第48章 対決と現実
出版社に勤めていた頃、親父から「一着くらいはフルオーダーのいいスーツを持っとけ」と言われたことがあった。
そのとき、美咲と一緒にデパートの紳士服売り場へ行き、生地からすべて自分で選んで、30万円のスーツを仕立ててもらった。
久しぶりに袖を通す、そのスーツ。
普段、仕事で着ているのは安物のスーツばかりだった。教習の仕事では、車に座りっぱなしになる。高いスーツを着ても、すぐにしわくちゃになってしまうからだ。
しかし、今日は違う。
僕はその30万円のスーツに身を包み、ネクタイを締め、家を出ようとしていた。
そのとき、玄関で後ろから次男の声が飛んできた。
「ケリつけるまで帰ってくんなよ!」
僕は振り返りもせずに答えた。
「当たり前じゃ!」
そう言って玄関を出ると、車に乗り込んだ。
時刻は土曜日の13時。
僕は美咲の自宅へと向かっていた。
この時間なら、御堂家の家族全員がそろっている。そのことは、美咲に確認済みだった。
ただし、今日、僕が家に行くことは美咲にも伝えていない。
そう!
これは僕の戦いだ。
今日、僕が会いに行くのは美咲ではない。
美咲のお母さんだ!
僕は公園に車を止め、美咲の家へとゆっくり歩き始めた。一歩一歩、地面を踏みしめるように。
相変わらず、立派な門構えだ。
僕はインターホンを押した。
「は〜い」
返事をしたのは、なんと美咲だった。
まさか本人が出るとは思っていなかった。
「みさき? 俺!」
美咲も驚いたらしく、
「ちょっと待ってて!」
と言った。
すぐに玄関の扉が開き、美咲が出てきた。
僕の姿を見た美咲は、目を丸くした。
「どうしたん!! そんなカッコで!」
僕ははっきりと告げた。
「今日、お前に会いに来たんやない。お母さんに会いに来たんや!」
美咲は驚いた様子だったが、すぐにいつもの調子に戻った。
「まぁ……中入って〜」
そう言って、僕を玄関へと案内した。
玄関は、思っていたとおり広かった。
まっすぐに伸びる廊下があり、左側にも廊下が続いている。
決して派手な造りではない。
しかし、見れば分かる、この重厚感。
金持ちの家って感じだ。
すると美咲が、僕のスーツ姿を見て言った。
「やっぱそのスーツ似合ってる!」
そう言って、僕に抱きついてきた。
そのときだった。
横の廊下から、お母さんが姿を現した。
ついに来た!
直接対決のときだ。
今まで僕は、キックボクシングや柔道で、あらゆる猛者たちと対決してきた。CQCでは、特殊部隊を相手に戦ってきた僕だ。
だが、そんなものとは比べものにならなかった……。
お母さんを目の前にした瞬間、今まで一度も感じたことのないオーラが、その全身からにじみ出ていた。
僕は抱きついている美咲をそっと振り払い、お母さんに向き直った。
「初めまして。田島武人です。突然の訪問、失礼いたします。今日はどうしても私の気持ちを伝えたく、お母さんとお話がしたく、失礼ながらも参りました」
そう言って頭を下げた。
美咲も僕の隣に並び、一緒に頭を下げた。
しかし、お母さんは何も言わなかった。
美咲が、
「とりあえず上がって〜」
と言いながら、お母さんの反応などお構いなしに僕の腕をつかみ、家に上げようとした。
その瞬間だった。
「上げるわけにはいきません!」
お母さんが美咲を制止した。
「なんでよ! 私のお客さんやねんから!」
美咲が反論すると、お母さんは僕に向かって言った。
「今日は美咲に会いに来たんじゃないでしょ、あなた。私と話しに来たんでしょ?」
僕は迷わず答えた。
「はい! お母さんと話をしに来ました!」
「じゃあ、上げるわけにはいきません」
間髪入れず、お母さんは続けた。
「電話でも何度も伝えたはずです。あなたの話を聞く時間もないし、私もあなたと話す気もありませんので、お引き取りください!」
そして、美咲に向かって言い放った。
「部屋に戻りなさい!」
お母さんは僕を強引に押し、玄関から締め出した。
カチャッ。
鍵の閉まる音がした。
扉の向こうでは、美咲とお母さんが何やら揉めているようだった。
僕は呆然と玄関前に立ち尽くした。
動けなかった。
やがて中の騒ぎも収まったのか、家の中は静かになった。
……このままでは帰れない。
まだ、何も伝えられていない。
僕はその場から動かなかった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
ふと空を見上げると、顔に冷たいしずくがぽつぽつと落ちてきた。
……最悪。
雨が降ってきた。
それでも、このままでは帰れない。
かといって、もう一度インターホンを押す気にもなれなかった。
雨は次第に激しさを増し、ついには雷まで鳴り始めた。
11月のこの時期だ。雨に打たれ続けるには、かなり厳しい気温だった。
しかし、こんなものは何でもない!
