第60章 葛藤と後悔
あの中出しから1か月がたち、リノは学校が休みで実家に帰省していた。
僕は相変わらずパソコンで入稿希望者のリストをまとめていた。相変わらず美咲からのメールはない。
(あいつ……なにしてるんや……彼氏できたんかな……だから連絡ない?)
そう思っていたその時、電話が鳴った。
リノだった。
僕は、この電話が今後の人生を決めるとは思ってもいなかった……。
電話に出ると、リノは「今、電話大丈夫?」となぜか元気がなかった。
「大丈夫やけど……どうした? なんかあった?」
僕が聞くと、リノは小さな声で言った。
「できたみたい……」
最初は何が何だかわからなかった。
「できたって……?」
「子供できたみたい……」
その瞬間、僕の体に衝撃が走った。
(え! 一回だけやん! なんで? どうしたらいいの??)
頭の中が一気に混乱した。
おろしてくれって言う?
いや……そんな酷いこと、僕には言えなかった。
もし僕が今そんなことを言ったら、リノはどうなる? この先もずっとつらい人生を送ることになるんじゃないのか。
僕はリノのことを大事に思っていた。傷つけたくない一心で、僕は尋ねた。
「病院は? 行ったの?」
「うん。お母さんには内緒で……」
「じゃあ確実なんや」
「うん」
リノは、それだけ答えた。
僕がしばらく無言だったからか、リノが聞いてきた。
「産んでいい?」
頭が回らなかった。
産んでいい?
これからどうなるのか、何をすればいいのか、何もわからなかった。
美咲のことも頭から離れない。それでも、リノを傷つけるようなことだけは言えなかった。ふと、昔のミキのことが頭をよぎった。
ミキは、昔、元カレとの間に子供を授かり、中絶した経験があった。
あの頃の僕は、ミキがなぜ元カレを選んだのか、まったく理解できなかった。
一度別れた相手なのに、なぜ戻る必要がある?
でも……今なら、少しだけわかる気がした。
もし、僕がリノに「子供をおろしてくれ」と言ってったら……。
もし、リノが僕との子供を中絶したら……。
僕とリノの間には、命を授かり、そして失ったという経験が残ることになる。
もちろん、ミキとリノの状況は同じではない。ミキが何を考え、どんな思いで元カレのもとへ戻ったのか、そのすべてがわかったわけでもない。
それでも、命を授かったこと。そして、その命をどうするかという選択を迫られること。その経験が、僕たちの間に簡単には切れない何かを残すのかもしれない。
それが……縁なのか。
ミキは元カレとの間に子供を授かり、中絶した。
その経験がミキの心に何を残したのか。元カレとの間に、どんな思いが残っていたのか。
当時の僕には、想像すらできなかった・・。
二人の間に残った、目には見えないつながり。
それが、ミキを元カレのもとへ戻らせた理由の一つだったのかもしれない。
今になって、ようやくそんなことを考えられるようになった。
そして、同時に気づいた。
僕は、今、ミキの元カレと同じことをしようとしているのではなか?
もし僕が、美咲を失いたくないという自分の都合だけで、リノに子供をおろすよう求めたら……。
結局、はただの責任感から出た言葉だったかもしれない、僕が絞り出した言葉は、
「いいよ」
だった。
ここからは怒涛の数か月だった……。
まずはオトンとおかんに報告し、リノの親に会いに行った。やっとのことで結婚の承諾を得た。
リノのお父さんは、最初は僕と会うことさえ嫌がっていたが、そのうち折れて、仕方なく認めざるを得なかった。
リノのお母さんはすごく気さくで、温かく僕を迎えてくれた。
僕は、美咲を諦めてリノと結婚すると決意した。お父さんに認めてもらうため、何度も何度も頭を下げに行き、やっとの思いで説得できた。
しかし、数か月後、リノは流産した。
ここまで来たのに……流産。
リノは泣き崩れていた。ミキもこんな気持ちだったのだろうか・・。
せっかく授かった命だった。僕とリノの子供だった。それが、なくなってしまったのだ。
流産したならということで、リノのお父さんはこう言ってきた。
「結婚はしてもらうが、今すぐ結婚する必要はない! しばらく実家で花嫁修業をさせてから結婚を」
僕はマンションに戻った。
もう何が何だか……。
ふざけんな! なんなんだ、これは!
これは今まで遊んできた僕に対する罰なのか?
最初は迷いがあった。けれど、せっかく授かった命だった。それがなくなった。
僕とリノの子供……。
流産したから責任は取ってもらうけど、結婚は後回し?
