第50章 新年の別れ
12月31日、大晦日の夜。
僕たちは例年通り、年越しの参拝客でごった返す住吉大社へと足を運んでいた。美咲と来るのは、もう6回目だ。
一歩、鳥居をくぐれば、境内は身動きが取れないほどの凄まじい人混みだった。次から次へと押し寄せる参拝客の波。あちこちから聞こえてくる賑やかな話し声や笑い声。そして、境内を包み込む露店から漂う、香ばしいソースや出汁の匂い。それらが夜空の冷気と混ざり合い、独特の熱気を作り出していた。
冬の夜の底冷えするような厳しい寒さの中、露店の赤々と燃える灯りや、参道を照らす提灯の明かりが、人々の湯気立つ息や紅潮した頬をぼんやりと照らし出していた。
あの重苦しい車内での会話から数日が経った。
はっきりとした答えが出ないまま迎えた大晦日。周囲の喧騒と祭りのような華やかさとは裏腹に、僕たちの心には、どこか冷たい風が吹き抜けているような、そんな落ち着かない距離感が漂っていた。
それでも、はぐれないようにと繋いだ美咲の手は、冷たい夜気の中でもしっかりと温かかった。
屋台でたい焼きを見つけ、二人で屋台の隅に座って食べていると、美咲が尋ねてきた。
「お願い事、何したん?」
僕は意地悪く答えた。
「教えへん!」
すると美咲は、
「ふん!」
と言って、そっぽを向いた。
今度は僕から尋ねた。
「みーの願い事は?」
「教えへん! 言ったら叶わんようになるから!」
そう言いながら、ニヤニヤしている。
たい焼きを食べ終えた僕たちは、境内を見て回った。
手を握り合い、ときには美咲が僕の腕に抱きつきながら歩く。いつもと変わらない光景だった。
だが、なぜか、あのすき焼きの日以来、美咲はいつもそばにいるのに、その存在が遠くに感じられた。
きっと、美咲も同じように感じているのだろう。
お互いに何かを言いたくても言えない。そんな状態が、ここ数日ずっと続いていた。
いつも通り、屋台でいろいろなものを食べ歩き、二人とも満足したところで車に戻った。
寒かったので、エンジンをかけ、暖房をMAXにした。
キーを回すと、ブロアモーターが勢いよく唸りを上げ、吹き出し口から温風が勢いよく流れ出してきた。
氷のように冷え切っていた車内の空気が、ガタガタと音を立てるダッシュボードの奥から届く熱気によって、一気に書き換えられていく。
フロントガラスの隅に白く浮かび上がっていた、霜のような曇りが温風を浴びてじわじわと透明な雫へと姿を変え、すーっとガラスを伝って落ちていった。
かじかんだ指先をエアコンの風に向け、二人でハァーッと息を吹きかける。
次第にシートの奥までじんわりと熱が伝わり、外の寒風をすっかり遮断した車内は、あっという間に熱気で満たされていった。
しかし、エアコンが効いて車内が暖まれば暖まるほど、かえって二人を包む静寂の重みが浮き彫りになっていく。
吹き出し口から響くブワァーッという風切り音だけが、言葉を失った僕と美咲の間の空間を虚しく埋めていた。
僕は、そんな空気を変えるように尋ねた。
「今からどうする? いつも通り、どっか泊まる?」
毎年、年越しの参拝を終えたあとは、必ずどこかのホテルに泊まり、一緒に新年を迎えるのが恒例だった。
美咲は即答した。
「あたぼーよ!」
と言っても、毎年この日は同じホテルを予約している。
ビジネスホテル以上、高級ホテル未満といったレベルの、大阪市内にあるホテルだ。ツインルームで、ちょっとしたソファーセットもある。僕たちは近年は毎年ここで、ゆっくりと過ごしていた。
部屋に着くと、美咲はベッドに飛び込んだ。
短めのスカートから伸びる足が、たまらなくそそる……太ももは太いけど。
僕はコートを脱ぐと、美咲の上に覆いかぶさるように飛び込んだ。
美咲が、思いっきり抱きついてきた。
「ねぇ〜、ダー……これで最後にならへんよね?」
いきなりの、衝撃的な発言だった。
予想はしていた。
この数日間、二人の間に漂っていた距離感。何となく、そんな気がしていたのだ……。
僕は、
「ならんやろ?」
と答えたものの、心の中はざわついていた。
そんな不安を抱えながらも、僕たちは朝まで愛し合った。
ツインルームなのに、もう一つのベッドはまったく使われていない。完全に荷物置き場と化していた。
朝、目が覚めると、美咲が僕の方を向いて眠っていた。
メイクもしていないのに、綺麗な顔立ち……。思わず見とれてしまうほどだった。
ずっと眺めていると、急に美咲が目を開けた。
「今、ずっと見とれてたやろ〜」
図星だった。
僕は素直に答えた。
「うん……あまりにも綺麗やから……」
すると美咲は唇を重ねてきた。
そして僕の上に乗ると、長い髪をかき乱しながら言った。
「ダーはじっとしといて。私が全部してあげる」
そうして僕たちは、最高のひとときを味わった。
終わったあと、二人で寝転んでいると、美咲は自分のお腹をさすりながら、期待に満ちた声でつぶやいた。
「できたかなぁ〜」
そんな美咲を見ていると、僕はますます迷ってしまった。
本当に、これでいいのか?
