第51章 一人暮らし
季節は巡り、寒く厳しい冬の終わりとともに、うっすらと春の息吹が街に訪れ始めていた。
朝夕の刺すような冷気は和らぎ、開け放した車窓から流れ込む風には、どこか柔らかく湿り気を帯びた春の匂いが混ざり込んでいる。コートのボタンをひとつ外し、ひんやりとしながらも心地よい空気を胸いっぱいに吸い込むと、かじかんでいた身体の芯が、じんわりとほどけていくような温もりを感じた。
見上げる空は、冬のどんよりとした灰色から、澄んだ柔らかな薄青色へと変わり、フロントガラス越しに降り注ぐ日差しは、日ごとに力強さと温かさを増している。
街路樹の固かった枝先には、小さな薄桃色の蕾が膨らみ始め、アスファルトの隙間や沿道の草むらからは、青々とした新芽が顔をのぞかせていた。長かった冬の沈黙を破るように、鳥たちのさえずりもどこか賑やかに響き渡り、街全体がゆっくりと息を吹き返していくかのようだった。
季節は確かに移り変わり、新たな始まりを告げる暖かな光が、静かに世界を包み込み始めていた。
「先生! ここ右ですか?」
助手席に座っていた僕は、運転席の生徒の声にハッと我に返った。
「お! そこそこ!」
教習車は合図を出し、規則正しく交差点を曲がっていく。
これで今日の教習は終わりだ。
早く自分のマンションに戻って、WJDSのホームページを更新しなければならなかった。
僕は今、大阪市内のマンションで一人暮らしをしている。
あの年明けの絶望的な日から、もう4か月が過ぎようとしていた。
美咲とは、あの後、一度だけ会った。
「どうしても、うちの家族にお世話になったことのお礼が言いたい」
そうせがまれたからだ。
僕は美咲を実家に連れて行き、家族みんなに別れの挨拶をした。
オカンも親父も、美咲も、そして僕も、みんな泣いていた。
しかし、それももう過去の話だ。
最初の2か月間は、腹が立つこともあれば、猛烈に寂しくなることもあった。
だが今は、そのすべてを仕事に打ち込むことで紛らわせていた。
僕の住んでいるマンションは、5階建ての新築マンションで、僕の部屋は1階にある。間取りは1LDK。バス・トイレ別で、なかなか住み心地がいい。
自室に戻った僕は、パソコンに向かい、ホームページの更新作業を進めていた。
「You've Got Mail」
そのとき、パソコンからメールの通知音が鳴った。
この「You've Got Mail」は、もともと1999年に公開された、メグ・ライアン主演のラブストーリー映画からきている。
昔、美咲と一緒に見たときに、すごく面白かった。
それがきっかけで、映画の中で使われていた「AOL」というプロバイダーと契約したのだ。
メールが届くと、「You've Got Mail」と音声が流れる。
僕はその演出が気に入り、このプロバイダーに決めたのだった。
届いたメールを開くと、差出人の名前には「美咲」と書かれていた。
僕は、少し緊張しながらメールの内容を開いた。
『ダーへ……あれから4か月経ったけど、元気してる?
電話しようと思ったけど……うまく話せん気がしてメールした。
前にアドレス聞いてたから……。
この前、会社の慰安旅行に行ってきて、ダーにお土産買ってきた!
渡したいんやけど、逢えるかな?
また返事ちょうだい。
salut misaki』
(なんで最後、フランス語やねん。それに、なんでお土産やねん……!)