CQCでも、キックボクシングでも、もっと過酷な練習を積んできた。
こんな寒さと雨ごときに負けてたまるか!
僕はその場から一歩も動かず、立ち続けた。
玄関の扉が開くまでは、絶対に動かない!
あたりは、どんどん暗くなっていった。
携帯の画面で時間を確認すると、すでに19時を回っていた。
雨はやむ気配すらない。
スーツはもちろん、パンツまで、靴の中までびしょびしょだった。
美咲と一緒に行った、いろいろな場所。
5回は行った沖縄旅行。
あの頃は何も考えず、ただ楽しかった日々。
スノボにも行った……。
……いや、今はスノボのことを考えるのはよそう。
なんせ今、凍えそうなんだから。
そのとき、携帯が鳴った。
美咲からだった。
僕は震える手で、何とか力を振り絞り、電話に出た。
「今日はごめん……。せっかく来てくれたのに、あんなことになって……」
美咲の寂しそうな声が聞こえてきた。
「うん! いいねん! 大丈夫!」
僕は空元気で答えた。
すると、美咲が尋ねてきた。
「今、外? どこ行ってんの?」
……何て言おう。
どう答えるべきか。
「今……は外かな……。てか、外にいる」
「ん? だから、どこ?」
美咲の口調が、少しずつきつくなってきた。
「だから外! みーの家の前!」
そう答えた瞬間、電話の向こうからガサガサという音が聞こえてきた。
「もしも〜し」
返事がない。
「もしも……」
もう一度呼びかけようとした、そのときだった。
玄関のドアが開いた!
そこに立っていたのは、美咲だった。
美咲は僕の姿を見るなり、びっくりした顔で叫んだ。
「ダー、びしょびしょやん! あかん! 入って!」
「なんで? ずっとおったん?」
「なんでよ〜!」
美咲は慌てて僕を玄関に引っ張り込むと、大声で叫んだ。
「誰か〜! タオル持ってきて!!」
すると、お母さんとお父さんが走ってきた。
さすがのお母さんも、僕の姿には驚いたようだった。
お父さんにタオルを持ってくるよう指示し、美咲は僕を玄関に座らせると、上着を脱がせようとした。
お母さんは、その様子を呆然と見つめていた。
やがて、お父さんがタオルを数枚持って走ってきた。
それを見た美咲が、すかさず声を上げた。
「何? この小さいタオル! バスタオル持ってきて!」
お父さんは、またバスタオルを取りに戻っていった。
美咲は手元のタオルで、とりあえず僕の全身を拭き始めた。
そして、お母さんに向かって怒りを爆発させた。
「お母さんのせいやからな! これで肺炎にでもなったら、どうすんのよ!!」
お母さんは、ただ呆然と見ているだけだった。
そこへ、お父さんがバスタオルを持って戻ってきた。
美咲はそれをひったくるように受け取ると、僕にかぶせ、ワイシャツを脱がせようとした。
僕は、その美咲の手を強く握り、制止した。
そして立ち上がると、お母さんの目をまっすぐに見つめた。
「俺は、こんなことをするために来たんじゃないんです。お母さんに話があって来たんです」
一度言葉を切り、僕は続けた。
「お母さんは、私のことを気に入らないかもしれません。でも、私は美咲さんのことを愛しています。一緒になりたい! 結婚したいんです!」
自分でも、何を言っているのか分からなくなっていた・・・。
それでも、もう止まらなかった。
「美咲さんがいないと、俺はもう生きていけないんです!」
そして、最後に一気に言い放った。
「この先、何があっても美咲さんを守り抜きます! 幸せにしますから……だから、結婚させてください!」
……結婚まで言ってしまった。言葉を間違えてしまった・・。結婚ではなく「お付き合い」だった・・。
一瞬、静寂が走った。
美咲は驚きを隠せない顔で僕を見つめていた。
お父さんは口を開けたまま、ポカーンとしている。
お母さんは一歩、僕の方へ踏み出した。
「あなたの言いたいことも、あなたのお人柄もわかりました」
その言葉遣いは、それまでの高圧的なものとは違っていた。
少しだけ、優しくなっていた。
「あなたがどれだけ娘のことを思っているかも、十分わかりました……」