じゃあ僕は、ただ待っとけということなのか?
また……一人になった。
一応、婚約ということで、ほかの道へ進むことも止めさせられていた。
悔しさがこみ上げてきた……。
こんなことなら……最初からおろす方向で進んでいれば、僕は美咲を失わずに済んだ……。
けれど、リノのことも大切に思っている。妊娠を告げられた時、僕はリノを傷つけたくないと思った。だから「産んでいいよ」と答えた。
あの時の言葉は、やはりただ責任から逃れるための返事だったのか。
それとも、リノと授かった命を大切にしたいという気持ちも、確かにあったのか。
今となっては、自分でも簡単には答えを出せなかった。
そして、流産した今、僕は美咲を失わずに済んだかもしれないと考えてしまっている。
なんて身勝手なんだ……。
命を失ったリノの悲しみよりも、自分が美咲を失ったことを悔やんでいる。
そんな自分が、情けなかった。
後悔しても過去には戻れない。
だが・・今でも僕は、リノには悪いが、美咲を愛している。忘れられない。僕はやっぱり美咲を愛している……。
あの一夜の軽率な行動が、すべての始まりだった。
すべて自分自身の責任だ……。
悔やんでも悔やみきれなかった。
今の僕にはもう逃げ場もない……結婚相手は決まっている。
ああ……美咲も、こんな気持ちで僕と付き合っていたんだ。
初めて、美咲の気持ちが理解できるようになった。
まあ、ちょっと状況は違うけど……。
でも、同時にリノのことも愛おしい。会えないのもつらい……。
頭の中が複雑に絡み合い、考えの整理がつかない。数日間、仕事も手につかなかった。毎日毎日、自分の軽率な行動を責め続けた。
オカンにも言われた。
「あれだけ美咲とは頑張ったのに、一回でリノちゃんとの間に子供できるって……あんたはほんまに……。でも、そういう運命やったんちゃうか? リノちゃんもすごくいい子やし」
直樹にも、
「ほんまにそれでいいんか? リノちゃんでお前は満足なん?」
と言われた。
(そんなん聞かんでもわかってるやろ……)
毎日、同じことを繰り返し思い描いていた。
その時、直樹から電話がかかってきた。
「お〜い、生きてるか〜」
直樹にはすべてを話している。
「辛うじて……」
「なんかお前、死にそうな声してるで!」
「やかまし。で、なんなん?」
すると、直樹が言った。
「なんかみーから連絡あって、今すぐメール見ろって怒ってたで」
(え!)
僕はパソコンを開こうとした。
直樹は続けた。
「みー怒ってたぞ〜、あきれてた(笑)」
あほ! こっちからしたら笑い事じゃすまへんねや。
僕はパソコンの電源を入れ、AOLのアイコンをクリックした。
「You've Got Mail」
メール通知の音がした。
メールは15件溜まっていた。
一番最後に届いた15通目のメールを開いた。
『ダーへ……いい加減にしろ! 明日もう行くから! 13時!部屋おって! バーカ!
salut misaki』
と書かれていた。
ほかのメールを最初から開いていく。
1通目。
『ダーへ……ひさしぶり! 寂しがってるかな?と思ってメールしてみた。最後に逢ってから半年くらい経つね……。あれだけ毎日一緒にいたのになんか嘘みたい。私は相変わらず花嫁修業中〜。また遊びに行こうかなぁ〜。私が恋しくなってきてる頃と思うから、どうしてもって言うなら行ってあげてもいいかな……? てか、リオデジャネイロとはどうなったん? まぁ私には関係ないけど。
salut misaki』
半年……。
最後に会ってから、もうそんなに経っていたんやった・・。
2通目。
『ダーへ……直樹さんから聞いた。リノって子と付き合ってるの? 直樹さんからは本人から聞いたら?って言われたから……。別に……今はいいんやけど……聞きたいのは聞きたい。お互い今は自由やし……。ダーはモテるから仕方ないかなって思うし。
salut misaki』
美咲は、僕とリノが付き合っていることを知っていた。
それでも、直接僕から聞きたかったのだろうか。
3通目。
『ダーへ……なんで返事くれへんの? 別に隠さなくてもいいよ。私だって好きにするし! 彼氏できたし! だからどうなったん!?
salut misaki』
彼氏できたし……。
(彼氏できたんか……?)