心の中でツッコミを入れながらも、僕はキーボードを叩いた。
『明後日ならいけるで。18時に会社まで迎えに行ったるわ。』
簡潔な文章だけを打ち込んで、返信した。
すると、しばらくして、すぐに返事が返ってきた。
『じゃあ明後日待ってるね! salut misaki』
なんで別れて4か月も経った元カレにお土産なん?……。
そんなことを思いながらも、僕はホームページの更新作業に戻った。
そのまま作業は3時間ほど続いた。
一人暮らしは、思った以上に快適だった。
ただ……ご飯を除いては。
これが毎回、とにかく邪魔くさい。
コンビニ弁当は口に合わないし、ほか弁もすぐに飽きてしまう。結局、自分で作ることになるのだが、一人分となると、買い出しの量を調整するのがめちゃくちゃ難しい。
だから結局、できる限りカップラーメンで済ませるようになっていた。
今の僕の身体は、ほぼカップラーメンでできているようなものだった。
そして、謎の「元カレにお土産」の日がやってきた。
僕は時間通り、美咲の会社の目の前に車を止めて待っていた。
やがて、会社のビルの出入り口から美咲が姿を現した。
ベージュの膝上スカートに黒のパンスト、薄手のニット。
そそる……。
そんなことを思いながら、僕は平然とした顔で、助手席に乗り込んでくる美咲を見ていた。
「おまたせ〜」
美咲はそう言いながら、僕の顔をのぞき込んできた。
「あれ? ダー、ちょっと痩せた?」
(絶対カップラーメンのせいだが、お前のせいで痩せた! と言ってやりたかったところだが……)
そこはグッとこらえ、別の言葉を返した。
「そっちは太った?」
すると美咲は、むくれ顔になった。
「太ってない! 痩せてんから!」
しかし……相変わらずかわいい……。
そんなことを思いながら、僕は尋ねた。
「飯、食うやろ?」
「食う!」
美咲が即答したので、とりあえず自宅方面に向かって車を走らせた。
走り出してしばらくすると、美咲が聞いてきた。
「ちゃんとご飯食べてる?」
「食ってるよ! カップラーメン」
「え? 毎日?」
美咲は驚いたように目を丸くした。
「毎日じゃないけど……ほぼほぼ」
すると美咲は、まるでオカンのような口調で言ってきた。
「も〜、ちゃんと食べな身体こわすで!」
それから僕たちは、しばらく仕事の話や、直樹たち友達の話で盛り上がった。
美咲の自宅近くに、ちょうどステーキレストランがあったので、そこで食事をすることにした。
オーダーを終え、二人で向かい合って座っていると、美咲が大きな手提げの紙袋から、何やら箱を数個取り出した。
「これと、これと、これと……」
三つの箱をテーブルに並べる。
そして最後に、もう一つ取り出した。
「これもあげる!」
差し出されたのは、タコの形をした人形だった。
口の部分がハンコになっていて、そこを押すと「たこポン!」と音が鳴る。
美咲は笑顔で説明した。
「これ、ビンゴ大会で当たった景品(笑)」
そう言って、僕に手渡してくれた。
ほかの箱は、どれもお菓子ばかりだった。
箱を見ると、「有馬温泉」と書かれている。
「有馬行ってきたん?」
僕が尋ねると、美咲は答えた。
「うん!」
その瞬間、付き合っていた頃に美咲と有馬温泉へ行った記憶が蘇ってきた。
あのときは楽しかったな……。
そう思っていると、美咲が何かを思い出したように言った。
「みてみて〜」
そして、慰安旅行のときに撮った写真を数枚見せてきた。
そこには、楽しそうな美咲の姿が写っていた。
そして、なぜか常にその横にいる男。
さらには、その男が一人で仮装している写真まであった。
美咲はその写真を指さし、嬉しそうに話し始めた。
「この人、めちゃくちゃ面白くて優しくて! すごいいい人やねん!」
それを聞いた僕は、一体どうリアクションしたらいいのか分からなかった。
なんか腹が立つというか、だからなんなん? というか……。
そんな気持ちを押し殺しながら、
「そうなんや……」
と返した。
そして、気になっていたことを聞いてみた。
「付き合ってんの?」
すると美咲は、
「ないしょ!」
と答えた。
(なんやねん、それ! むかつくわ……。この男、今、目の前におったらぶちのめしてやるのに……)
なぜか、怒りが込み上げてきた。
楽しそうに話す美咲を見て、僕は心から思った。
(あ〜、もうこいつ、完全に僕のことなんか吹っ切れてるんやな)
美咲は楽しそうに慰安旅行の話を続けている。
だが、僕は全く楽しくなかった。
口から出るのは、たまに「そうなん」「ふ〜ん」「よかったやん」と返すくらいだった。
料理が運ばれてきても、その話は続いた。
僕は久しぶりに食べる肉に夢中で、ほとんど話を聞いていなかった。
すると美咲が、少し不満そうに言ってきた。
「話、聞いてる?」
「うん」
僕は肉を食べながら返事をした。
すると美咲は、さらにむくれた。
「せっかく『たこポン』あげたのに!」
