第54章 予感
「はぁ、はぁ、はぁ……。」
何とか間に合った……。
18時57分。
僕はマンションの最寄りの矢田駅までダッシュしてきた。
最後に生徒を送っていったのが松原でよかった……。もし松原じゃなかったら、絶対に間に合わなかった。
近鉄矢田駅は、僕のマンションから車で来るほどの距離ではない。何より、駅周辺は道が狭く、車やバスのロータリーもないような、昔ながらの下町の街並みだ。
歩いても7分くらいの距離なので、走ってやってきた。
19時直前の近鉄南大阪線・矢田駅。
高架下をくぐる風がひんやりと肌をかすめるが、全力で走ってきた僕の身体からは、じんわりと熱い汗が噴き出していた。
矢田駅は改札が地上にはなく、2階に改札口があり、ホームはさらにその上の3階にある高架駅だ。
駅下に到着した僕は、息を切らしながら階段を一気に駆け上がった。
階段を上りきった先の2階コンコースには、改札口がぽつんと一つある。
ちょうど阿部野橋行きの電車が、上の3階ホームに滑り込んできたようだった。
ガタゴトと響く線路の振動とともに、階段の上から大勢の乗客がドタドタと降りてきた。学校帰りの高校生や会社員たちが、次々と改札を抜けて階段を下りていく。
息を荒く切らしながら改札口の灯りを見つめていると、人波が途切れた改札の向こう側から、ケーキ屋の小さな紙袋を大事そうに抱えた美咲がやってくるのが見えた。
「みー! ここ〜!」
と言うと、美咲は気づいたようで、笑顔でこっちに向かってくる。
美咲は「ダー!」と抱きついてきそうだったので、僕はうまくひょいっとかわした。
美咲は、
「も〜! なんなん!?」
と不満そうにする。
僕は、
「いや……今ダッシュしてきたから汗びしょびしょで……汚いから!」
と言った。
美咲は、
「そうなん?」
と言いながら、僕の服を触る。
「うわ! びしょびしょやん!」
「やろ! めっちゃ走ってんから……間に合わんかったら、この辺ガラ悪いから危ないねん」
美咲は、
「ふ〜ん、そうなんや」
と言いながら、周りを見回している。
「確かに良くはなさそう」
そう言いながら、美咲は歩き出そうとした。
「みー、そっちちゃう! こっち! どこ行くつもりやねん!」
「えっ! いや、なんとなくこっちかなって……てへ」
舌を出して笑う美咲。
やっぱ綺麗だ……。
それに、今日の服装はまさか……僕を誘っているのか。
今日はデニムの膝上スカートにパンスト、Dカップが際立つぴちっとしたニット。
これは……もしかして……。
そんなエロいことを考えながら、
「みーは、ほっといたらどこ行くかわからんなぁ〜」
と言いながら先に歩き出した。
すると、僕の左腕に抱きついてきて、
「おいてかないで〜」
と冗談っぽく絡んできた。
僕はすぐに振り払い、
「だから、汗で濡れてるし、におうし……ちょっと離れて!」
と言った。
美咲はむくれ顔で、
「わたしは別にいいのにー!」
と言いながら横を歩いている。
「僕が嫌なんや! 大体、彼女でもないのに腕組むなんてありえへん!」
と言ってやった。
美咲は、
「い〜だ! けち!」
と、小学生みたいなことを言い出した。
しばらく歩いたところにコンビニがあった。
「みー、コンビニ寄ってなんか買って行こか!」
と言うと、
「うん!」
と答え、二人で入った。
コンビニで飲み物を買い、レジでは美咲が「貯金から出す」と言って支払った。
「ダー、ご飯食べたん?」
「いや……食う暇なんかなかった。でもケーキ買って来てくれたから、それでいいよ!」
と言うと、美咲はレジ横の棚からおにぎりを5つくらい取って会計を済ませた。
僕は、(おにぎり別にいらんのになぁ〜)と思いながら眺めていた。
コンビニを出て、数分歩いたらもうマンションだ。
僕は美咲の持っている荷物を奪い取り、
「持ったるわ! しゃあないから!」
と言って、足早に歩く。
美咲も早足でついてくるが、追いつけないみたいなので走り出した。
僕も負けじと走り、マンションが見えてきた。
ロビーまでもう少し!