すると美咲が、ふと思いついたように言った。
「もし、結婚できへんくても、10年後の約束せえへん?」
「なにを?」
僕が尋ねると、美咲は答えた。
「10年後の今日、1月1日。あのいつもの公園で、深夜0時に会う」
僕は迷わず答えた。
「いいよ〜! 絶対に約束!!」
美咲はニコッと笑い、また僕に抱きついてきた。
シャンプーのいい匂いがした。
でも……。
今、美咲は確かに「結婚できんくても」と言った。
今まで、そんなネガティブな言葉を口にしたことはなかった。
やっぱり美咲も、心の中では覚悟しているみたいなのだ。
僕は意を決して起き上がり、真顔で美咲に向き直った。
「美咲……」
そう声をかけた、そのときだった。
横から、思いもよらない言葉が飛び出した。
「私たち、別れよう」
目の前が真っ白になった。
予想はしていた……。
でも、実際に言われると……。
美咲は続けた。
「私、一旦別れて、花嫁修行でもする〜。世間も知らんし……。なんか、もっといろんな人のことも知りたいし……」
いろんな人?
どういうことや?
僕は頭の中が混乱しながらも、美咲に尋ねた。
「どういうこと? いろんな人? もしかして、いろんな人と、こういうことがしたいってこと?」
美咲は言いにくそうに答えた。
「だって、私、男の人のこと、ダーしか知らんし……。いろんな経験して、自分磨いて……」
その言葉を聞いた瞬間、僕はぶちぎれた!
「なんなん、それ? ただ他の男とやりたいだけ? それだけで別れるの? なんなん、それ!?」
僕が怒鳴ると、美咲は慌てて言い返してきた。
「そんな言い方やめて!! そんなんじゃなくて、私ももっといろんな経験したいだけ! そしたらダーとまた……」
最後まで聞くこともできず、僕は美咲の言葉を遮った。
「他の男にさんざん抱かれた女なんか、ごめんや!」
美咲は、すぐに言い直そうとした。
「別れるって言うのは、ちょっと言い過ぎたかも……。距離を置くって感じで……」
しかし、僕はその言葉すら遮った。
「ありえへん! 俺はもう、別れたら終わりやから! ましてや、ほかの男となんて……」
このときの僕は、熱くなりすぎていた。
ベッドのそばに脱ぎ捨てていた服を、次々と身につけていく。
そんな僕に、美咲が後ろから声をかけた。
「ちょっと……最後まで話聞いてよ〜!」
僕は、その声を無視した。
そして、ホテルを出て車に乗り込んだ。
ここなら駅も近いし、あいつだって電車で帰れる……。
そう思いながら、僕は車を走らせた。
エンジンをかけると、冷え切った車内に寒気が一気に押し寄せてきた。
元旦の街は、昨夜までの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
薄暗い冬の空からは、どんよりとした冷気が降り注いでいる。見上げる街並みは色を失ったかのように、灰色の世界に包まれていた。
フロントガラス越しに見える景色は、凍てつく風に吹きさらされ、路上の街路樹も葉を落としきって、寒々と突っ立っている。
窓を少し開ければ、刺すような元旦の冷気が容赦なく顔を打ち、熱くなった頬を冷やしていく。
だが、頭の中のパニックと、激しい感情の渦は一向に収まらなかった。
「別れよう」
あの言葉が、頭の中で何度も何度も、恐ろしい残響となって繰り返される。
あんなに愛し合った朝のぬくもりも、10年後の約束も、すべてが一瞬で砕け散った。
指先がかじかむほどの冷気よりも恐ろしい絶望感が、胸の奥底から全身へとじわじわ広がっていく。
自分がどこへ向かってハンドルを握っているのかさえ、分からなくなっていた。
助手席には、もう誰もいない。
さっきまでそこにいた美咲の面影と、去り際に叫んでいた声が、冷たい車内の静寂の中で、痛いほど重くのしかかっていた。
視界が歪み、世界全体が凍りついていくような感覚。
僕はただただ、絶望と怒りと切なさに胸をかき乱されながら、元旦の冷たく静まり返った道路を、あてもなく走り続けた。




