第56章 教習所の夏
その日の教習が終わった。
残っていた生徒は三人。
「みんなでご飯でも食べに行ってから帰るか」
僕がそう言うと、みんな一斉に喜び始めた。
「やったー!」
「飯代浮いたー!」
「ステーキ!」
僕はときどき、教習が終わった生徒たちを食事に連れていく。大半は学生で、自由に使えるお金も少ない。これは僕なりのサービスだった。
こうして生徒たちと親しくなることで、卒業した子たちが新しい生徒を紹介してくれることにもつながっていた。
その日のメンバーは、リノと誠、えり、大野さん。そして、僕だった。
古市君はまだ路上教習が残っているため、仕事を続けることになった。
誠とえりは、大阪でも最上位に入る国立大学に通っている。
どこへ食べに行くか相談していると、大野が提案した。
「この近くに、こころちゃんがバイトしてるとんかつ屋があるみたいなんですけど……。そこ、行ってあげます? 前に来てって言われてたんで」
「え~、とんかつ~……」
みんなが少し渋っている。
話が長引きそうだったので、僕が決めた。
「そこ行こ! こころちゃんが頑張ってバイトしてるところ、見たいし!」
「へぇ~い……」
みんな、少し残念そうだった。
僕たちは路上教習車に乗り込んだ。
この仕事を始めてからというもの、プライベート以外の移動は、ほとんど教習車を使っていた。
助手席には大野。後部座席には三人が座った。
ところが、乗り込んだ直後から後ろが騒がしい。
どうやら誠が真ん中に座ってしまい、両隣の女子から「くっつくな!」「離れろ!」と責められているらしい。
「いや……揺れるから仕方ないじゃん!」
関東出身の誠が標準語で弁解する。
「も~、きもい! たけちゃん、なんとかしてよー!」
えりが叫んだ。
僕は聞こえないふりをした。
すると今度は、リノが声を上げた。
「あ! 今、私の足触った!」
「ちょっと揺れたから、手をつくところがなくて……ごめん!」
誠は慌てて謝っている。
そんな賑やかなやり取りを続けながら、僕たちはとんかつ屋に到着した。
店の自動ドアをくぐると、すぐにこころと目が合った。
こころは身長145センチほどの、小柄でとてもかわいらしい子だった。
「みんなで来てくれたんや~! ありがと~!」
こころは笑顔で、僕たちを六人席に案内してくれた。
僕がベンチソファの奥に腰を下ろすと、リノがすかさず隣に座った。
残りの三人は向かい側だ。
注文を済ませて料理を待っていると、えりが僕とリノを交互に見た。
「二人、なんか近くねぇ?」
言われてみれば、確かに近い。
肩がくっついている。
リノの右側は空いているのに、わざわざ僕の横にぴったりと座っているのだ。
するとリノは、慌てて言った。
「ここに荷物置いてるから! ほら! みんなのも置いたげる!」
みんなの荷物を集め、自分の右側に置き始めた。
えりはニヤリと笑い、リノと顔を見合わせた。
「そ~ゆ~ことね……」
二人は何やら楽しそうにニヤニヤしている。
僕には、何が何だか分からなかった。
すると大野が、いきなりリノに尋ねた。
「リノちゃんは、田島さんのこと好きなん?」
「お前……そんなん女の子に聞くなよ!」
思わず突っ込んでしまった。
リノの顔が真っ赤になっている。
それを見て面白くなったのか、今度はえりが僕に尋ねてきた。
「たけちゃんは彼女おるん?」
一瞬、美咲の顔が浮かんだ。
……もう、彼女ではないのか。
「おらんよ。仕事で手いっぱい」
そう答えると、えりはすぐにリノの方を向いた。
「リノ! 彼女おらんて! リノで手いっぱいって!」
「いや、リノで手いっぱいとは言ってないよね?」
誠が冷静に突っ込む。
「うるさい! あんたはメニューでも見とき!」
えりは、もう注文を済ませているのに、誠へメニューを渡した。
誠は素直にメニューを眺めている。
なんだか、こいつは草食男子なんやろうな……と思った。
一方、リノは僕の言葉に食いついてきた。
「田島さん、彼女おらんの!」
大野まで調子に乗る。
「付き合ったらええやん」
「もうええから!」