一瞬、希望が見えた気がした。
しかし、お母さんは続けた。
「でも……まだこの子には、嫁に行く準備もできていないし、家事なんてさっぱりできない。こんな子、嫁に出したくても出せないんです」
そして、僕を見据えて言った。
「武人さん、あなただからこそ言ってるんです。あなたにこの子はつりあわないんです。私から見ても、武人さんはきっちりとした社会人。この子は世間知らず。だから、まだ嫁に行かせるときでもないんです」
さらに、お母さんは言葉を重ねた。
「だから、この子はお見合いで、この子に合った人を探さないと、この子のためにならないんです。なので……あきらめてください」
……絶望的な返答だった。
「私、頑張るもん! 家事かって、掃除やって! やるもん!」
美咲が大きな声で叫んだ。
しかし、お母さんはその言葉を無視した。
「どうぞ、中に入って服を乾かしていってください」
そう言ってくれたものの、僕にはそんな気になれなかった。
そんなことをしに来たんじゃない……。
僕は首を横に振った。
「大丈夫です。こんなに濡れたまま上がるわけにはいかないので……。とりあえず、これ以上ご迷惑をかけられないので、今日のところはこれで失礼します」
引き止めようとする美咲とお母さんを振り切り、僕は御堂家を後にした。
僕はとんでもない言葉の選択ミスをした・・。馬鹿だ・・いつも肝心な時に・・。
外は相変わらず土砂降りだった。
……でも、もうそんなこと、今の僕には関係ない。
御堂家から少し離れた路地で、僕は立ち止まった。
そして夜空を見上げ、両手を広げ、全身で雨を受け止めた。
もう、どうにかなりそうだった。
そして、僕は膝から崩れ落ちた。
「ダー!」
声が聞こえた。
最初は雨の音にかき消され、よく聞こえなかった。
しかし、その声はだんだん大きくなっていった。
膝立ちになっている僕の頭上に、傘が差し出された。
美咲だった。
「ダー、何してんのよ!! 風邪ひくから戻ってきて!!」
大雨の中、美咲が大声で叫んでいた。
それでも、雨の音にかき消されていく。
僕はゆっくりと立ち上がり、大声で叫んだ。
「あ〜〜!肝心な時にまたミスった~~!」
そう叫ぶと、僕はそのまま車へと向かった。
美咲は傘を持ったまま、その場に立ち尽くしていた。
「ダー!」
後ろから、美咲の声が聞こえる。
「私、あきらめへんから! 今日ダーが言ってくれたこと、無駄にはせえへんから!!」
歩き続ける僕の背中に、美咲のかすかな叫び声が届いた。
雨の音でよく聞こえなかった。
それでも、確かにそう言ったように聞こえた。
僕はびしょびしょのまま車に乗り込み、アクセルを踏んだ。
車を走らせた。
家に着くまでの記憶は、ほとんどなかった。
びしょびしょになって帰ってきた僕を、まるで待っていたかのように、オカンが迎えた。
「お風呂沸いてるから、はよ入っといで」
何かを察したのだろうか……。
オカンは、まるで僕がこうして帰ってくることを分かっていたかのように言った。
僕はそのまま風呂に入り、上がるとすぐに自室にこもった。
……僕、今日は何しに行ったんや……。
そう考えていたとき、携帯が鳴った。
美咲からだった。
でも、出る気になれなかった。
僕のミスだ・・。
情けない……。
涙しか出てこなかった。
僕にはもう、どうすることもできない。
ただ携帯電話の画面を見つめながら、涙を流すことしかできなかった。
美咲と付き合い始めて、これが二回目の、電話をしない夜となった。
翌朝、雨はすっかり上がっていた。
時計を見ると、針は11時を指していた。
昨日は、なかなか寝つけなかった……。
そっか……夢じゃなかったんだな……。
ぼんやりと考えていると、マナーモードにしていた携帯電話がブブブと震えた。
美咲からだった。
僕は電話に出なかった。
……いや、出られなかった。
しばらく光る画面を見つめていると、やがて電話は切れた。
フゥー……。
深いため息をついた僕は、顔を洗い、歯を磨くために一階へと降りた。
なんだか頭が重くて痛い。
昨日の大雨のせいか?