僕が先に着いた。
美咲はばてながら、はぁはぁと息を切らしてロビーに到着した。
美咲は、
「これは何? なんの競争なん?」
と、息を切らしながら言ってきた。
僕は、
「まだまだやな! もうちょっと太い脚、痩せなあかんわ!」
と言った。
その瞬間、美咲の左フック気味のビンタが飛んできた!
それをスウェイで見事によけたら、後ろの集合郵便受けで頭を打ち、
「うぉ〜! いてぇ〜!」
と頭を押さえてしゃがみこんだ。
美咲は大笑いして、「ざまあみろ」という顔をしていた。
痛みが治まるまで、しばらくロビーで待った。
美咲は、
「大丈夫?」
と笑いながら声をかけてくる。
(どうして? 人間はみんなそうなんだ。どう見ても大丈夫じゃない人に対して「大丈夫?」と聞くんだ?
テレビドラマでもよく見るが、救急車で運ばれている人や、交通事故に遭った人に対して「大丈夫ですか?」という言葉は適切ではない。どう見ても大丈夫ではないからだ。しまいには医者まで「大丈夫ですか?」と聞く。大丈夫じゃないから、そもそも病院にいるのだ。)
そんなことを考えながら、なんとか鍵を回してロビーのオートロックのドアを開けた。
先に美咲が前を歩き、なんだかうきうきで僕の部屋に向かっている。
こいつ……「ざまあみろ」って思ってんな……。
僕は部屋の鍵を開け、ドアノブを持とうとした。
すると、先に美咲がドアノブを持ち、一気に引いてきた。
(きた!)
と思い、スウェイバックでかわした。
美咲は、
「ちっ!」
と言いながら部屋に入っていく。
おぉ〜……今のはやばかった。
スウェイバックしてなかったら、顔面直撃だった……。
マジであいつ、狙ってきたな。
そう思いながら、僕も続いて中に入った。
電気はつけっぱなしだ。脱ぎ散らかした安物のスーツがソファに掛けられている。
美咲は、
「ソファ買ったんや〜」
と言いながら、ソファに飛び込んだ。
「なかなか座り心地いいやろ!」
すると美咲は、
「う〜ん、満足じゃ〜」
と言い、シングルソファの方に足を組んでふんぞり返った。
(僕は・・いい! その格好! いい! お足があらわになっている! エロい! エロの極み!)
僕は歩み寄り、そっと自然に触れようとした。
しかし、美咲はいきなり立ち上がり、グラスを取りに行った。
くそっ! 空振りか……。
しかし……僕、汗臭いな……。
そう思い、
「みー、ちょっと僕、汗臭いからシャワー浴びてくるわ! そこら中捜索すんなよ!」
と言った。
美咲はニヤリとして、
「そんなんするわけないやん……リノかリオデジャネイロかなんか知らんけど……」
と言いながら、僕の脱ぎ散らかしたスーツをハンガーに掛けてくれている。
僕はシャワーを浴びながら考えていた。
(さっきの「リノかリオデジャネイロかなんか知らんけど……」って、明らかにリノちゃんのこと疑ってんな……。
でも何でもないし、てか別に悪いことしてるわけじゃないし。たとえ付き合ったとしても、美咲にはもう関係のないこと……やけど……なんか……やっぱスッキリしない……)
そう思いながらシャワーを頭から浴びていると、ゆっくり浴室の折戸が開いた。
そこに美咲が立っていた。
美咲は服を着たまま浴室内に入ってきた。
僕が何か言おうとすると、美咲はそっと僕の体に服を着たまま抱きつき、
「あたしもさっき走ったから汗びしょびしょやねん……」
と、顔をうつむけたまま、小さな声で言った。
僕が、
「服びしょびしょなってるやん……」
と言うと、美咲は顔を上げ、ニヤニヤしながら、
「ダー、こういうの好きやろ?」
と言って、想いをぶつけるように唇を重ねてきた。
そのあとは、もうなるようになってしまった。
お風呂で1回、ソファで1回、ベッドで2回。
うちには乾燥機もないので、美咲も帰る服がなく、泊まることになった。
ノーブラ、ノーパンで僕のTシャツに僕の短パンを着た美咲を見て、なんだかダボダボでかわいかった。
そんな格好でチョロチョロして、ビーズクッションに二人で座り、美咲が買ってきてくれたケーキを食べた。
僕のケーキはショートケーキ。それしか食べられないので、当然のようにそれを買ってきてくれていた。
美咲のは、何やらフルーツがいっぱいのっているケーキみたいなやつだった。
僕が、
「また太るで」
と言うと、スリッパで叩かれた。
美咲は体型のことを言うと、すぐにキレる。
なぜだろう? 女性はみんなそうなのか?
