くなっても治しますから」
こんなのが人生。
だとしたら俺の人生、なんだったんだろうな。