いや、僕の体がそんなにやわなわけがない。
そう自分に言い聞かせ、再び二階の自室へ上がろうとした、そのときだった。
オカンが声を張り上げた。
「電話! 美咲ちゃんから電話かかってるで! 上で取り!」
二階の僕の部屋にも、子機がある。
美咲のやつ、携帯を無視されたから家に電話してきたな……。
そら、そうなるわな……。
そう思いながら部屋に入り、保留になっている子機の通話ボタンを押して耳に当てた。
開口一番、美咲の怒鳴り声が飛び込んできた。
「なんで電話出んのよー!! 何考えてんの!?」
怒りというより、もう半ば叫び声だった。
「ごめん……なんか……電話、出る気がせんかった」
「なんでなん!? なんで!?」
食い気味に聞き返してくる美咲に、僕はぽつりと漏らした。
「いや……あれだけはっきり言われて……俺、何も反論できんくて……情けなくて……」
すると美咲は、思いもよらない言葉を返してきた。
「何が情けないんよ! 全然ひるまずに、はっきり言うてくれたやん!」
だが、どれだけ慰められたところで、結果が変わるわけではない。
「でも、結局は何も変わらんかった……」
僕が落ち込んだ声で言うと、美咲は静かに答えた。
「でも、嬉しかった……」
嬉しかろうが、何だろうが、何も変わらなかったら同じだ。
そう思っていると、美咲が心配そうに尋ねてきた。
「そんなことより、体、大丈夫? 風邪ひいてない?」
「俺があの程度で風邪ひくわけないやろ! スコーピオンやぞ! なめんな!」
無理して強がる僕に、美咲は間髪入れずに乗っかってきた。
「じゃあ、今から会えるやろ? 12時に公園集合〜!」
僕が返事をする間もなく、一方的に電話が切れた。
12時って……あと30分くらいしかないやんけ!
焦った僕は、携帯で掛け直そうとした。
だが、画面を見た瞬間、息をのんだ。
不在着信、21件。
すべて美咲からだった。
一時間に一回はかけてきている計算になる。
あいつ……寝てないんちゃうんか?
そう思うと、追い打ちをかけるように電話するのもやめた。
僕は急いで身支度を始めた。
そして、12時ギリギリに、いつもの公園へ到着した。
美咲は、公園の横にある歩道のガードレールに腰を掛け、足をバタバタさせながら待っていた。
僕の車に気づくと、パッと顔を輝かせた。
そして助手席のドアを開け、乗り込んできた。
「優秀! 優秀!」
そこには、いつもどおりの美咲がいた。
ニッコリと笑顔を浮かべている。
「マジでなんなん!? 12時って! 30分もなかったで!」
僕が呆れ顔で文句を言うと、美咲はニヤニヤしながら言った。
「でも、来てくれたやん」
さらに、からかうような目つきで僕を見つめてきた。
「あたし……まだプロポーズされてないのに……お母さんに先に言ってほしくなかったな〜〜」
……痛いところを突かれてしまった。
僕は「お付き合いを許してください」と言うつもりだった。
それなのに、自分からハードルを上げて、あんなことになってしまった。
僕はバカだ……。
物には順序というものがある。
それなのに、いきなり「結婚」なんて……。
もう、本当に取り返しがつかない。
「あれは……つい……。もう俺、バカやった……。いきなり結婚って、そら……あかんよな……」
僕が頭を抱えると、美咲は不思議そうに尋ねてきた。
「え? 結婚したくなかったの?」
「いや、物には順序ってのがあって、ああいう場合は、まずはお付き合いを許してもらってから、お母さんとかと仲良くなって、それから結婚やから! 俺はそれを飛び越えて『結婚』って言ってしまったの!」
すると美咲は、どこか意地悪そうに、でも真剣な目で僕を見つめた。
「でも、『愛しています。一緒になりたい! 結婚したいんです! 美咲さんがいないと、俺はもうダメなんです!』ってのは? 嘘なん?」
意地悪で言っているのか、本当にそう思っているのか分からなくなってくる。
「だから、あれは……」
僕が言い終える前に、美咲が唐突にぶっこんできた。
「ホテル行こ! 今日、危険日や!」
……こいつ、まだ諦めてない!
そう思うと、胸の奥が熱くなった。
少しだけ、嬉しくなった。
「じゃあ……子作りへ行きますか!」
僕が言うと、美咲は即座に返してきた。
「なんか、その言い方嫌」
いつものお決まりのやり取り。
久しぶりに、心から笑えた気がした。
車を走らせると、昨夜の嵐が嘘のように、11月の青空が澄み渡っていた。
しかし、木々からはすっかり葉が落ち、街並みは寒々しくなっていた。フロントガラス越しに差し込む、どこか弱々しい秋から冬への陽射しが、確実に季節の深まりを告げている。
窓を少しだけ開けると、昨夜の雨を含んだひんやりと冷たい空気が車内に流れ込み、火照った頬を心地よく冷ましてくれた。
街ゆく人々は、みな厚手のコートやマフラーを身にまとい、身をすくめながら歩いていた。
助手席の美咲は、さっきまでの笑顔からふと静かになり、流れていく冬間近の街並みをじっと見つめていた。
その横顔には、昨日の出来事を引きずっているような影があった。
それでも、しっかりと前を見据える瞳には、強い意志が宿っていた。
冷たい風と澄んだ空気に包まれながら、僕たちは二人だけの未来を手繰り寄せるように、静かに車を滑らせていった。




