第49章 すき焼き
僕たちの子作り大作戦も再開し、季節はあっという間に年末を迎えようとしていた。
その前にやってくるのが、街中が華やぐクリスマスだ。
ホテルからの帰り道、僕は美咲を乗せて、実家である田島家へと車を走らせていた。
「今日はまだ、もう一発くらいできたね〜」
僕がそう言うと、美咲がすかさず返してきた。
「いや! 2発はできた!」
美咲も最近、なぜか下品になってきた。僕の影響か? そんなことを思いながら、僕は車を走らせた。
師走の澄み切った夜空の下、車窓の外では色鮮やかなイルミネーションが煌めき、街全体がどこか浮き足立ったような賑やかさに包まれていた。
通り沿いの店からはクリスマスソングが聞こえてきそうで、歩道を行き交う恋人たちや家族連れは、みなコートの襟を立て、白い吐息を吐きながら楽しそうに身を寄せ合って歩いている。
冬特有の、ピンと張り詰めた冷たい空気がフロントガラス越しにも伝わってくる。けれど、エアコンの効いた暖かい車内には、どこか穏やかで温かい空気が満ちていた。
助手席の美咲に目をやると、少し疲れが見えるものの、どこか満足げな優しい表情で、流れていく街の光をぼんやりと眺めていた。
あの土砂降りの夜の完敗から、僕たちの絆は以前にも増して固くなっていた。
冷たい冬の風が吹く街を走り抜けながら、僕は助手席にいる美咲の存在を愛おしく感じ、田島家の賑やかな灯りが待つ場所へと車を走らせ続けた。
家に着くと、今日の食卓には次男の姿がなかった。
僕たち4人で、すき焼きだった。
僕はいつもの椅子を奪還し、見事に格上げとなった。
「いっぱい食べや! お肉いっぱいあるからな!」
美咲に嬉しそうに声をかけるうちのオカン。
オカンが使う食材は、どれも高価なものばかりだ。すべて高島屋で買ってくる。すき焼きの肉だって、普通のスーパーで売っているような肉ではない。一枚一枚、きれいに包装された高級な肉を買ってくる。すき焼きのときは、いつもこれだった。
美咲もこの肉が大好きだ。すき焼きの日には必ずやってくる。そして、今日も遠慮なく食べまくっていた。
僕はそんな美咲を見て、
「オカン! あんまりこいつに食わせるなよ! 太るから!」
と言った。
するとオカンは、すかさず美咲の方を向いて言い返した。
「どこが太ってんのよ! 痩せすぎて心配になるくらい細いやないの!」
それを聞いた美咲は、ここぞとばかりに乗っかってきた。
「そーだ! 私のどこが太いんや〜! 言うてみー! ほれ!」
最近、美咲はオカンに似てきた。
親父が僕に尋ねてきた。
「仕事の方はどうや?」
「順調やで! 生徒も増えてきたし、バリバリよ!」
すると、オカンがすかさず口を挟んだ。
「バリバリってなんやの!」
「バリバリは、バリバリや!」
「なにわけわからんこと言ってるの、あんたは!」
さらに、美咲まで加勢してきた。
「そーだ! わけわからんこと言うな! あほ!」
あかん……この二人が絡んだら、僕が不利や……。
そう思いながら、僕はもう何も言わなかった。
その後も食事は賑やかに進み、やがて美咲とオカンは、キッチンで一緒に後片付けを始めた。
美咲は僕の横に座り、何やらオカンと楽しそうにしゃべっている。ここで僕が口を開けば、また総攻撃を食らいそうだったので、黙っていた。
すると、美咲がいきなり僕の左腕に抱きついてきた。
「お母さん! あたしたちって、お似合いですよね!?」
オカンにそう尋ねている。
何をいまさら……。
オカンは笑顔で答えた。
「お似合いや! この子には美咲はもったいないくらいやわ!」
それを聞いた美咲は、嬉しそうにしていた。
(あの……腕、離してくれませんかね……。コーヒー飲みにくいんですが……)
そう思ったものの、口には出さなかった。言えば、また何か返されるに決まっている。
田島家は普通の家族とは違い、誰かが余計なことを言うと、全員から総攻撃を食らうシステムになっている。誰もフォローには入らない。
そして美咲も、もうすっかりそのシステムに染まっていた。
オカンが、僕と美咲を交互に見ながら尋ねた。
「で、あんたら最近はどうなん? うまいことやってんの?」
すると美咲は、何のためらいもなく答えた。
「がんばってます! 子作り!(笑)」
さすがのオカンも、これには驚いたようだった。
「あんたら……そんなこと考えてんのかいな……」