そうこうしているうちに、こころが料理を運んできた。
「お待たせ~!」
こころが手際よく料理を並べていく。
すると、えりがこころに言った。
「な~、こころ! たけちゃんとリノちゃんってお似合いやんな!」
「え! 付き合ってんの?」
こころが驚いて尋ねた。
僕は否定しようとしたが、大野が先に口を開いた。
「これからやって」
「そういえば、なんか二人、くっついてるもんなぁ」
こころまで感心したように言う。
「もうええから! 食うぞ! はよ食って帰るぞ!」
僕がそう言うと、みんなは一斉に食べ始めた。
確かに、リノはくっつきすぎだ。
こんなところを美咲に見られたら、怒り狂うだろうか。
そう考えて、僕は苦笑した。
もう別れているのに、美咲の反応を気にしてしまう自分がいた。
えりと誠は相変わらずギャーギャー言い合っている。
でも、こうしてみんなで食べるのも悪くない。
一人で部屋に帰ってカップラーメンを食べるより、ずっと楽しかった。
もう、僕は一人身なのだから。
食事を終え、会計を済ませた。
ここからが大変だった。
大野、誠、リノ、えりの順に送っていかなければならない。
全部で二時間半といったところか。
そう考えながら、僕は車を走らせた。
大野を下ろし、誠を下ろし、リノを下ろす。
最後は、えりだった。
二時間ほどが経ち、後部座席の真ん中にどっしりと座っていたえりが、突然尋ねてきた。
「リノのこと、かわいいって思ってるやろ?」
「かわいいよ! みんな。えりも!」
僕は軽く答えた。
すると、えりは真面目な口調になった。
「私がたけちゃんの立場なら、行くね! リノもその気やし」
「こっちは仕事やからねぇ」
「そんなん関係ないやん! 私、この前、古市ちゃんにホテル誘われたで! 行かんかったけど。あたし、たけちゃんなら行ってたもん。でも、絶対にたけちゃんはそんなん言ってけぇへんし……」
僕は内心驚いた。
古市のやつ、そんなことをしていたのか。
会ったら、しばいたる。
……それにしても、僕なら行っていた、か。
昔の僕なら、誘われた相手が誰であろうと、喜んで行っていたかもしれない。
横須賀の伝説になった男やぞ!
そう言いたかったが、別に自慢できることでもないので、やめておいた。
えりはさらに続けた。
「たけちゃん、イケメンやからモテるやろ?」
「いや」
思わず、ひと言で済ませた。
本当は、人並みには……と言いかけたのだが。
「一回でもやったったら、リノも気が済むんちゃう?」
……なんちゅうことを言うんや。
最近の子は、そんなことを平気で口にするのか。
「いくつ離れてると思ってんの? 八年くらい離れてんねんで」
「やるのに年齢は関係ないし」
えりは、あっさりと言った。
「えりこそ、彼氏は?」
「おるで! 二人(笑)」
「それ、二股やんけ!」
「バレなわからん!」
えりは笑い飛ばした。
容姿もスタイルもよく、かなりモテそうな子ではある。しかし、ずいぶん遊んでいるようにも見えた。
古市も、いけそうだと思って声をかけたのだろう。
あいつ……次に会ったら、絶対しばいたる。
えりは車から降りる際、最後にこう言い残した。
「リノのこと、ちょっとは気にしてあげたら?」
えりを見送ると、車内は急に静かになった。
時刻は深夜零時前。
昼間のうだるような暑さが嘘のように、夜の大阪は静まり返っていた。
ヘッドライトが暗いアスファルトを照らし、街灯の光が車窓を一定のリズムで流れていく。
えりの言葉が、頭の中で繰り返される。
――リノのこと、ちょっとは気にしてあげたら?
車を降りるときの、リノの寂しそうな目が浮かんだ。
男として求められることは、やはり嬉しい。けれど、僕の心にはまだ美咲がいた。
最後の夜、僕の服を着たまま浴室で抱きついてきた、あのぬくもり。
「一生ダーの愛人でもいい……」と泣きじゃくっていた、あの姿。
思い出すたびに胸が締めつけられる。
それでも、美咲から連絡が来ることはなかった。
(僕は一体、どうしたいんやろな……)
答えが出ないまま、僕は一人、マンションへと車を走らせ続けた。




