第47章 みーの部屋
そのうち数か月が経ったある日、美咲は仕事まで辞めさせられ、家から出してもらえなくなった。
そう来たか……。
僕はそう思いながら、美咲と電話をしていた。
「あかん……俺、みーに逢いたいわ……」
そう漏らすと、美咲はどこかずる賢そうな口調で言った。
「私も逢いたい。会いに来る?」
「どういうこと? 家、出られるの?」
「私は出ない。ダーがうちに来るの」
うちに行くって……。
何度か試したけど、インターホンの時点で門前払いを食らっている。どうやって入るねん……と思っていると、美咲がとんでもないことを言い出した。
「私の部屋って離れやん! だから、気づかれずに侵入できるよ!」
そっか!
美咲の部屋は、玄関やリビング、キッチン、応接間、お父さんとお母さんの部屋がある母屋とは別の建物、いわゆる「離れ」にあった。
同じ敷地内とはいえ、家自体が大きいので、確かに母屋からは離れている。ただし、その離れにはもう一つ部屋があり、そこにはお兄さんがいる。
「お兄ちゃん、横の部屋におるやん!」
「大丈夫! 絶対に私の部屋を覗いてこおへんから! お母さんも、まず来ることないし!」
なら、話は早い!
美咲の家のブロック塀さえ乗り越えれば、離れの入り口まで誰にも見られずにたどり着ける。
僕はすぐに身支度を整えた。
「今すぐ行く!」
そう美咲に伝え、車で美咲の家へと向かった。時計は19時30分を指していた。
公園の前に車を止め、美咲の家の玄関前までやって来た。
ここだ……。
今まで何度、門前払いを食らったことか……。
美咲の自宅は立派な門構えで、純和風の造りだった。以前、一度だけ家の周りをぐるりと回ったことがあるが、一周するだけで200メートルほどもあった。敷地全体が、ブロック塀で囲まれている。
僕は携帯電話で美咲に連絡した。
「家の前に着いたで」
すると、美咲から返事が返ってきた。
「今からブロック塀にタオルをぶら下げるから、そこから入ってきて!」
僕はしばらく待った。
人通りはまったくない。路地のような道で、辺りはひっそりと静まり返っていた。
しばらくすると、ブロック塀の上から赤いタオルがぶら下がった。
あそこだ!
僕は誰にも見られないように、2メートルほどあるブロック塀を一気に駆け上がり、塀の内側へと侵入した。
そして、身をかがめて様子をうかがっていると、
「こっちこっち!」
美咲が笑いながら手招きしている。
僕はそのまま低い姿勢を保ち、美咲のいる離れの部屋へと滑り込んだ。
美咲はクスクス笑いながら、
「おつかれさん!」
と言って、ポカリスエットをくれた。
僕はそれを飲みながら、思わず文句を言った。
「なにがおかしいねん! こっちゃあ必死やねんぞ! 見つかったら終わりやろ!」
すると美咲は、
「ごめんごめん……ダー見てたら、なんか動きが俊敏すぎて笑えた」
と言って、また笑い出した。
(こいつ……のうてんきやな……)
そう思いながら、僕は部屋の中を見渡した。
左側の壁沿いには大きなベッドが置かれていた。その上には、横須賀時代に僕が美咲のために作った飛行機が飾られている。
窓際には机があった。ただし、窓に向かってではなく、部屋の中央を向くように置かれている。
まるで社長室のデスクだ。無駄にデカい。
右側の壁沿いには洋服ダンスが並び、部屋の中央には小さくてかわいらしいテーブルと、大きなビーズクッション。その正面にはテレビが置かれていた。
僕はビーズクッションに崩れ落ちた。
「なんで机、こっち向きやねん。社長か!」
美咲はビーズクッションの横にあるベッドに腰掛けながら、
「この方がなんか落ち着くねんなぁ〜」
と言った。
そして、パンパンとベッドの横を叩いた。
「ここに来い」
そんな合図だった。
僕は美咲の隣に腰を下ろした。
さて……これからどうするべきか。そう考え、今後のことを話し合おうとした、その瞬間だった。
美咲が僕をベッドに押し倒した。
そして、ニヤッと笑いながら僕にまたがり、
「興奮するやろ?」
と聞いてきた。
一瞬、何が?? と思ったが、すぐに分かった。
美咲は白いタンクトップに黒いショートパンツという格好で、肌があらわになっていた。
しかし、ここは美咲の部屋だ。
もし、誰かが入ってきたら……。
ドアに鍵はない。昔ながらの造りなのか、引き戸になっていて、曇りガラスがはめ込まれている。
そんなことばかり考えている僕の気持ちなどお構いなしに、美咲は唇を重ねてきた。
今日は、なぜかいつもより強引だった。
そして、服を脱がされ、いつの間にか僕たちは一つになっていた。
しばらくして、美咲がからかうように言った。
「よかったやろ〜? 今日のは〜」
「よ、よかったよ」
そう答えると、美咲は思いっきり抱きついてきた。
このとき、二人とも裸だった。
(横にお兄ちゃんがおるのに……)
僕はずっと、そんなことを考えていた。
しかし、美咲はまったく気にしていない。
「愛してる!! ダー」
そう言って、僕の胸に顔を埋め、離れようとしなかった。
最近、なかなか会えなかったから、美咲も寂しかったんだろう。
そう思い、僕も彼女を抱きしめ返した。
そのあと、僕たちは布団にくるまりながら、これからのことを話し合った。
「俺は絶対にあきらめへんよ!」
「私も!」
美咲も力強く答えた。
「じゃあ、どうする?」
僕が尋ねると、美咲はニヤリと笑った。
「今から……ゴムなしで中で出しちゃおう」
つまり……できちゃった婚狙い?