「うん! だって、そうじゃないとダーと結婚できへんから!」
美咲は力強く言い切った。
その会話に反応したのか、親父も後ろから声をかけてきた。
「お前ら……本気か……」
そして、「はぁ〜」と感心したような声を上げた。
すると美咲は、オカンに自慢げに話し始めた。
「ダー、この前、家来てくれて、お母さんと対決してくれたんで」
僕は横から口を挟んだ。
「お前、さっきから何ちゅうこと言ってるねん! もうこの話は終わりや!」
そう言おうとした、そのときだった。
オカンから、意外な言葉が飛び出した。
「知ってる」
僕は思わずオカンの顔を見た。
あの30万のスーツをびしょびしょにして帰ってきた日……。オカンは、やっぱり何かに気づいていたんや……。
オカンは続けた。
「あの日、実は……」
そこまで言ったところで、親父が割って入った。
「余計なこと言わんでいいんや!」
オカンを一喝した親父。
しかし、オカンは引かなかった。
「いや……この子らには言っておいた方がいいねん……」
親父の制止を振り切り、オカンは話し始めた。
「実はあの日、美咲のお母さんから電話があったんよ……」
僕と美咲は顔を見合わせた。
驚きを隠せなかった。
オカンは、あの日のことを話し始めた。
「美咲のお母さん、わたしに事情を説明してくれてな。
『お母様の大事な武人様に、あのような姿で帰らせることになり、大変申し訳ございませんでした』
って、謝られたわ。
それから、
『武人さんのお気持ち、十分伝わりました。とても素晴らしいご子息をお持ちで、お母さんもお鼻が高いかと思います』
とも言ってくれた。
でもな、続けてこう言われたんよ。
『美咲はまだ結婚できるような子でもありませんし、とてもじゃないけど、ご立派な武人さんの元に、うちの世間知らずの娘を嫁にやることはできません。武人さんは、うちの子にはもったいない方です。お互いの将来のことを考えたら、絶対にその方があの子たちのためだと、私は思っております。
なので、結婚を許すことはできないんです。申し訳ございません。うちの娘にも、よく言って聞かせるつもりです。
武人さんにも、まだ今なら間に合います。お母さんの方から説得していただけないでしょうか?』
って、言われたわ」
僕も美咲も、息を呑んだ。
僕は思った。
やっぱり、あのときの「結婚」という言葉の選択ミス……。それが、すべてを招いてしまったんや。
あのとき、「お付き合いを許してください」と言っていれば、また別の方向へ進めたのかもしれなかった。
本当に僕はバカだ!!
美咲がおそるおそる尋ねた。
「お母さんは……なんて言ってくれたん?」
ここで言う「お母さん」は、オカンのことだ。
オカンは答えた。
「うちは、家族の問題より先に、本人同士の問題でもありますので、私は本人たちの意見を尊重しようと思っています、って答えた」
それを聞いた美咲は、勢いよく立ち上がった。
「そうよ! 私たちの問題やねんから、わたしはお母さんなんかに決めさせへん!」
美咲は、はっきりと言い放った。
僕は、とりあえず美咲の言葉は聞き流し、オカンに向き直った。
「俺……あのとき、ミスってもうて……。焦ってたから、ホンマは『付き合うのを許してくれ!』って言うつもりやったんやけど……『結婚』って言うてもうて……」
オカンは、あきれたようにため息をついた。
「あんたは……物には順序があるやろ! バカなこと言って! 初対面で『結婚させてください』って……もう……」
オカンは、もう呆れるしかないという様子だった。
そして僕は、悔しさでいっぱいになった。
そんな僕に、オカンが静かに言った。
「でも……わたしは、美咲にお嫁さんに来てほしいわ……。
もう、これだけ一緒におって、旅行も一緒に行って……。もう、あたし……美咲のこと、娘やと思ってるもん」
美咲も、涙を浮かべながら答えた。
「私も、もうお母さんやと思っておるし、田島家のみんなが好きやし……」
二人は、とうとう泣き出してしまった。
けれど、僕はなぜか冷静だった。
美咲も、もうすぐ28歳。いつまでも中途半端な状態ではいられない。
いよいよ、決断する時が来たのだ。
思い切って、どちらかに足を踏み入れなければならない。そうしなければ、美咲のお母さんが言うように、美咲のためにもならないのではないか。
そんな思いが、僕の中で少しずつ大きくなっていた。