その言葉が頭に引っかかった。
美咲にも彼氏ができた。
そう書いてあるのだから、そういうことなのだろう。
なのに、なぜ僕はこんなにも気になるんだ……。
4通目。
『ダーへ……直樹さんから聞き出した。リノさん妊娠したって。そういう事やったんや……。おめでとう。
salut misaki』
(直樹のやつ……ついに口を割りやがったな……)
そう思いながら、次のメールを開いた。
電話の向こうでは直樹が何か話していたが、まったく耳に入ってこなかった。
5通目。
『ダーへ……調子はどう? リノちゃん大丈夫? ダーも……。なんで返事くれないの? 私なんかにもう用はないの?
salut misaki』
6通目。
『ダーへ……なんなん? いったい! メールしてるのに無反応って……もう知らんわ!
ばーか!ばーか! salut misaki』
7通目。
『ダーへ……もしかしてまたメール見てないの? でも……電話したら「軽い女」って見られるのも嫌やし。電話したいけどしない。早くメール見てくれますように。
salut misaki』
8通目。
『ダーへ……今日お菓子作ったよ! 初めて! おいしくなかったけど……今料理教室行ってて。私のケーキ食べたい? 食べたいなら返事してきなさい!
salut misaki』
9通目。
『ダーへ……最近、彼氏に私の手料理作ってあげたら、大絶賛やった!! 私ももう何でも作れるちょー魅力的な女になってしまった。
salut misaki』
彼氏? できたんか……。
10通目。
『ダーへ……なんで返事ないの? パソコンくらいみろ! バーカ! バーカ!
salut misaki』
11通目。
『ダーへ……リノちゃんなんか大変な事なったって聞いたけど……ダー大丈夫? ちょっと本当に気になるんやけど……。返事ちょうだい。
salut misaki』
リノに何かあったことを知って、僕のことまで心配してくれていた。
12通目。
『ダーへ……直樹さんから聞いた……。いろいろ。直樹さんから私が無理やり聞き出したから、直樹さんは悪くないよ。だから、直樹さんは責めないであげて。でも、ダーがどうしてるか知りたい。
salut misaki』
美咲は、直樹を責めないでほしいと書いていた。
僕のことを知りたくて、直樹から無理やり聞き出したのだという。
13通目。
『ダーへ……あのさぁ〜いい加減メールくれてもよくない? 電話するぞ! むかつく……!
salut misaki』
14通目。
『ダーへ……もう! キレた! 言わせてもらうけど、何考えてるか知らんけど、こんなんで引き下がらんからな! ハイエナ美咲は! 行ってやる! 家行くぞ! リオデジャネイロ今おらんねやろ!? 話つけようやないか!
salut misaki』
……と、こんな感じで、美咲からは定期的にメールが送られてきていた。
今回の騒動で、僕はまたまた見落としていたのだった。
最初のメールは、リノに中で出した日の翌日だった……。
確かに、僕は前日にはメールを確認していた。そこまでは、ほとんど毎日確認していたのだ。
だが、そこからリノと過ごす時間が増え、今回の妊娠・流産の一件が起きた。
メールのことなんて、まったく気にしていなかった。というか、考えられなかった。
「お〜い、聞いてるか!」
電話の向こうから直樹の声がした。
そうだ、まだ通話中だった。
僕は言った。
「お前……全部美咲に言ったみたいやな……」
「すまん! 言うつもりなかったんやけど……つい……」
直樹は続けた。
「でも、まだチャンスあるんちゃうんか? 言うても婚約やろ? ……そんなん解消したれ!」
僕も確かに、それを考えた。
でも、僕の中には美咲だけではなく、もうリノもいたのだ。
僕は言った。
「そんな簡単な話じゃないねん」
すると直樹は、
「まぁどっちも上玉やしな(笑)」
と言った。
いい気なもんだ、こいつは。
僕は言い返した。
「もうお前みたいなおしゃべり野郎に用ないから切るぞ!」
「すんませ〜〜ん」
直樹は舐めた感じで謝りながら、さらに言った。
「明日、13時くらいに行くって言ってたから、ちゃんと話せよ!」
「わかってるわ!」
そう答えると、直樹がまた余計なことを聞いてきた。
「ついでにやるんか?」
僕はブツッと電話を切ってやった。
僕は頭を抱えた。
(まじか……美咲来るんか……)
美咲に会えて嬉しい気持ちもあるが、おそらく修羅場になる。色々言われるだろう。
でも、なぜか心のどこかで、逢えることを楽しみにしている自分もいた。
リノ……美咲……両方を愛してしまった僕は、この先どう決断し、どの道を進むべきなのか。
今、僕は運命の分岐点に立たされている。