美咲が、
「リオデジャネイロとはどうなったん?」
と聞いてきた。
相変わらず直球だ。
リノちゃんのことだろう……おそらく。
「リオデジャネイロ」って……思いっきり悪意こもってるし、もう「リ」しか合ってないやん。
そう思いながら、
「何にもなってないで」
と素直に答えた。
美咲は、
「ふ〜ん」
と、すかして答えた。
「大体、リノちゃんとどうかなってたら、みーともこんなんしてないよ!」
と言うと、美咲は、
「そらそうや……」
「でも、ただ聞いただけやん」
「聞いたらあかんの?」
「なんか都合悪いん?」
「リオデジャネイロのこと好きなん?」
と、先制攻撃を始めた。
僕が、
「リオデジャネイロって誰なん?」
と返すと、美咲は、
「リオデジャネイロはリオデジャネイロやろやん!」
と、ちょっと笑いながら言ってきた。
僕は、
「リオデジャネイロは都市の名前や!」
と、ちょっと笑いながら返した。
美咲は、
「まじめか!」
と突っ込んできた。
二人でクスクス笑いながらケーキを食べた。
「あ〜」
と僕が立ち上がり、3人掛けソファの上に寝転びながら、
「みー、これで1キロはまた太ったな!」
と言うと、拳でボディを殴ってきた。
いつものやり取り、いつもの光景。
これが僕と美咲の日常だった。
結婚したら、こんな楽しい毎日が送れるんだろうな……。
そんな思いを巡らせていたら、美咲が立ち上がり、寝転んでいる僕に覆いかぶさってきた。
「もっと抱いてほしい……」
なぜか、美咲は泣いていた。
「みー? どうした?」
と聞くと、
「だって……離れたくないんやもん……。もう私、一生ダーの愛人でもいい……」
と言った。
僕は、
「みー……それはあかんよ! みーの人生、無茶苦茶になるから……」
と答えた。
僕は「……みーには幸せになってほしい……たとえ相手が俺じゃなくても……」
そう言った。
本当は、誰にも渡したくはない。離したくはない。渡したくない。ずっと僕だけの美咲でいてほしい。
だけど、僕たち二人には「結婚」という未来がない。
これはどうしようもないことだ。
それを分かって、お互い別れたのだから……。
今さら復縁したところで、また悲しみが先延ばしになるだけだ。
それも美咲はきっと分かっている。
分かっているからこそ、「愛人」という言葉が出たんだろう。
もちろん、本気ではないと思うが……。
僕は、そんな泣きじゃくる美咲を思いっきり抱きしめた。
なぜか……これが最後になるような気がして仕方がなかった。
そうであってほしくない……。
でも、何か胸騒ぎがする……。
美咲とは、これで……会えなくなりそうな気がして、不安で抑えきれなくなっていた。
部屋は静まり返り、ただ、美咲の泣きじゃくる声だけが虚しく響いていた。