その日の帰り道、車内の空気は重く沈んでいた。
僕はハンドルを握りながら、意を決して美咲に問いかけた。
「この先、どうしたい?」
美咲は迷わなかった。
まっすぐ前を見つめたまま、きっぱりと言い放った。
「結婚したい。てか、する!」
僕は視線を前方に向けたまま、静かに言葉を続けた。
「いや……現実的な話……。実際、子供もできへんし……。美咲も、もう28やし」
一度、言葉を切ってから、さらに続けた。
「俺は、するんやったら今すぐじゃないと、現実的ではないと思う。子供を産む絶好のタイミングやし……」
そして、ずっと心に引っかかっていたことを口にした。
「お母さんの言う通り、美咲のことを思ったら、これでええんかな? って思って……」
その瞬間、美咲の感情に火がついた。
「なんなん、それ!? 私に子供ができへんから、あかんってこと!?」
さらに、怒りをぶつけるように続けた。
「私のこと思ったらって、なによ!?」
僕は、美咲を落ち着かせようとしながら、声を絞り出した。
「いや……だから、今こうやって勝手に子供を作ろうとして、本当に美咲は幸せになれるんやろうかって……。
お母さんの『あの子のためにも』っていう言葉が、どうしても引っかかって……。お母さんなりに、何か考えがあるんかな……って」
すると美咲は、さらに語気を強めた。
「そんなん、ただ適当に言ってるだけやん!」
「でも、うちはともかく、もし俺らができちゃった婚したら、美咲の家は親戚中がお金持ちやろ。恥をかいて、周りから白い目で見られるのは、お母さんとか美咲じゃないの?」
僕がそう問いかけると、美咲は急に言葉を失い、黙り込んだ。
僕は、そのまま言葉を重ねた。
「俺らは簡単に言ってるけど、普通じゃないと思う。こっちは普通の一般家庭、そっちは大地主の娘。この違い……社会的に見たら、かなりデカいよ。
できちゃった婚で結婚したとしても、その先、御堂家は親戚からどんな目で見られるん?」
そう尋ねると、美咲はうつむき、消え入りそうな小さな声で答えた。
「そんなん……どうでもいい……」
それきり、車内は重く切ない静寂に包まれた。
フロントガラスの向こうには、深夜の国道がどこまでも真っすぐ伸びていた。
街灯の黄色い光が等間隔で車内を照らしては、また暗闇へと過ぎ去っていく。街はすでにすっかり眠りについていた。時折すれ違うトラックのヘッドライトだけが、二人の強張った横顔を一瞬だけ白く浮かび上がらせる。
エアコンの送風音だけが虚しく響く狭い車内で、僕はハンドルを固く握りしめていた。
胸の中では、引き裂かれそうな葛藤が荒れ狂っていた。
誰よりも美咲を愛している。
自分の手で幸せにしたい。片時も離れたくない。
その気持ちに、嘘なんて一つもない。
だけど、あの土砂降りの日に浴びせられたお母さんの言葉や、オカンから聞いた電話の真実が、どうしても頭から離れなかった。
愛しているからこそ、自分のエゴや力任せな情熱だけで、彼女の人生や家族関係をめちゃくちゃにしてしまっていいのだろうか。
世間知らずで純粋すぎる美咲を、自分の都合に巻き込んで傷つけているのは、本当は僕なんじゃないのか。
そんな弱気な考えと、手放したくないという強烈な執着が、頭の中で激しくぶつかり合っていた。
一方、助手席の美咲は、膝の上で拳を強く握りしめ、溢れそうになる涙を必死でこらえるように、窓の外をじっと見つめていた。
美咲の心の中にも、激しい葛藤と恐怖が渦巻いていたのだろう。
大好きな僕と離れたくない。二人でずっと一緒にいたい。
そんな一途な想いがある。
だけど、一番頼りにしていた「子供」という突破口すら、簡単には手に入らない現実があった。
そして何より、いつも自分を守ろうとして、決して折れずにいてくれた僕が、今初めて、自分との間にある「現実の壁」に怯え、引こうとしていることへの怖さ。
「どうでもいい」と口では言ったものの、大好きな僕が、自分の家の境遇や親戚の目、親からの重圧に押し潰されそうになっている姿を見るのは、胸が張り裂けそうになるほど辛かったのだろう……。
僕には、そう感じられた。
寒々とした夜の街を滑るように走る車の中で、僕たちは互いを何よりも強く想い合っていた。
それなのに、あまりにも大きすぎる現実に挟まれた二人の心は、すれ違いと切なさによって、ただただ冷たく冷えていくばかりだった。