僕はそう思った。
「いいの? できたらどうなるか……。家を放り出されるかもしれんで?」
「うん。放り出されてもダーがいるからいい」
その言葉を聞いた瞬間、美咲が愛おしくて仕方がなかった。
僕はもう一度、美咲を抱いた。
お兄ちゃんに声が聞こえてしまうんじゃないか……。
そんな心配をしながらも。
行為が終わると、美咲は自分のお腹をさすりながら、嬉しそうに微笑んだ。
「できたかなぁ〜。ダーと私の子」
「何発かやったらできるやろ?」
「その言い方、嫌」
いつものやり取りが始まり、二人で笑った。
その後、外出禁止も解けた。
それでも僕は、頻繁に美咲の部屋へと侵入し、二人きりの時間を楽しんだ。
そんなある日のことだった。
20時くらいだっただろうか。
美咲の部屋で、僕はパンツ姿。美咲は服を着始めていた。
そのとき、離れのドアがガラガラッと音を立てて開いた。
この離れにはメインのドアがあり、そこから入ると、美咲の部屋とお兄ちゃんの部屋に分かれている。
そのメインのドアが開いたのだ。
「美咲! いるの?」
聞いたことのない声だった。
おそらく、お兄ちゃんだ。
僕は一瞬、固まった。
しかし、美咲はいつもどおりの調子で答えた。
「おるよ〜。なに?」
「母さんが洗濯物を持ってくるって言ってるけど、取りに行ってあげな〜」
お兄ちゃんの声が聞こえてきた。
美咲は僕に「大丈夫、大丈夫!」と視線を送りながら、
「は〜い!」
と返事をした。
そのとき、向こうの方からお母さんの声が聞こえてきた。
美咲の表情が急に変わった。
「やば! 来る!」
そう言うと、机の後ろにある窓を開けた。
「とりあえず、ここから逃げて!」
僕はパンツ姿のまま窓から飛び出し、ブロック塀を乗り越えた。
パンツ一枚だ。
誰かに見られたら通報される。
そう思った瞬間、上空から僕のジーパンとシャツ、靴が降ってきた。
美咲が窓から投げてくれたのだ。
僕はその場ですぐに服を着て、車へと向かった。
すると、美咲から携帯電話が鳴った。
「もう大丈夫! 戻ってきて〜」
……のんきなやっちゃな。
仕方なく戻ると、美咲は声を殺しながら必死に笑っていた。
「なんやねん!」
僕が尋ねると、美咲は笑いをこらえながら言った。
「いやぁ……ダーが……裸で……異次元の速さで窓から飛び降りて、ブロック塀を乗り越える姿を見て……わらけてしまった……(笑)」
「こっちはめっちゃびびってんぞ! どうなるか思たわ! パンツ一枚やし……」
そう言うと、美咲はさらに笑った。
そのとき、また扉が開く音がした。
僕は身構えた。
しかし、美咲はまだ笑っていた。
「これは大丈夫。お兄ちゃんが出ていっただけ」
そして、また僕を見て、
「もう一回見たい! あの姿……ぶっ!」
と、笑いをこらえている。
「おまえ……もしかして、俺が毎回毎回ブロック塀を乗り越えて部屋に忍び込んで、帰りはまたブロック塀を乗り越えて帰っていく姿が見たくて、俺を呼んでるやろ!」
すると美咲は、笑いながらあっさり答えた。
「それもある!」
「おい!」
僕が突っ込むと、美咲は続けた。
「でも、ブロック塀を乗り越えて、わざわざ逢いに来てくれるのもめっちゃうれしい!」
最後の方は、ほとんど笑いながら言っていた。
そして最後に、美咲は「そういうのって……なんかすてきやん!」
島田紳助のような口調で言った。
……完全に僕で遊んでるな。
そう思いながらも、今日も種付けは終わったのだった。
美咲もまた働き始め、時は確実に進み始めていた。
いつものように仕事帰りに迎えに行くと、美咲はどこか元気がなさそうだった。
「どうした?」
そう尋ねると、美咲は不安そうに答えた。
「なんか……最近お腹が痛くて……子宮のあたりが……」
僕はとっさに聞いた。
「できた? もしかして、できた?」
思わず、少しテンションが上がってしまった。
美咲も、
「わからん……。生理も来おへんし……でも、なんかおかしいねん……」
と言った。
僕たちは、今週中にでも一度、一緒に産婦人科へ行こうと約束した。
その日はそのまま外で夕食を食べ、美咲を家まで送り届けた。
そして、病院へ行く日がやってきた。
僕は美咲を迎えに行き、産婦人科へ向かった。
その道中、美咲が不安そうにつぶやいた。
「子ども……できてなかったらどうしよ……」
僕は答えた。
「今は、子どものことより、みーの身体に何もないかが心配やわ」
あれから半年ほど、僕たちは避妊せずに愛し合っていた。
子どもができていても、おかしくはない。
心のどこかでは、妊娠していることを祈っている自分がいた。
子どもができたら、美咲のお母さんも絶対に黙ってはいない。
そこから、これからのことについて向き合って話すこともできるはずだ。
これは、そのきっかけになる!