僕はなぜか、どうしても気になっていたことを、もう一度尋ねた。
「その男とは、そういう関係なん?」
美咲は、少し言いにくそうに答えた。
「ん……結婚してるんやけど……もう別れるらしくて……かわいそうで……いろいろ話聞いてあげてるねん!」
(うわ! もうそいつ、絶対に美咲のこと狙ってるやん! しかも既婚者! むかつくわ〜)
そんなことを思いながら、僕は肉をほおばった。
すると美咲は、僕の顔をのぞき込むようにして尋ねてきた。
「なんで? 気になる?」
ニヤニヤしている。
「気になるというか、既婚者やろ! 相手!」
僕がそう言うと、美咲はまるで僕をおちょくるかのように返してきた。
「だから? なに? なにか?」
付き合っているときなら、いくらでも言いようがあった。
だが、今はもう付き合っていない。
だから、美咲の自由だ。
僕には何も言う権利がない。
「なんもないけど……」
そう答えると、美咲はどこか寂しそうに突っ込んできた。
「なんやそれ!」
そうして、僕は延々とその男の自慢話を聞かされ続けた。
やがて美咲は、写真の中から、一人で恥ずかしそうに写っている写真を選び、僕に突き出してきた。
「これあげる!」
受け取った写真に写る美咲は、びっくりするほどの美人だった。
職場にこんな子がおったら、みんな気になって仕方ないやろ……。
そう思うくらい、写真写りがよかった。
僕は何も言わず、その写真を受け取った。
肉も食べ終わり、美咲も食べ終わったのを確認すると、僕はそっけなく言った。
「もう帰ろ! 明日も仕事やし」
美咲は不満そうに声を上げた。
「え〜、もう帰んの〜?」
そう言いながら荷物を持ち、レジでお金を払おうとした。
それを見た僕は、慌てて声をかけた。
「ちょ! 俺が払うから!」
しかし美咲は、
「貯金まだ残ってて……これで払う」
と言って、そのまま会計を済ませた。
(そっか……そういえば、すっかり忘れてたけど……まだ通帳には何十万か残ってたんだな……)
なんだか、懐かしく感じた。
店を出て車に乗り込み、車を発進させようとしたとき、美咲が尋ねてきた。
「どこ行く〜? これから」
「どこって……帰るんやろ?」
僕がそう答えると、美咲はニヤニヤしながら言ってきた。
「ほんとにそれでいいの? いいんやったらいいけど……」
(これは! もしかして、お誘い……?)
そういえば、この服装。
僕の好みのやつだ!
そうだ! 僕たちは別れたけど、お互いに彼氏も彼女もいるわけじゃない。
つまり……フリー!
僕は意を決して言った。
「じゃあ〜、1発くらいやりに行きますか〜」
すると美咲は、真剣な顔で答えた。
「1発じゃ嫌……早く行こ」
僕たちはそのままホテルへ向かった。
そして、今まで会えなかった時間を埋めるかのように、これまでで一番激しく愛し合った。
終わると、美咲が抱きついてきた。
「気持ちよかった〜」
この感触は、久しぶりだった。
僕は、いきなりぶっこんでやった。
「みー! 今日で何回目?」
美咲は天井を見上げながら、即答した。
「今日3回したから、1857回目!!」
すごい……。
別れても、ちゃんと覚えてたんや……。
美咲は、そんなことよりも気になることがあったらしい。
「さっきの男の人……ダー、やきもち焼いてたやろ?」
ニヤニヤしながら、そう尋ねてきた。
僕は正直に答えた。
「そりゃー、やっぱ元カノが……他の男のことを楽しそうに話すから……。でも、そんなん今、俺ら付き合ってないし……言われへんし」
すると美咲は起き上がった。
「そっか〜、元カノか〜」
そして、何かを考えるように続けた。
「まぁ、今はそう思われても仕方ないか……」
(今は? どういうことだろう……?)
その言葉が気になったものの、そのときは深く考えなかった……というより、考えられなかった。
後ろから美咲の長い髪と、綺麗な背中を眺めていると、そんな考えはどうでもよくなってしまった。
僕は、もう一つ気になっていたことを尋ねた。
「あの人とやったん?」
すると美咲は、間髪入れずに言い返してきた。
「やってないわ!」
そう言って、僕を叩いた。
だが、僕は納得できなかった。
「あいつ、絶対に美咲のこと狙ってるで!」
「そんなん、私でもわかってるわ!」
美咲は、そう言い返してきた。
しばらくして、今度は美咲が尋ねてきた。
「なんで電話くれへんの?」
僕は迷いながらも答えた。
「俺は……ほら……軽い女とは電話したくないし、してきてほしくもないの」
そのときは、本当に軽い気持ちだった。
ただ、何となく口から出ただけの言葉だった。
美咲は、綺麗な背中にかかったロングヘアをかき上げながら振り返った。
「そっか……じゃあ、少なくとも私は軽い女じゃないってことやね!」
僕は答えた。
「うん!」
その何気ない一言が、のちに僕の人生を狂わせることになるなど、このときの僕は全く予想もしていなかった。
このときは……。