そう自分に言い聞かせながら、僕たちは産婦人科に到着した。
一緒に診察室まで行くかどうか美咲に尋ねたが、
「一人で行くから、車で待ってて」
と言われたので、僕は車の中で待つことにした。
一時間くらい経っただろうか。
ようやく美咲が出てきて、助手席に乗り込んだ。
「どうやった? なんか問題あった?」
本当は「できた?」と聞きたかった。
けれど、まずは美咲の身体のことを優先して尋ねた。
すると、美咲は悲しそうな顔で話し始めた。
「なんか……子宮が普通の人より小さくて……なんか……妊娠しにくい身体らしい……」
僕は慌てて尋ねた。
「体調は? 大丈夫なん? なんか癌とか、そんなんじゃないの?」
「うん。そんなんじゃない……」
美咲はそう答えたあと、うつむいて言った。
「でも……子ども、できてなかった……。ごめん……ダー……」
「何言ってんねん! そんなん、いつかできるよ! みーの身体さえ大丈夫なら!」
僕は、できるだけ明るく振る舞った。
すると美咲は、
「ありがとう……」
と小さく答えた。
そして、悲しそうに続けた。
「でも……ダー……。子どもできへんかったら、私たち結婚できへんやん……」
「そんなん、すぐできるよ! ほら、女の人って安全日とか、そうじゃない日とかあるんやろ? その日を狙って頑張ろう!」
僕は明るく言い、さらに続けた。
「何か食べて帰るか!」
しかし、美咲は黙ったまま首を横に振った。
僕はそのまま、美咲を家まで送ることにした。
車窓の外に目をやると、いつの間にか街の空気はすっかり入れ替わっていた。
あんなに猛威を振るっていた夏の蒸し暑さは、どこへやら。
木々の葉は黄色や赤に染まり、やがて枝を離れて地面へと落ちていく。木枯らしがアスファルトを乾いた音を立てて吹き抜けていた。
夕暮れが訪れるのは日ごとに早くなり、17時を過ぎる頃には、街全体が冷たい群青色に包み込まれる。
季節は秋から、刺すような冷たさを孕んだ冬へと、刻一刻と移り変わろうとしていた。
開けた車窓から入り込む風が、今までになく冷たく肌を刺した。
助手席で小さくなり、じっと窓の外を見つめたまま、一言もしゃべらない美咲。
その横顔を見るたびに、胸が締め付けられるように痛んだ。
「子どもができなかったら結婚できない……」
美咲が絞り出すように放ったその言葉が、冷たい鉛のように僕の心にずっしりとのしかかっていた。
強がりを言って明るく励ましたものの、現実はあまりにも残酷だった。
半年間、二人の未来をこじ開ける唯一の希望だと言い聞かせ、すがるように注ぎ込んできた思いが、あっけなく打ち砕かれたのだ。
これから、どうすればいい?
お母さんには口もきいてもらえず、何度も門前払いを食らい続けてきた。
そして最後の手立てとして望みを託した「子ども」という奇跡さえ、簡単には手に入らないと突きつけられた。
車内を支配する重苦しい静寂。
タイヤが舗装路をすする無機質な音だけが、虚しく響き渡る。
街灯の光が次々とフロントガラスをかすめては、後ろへと流れ去っていく。
どこへ向かっているのかさえ分からなくなるような深い暗闇の中、僕は湧き上がる絶望感と、どうしようもない焦燥感を胸に押さえつけながら、ただ黙って、暗い夜の道路を走り続けるしかなかった。
今思えば、あの時、お母さんが美咲の部屋に来た時、堂々と部屋に居座ってたら、また何か変わった世界が出来ていたのかもしれない。




