第45章 二人の未来
威勢のいい板前たちの掛け声が飛び交い、香ばしい醤油の匂いと、炭火で焼かれる魚の香りが店内いっぱいに広がっていた。
ここは、以前、店長とねえやん、そして京子ちゃんと一緒に飲みに来たことのある、僕たちのお気に入りの海鮮居酒屋だ。
壁一面には黄色いお品書きの短冊が所狭しと貼られ、店の中央にある大きな生け簀では、魚たちが勢いよく跳ねている。あちこちから客たちの笑い声が聞こえ、ジョッキのぶつかり合う音が響く。そのすべてが、この店ならではの活気をつくり出していた。
今日は、久しぶりの大所帯での飲み会だった。
顔ぶれは、岡下、さくらちゃん、由奈ちゃん、僕、直樹、美咲。そして、なぜか直樹が「ヒマそうやったから」と勝手に誘った、ねえやん。
総勢7人。
ほかのメンバーは全員、直樹の車に乗り込み、一足先に店へ向かっていた。僕と美咲は用事を済ませてから、少し遅れて二人で合流することになっていた。
ガラガラッ!
勢いよく居酒屋の引き戸を開けると、奥の座敷から、すでに出来上がっている直樹たちのけたたましい笑い声が聞こえてきた。
僕と美咲が並んで座敷へ向かうと、真っ先に気づいた岡下が声を張り上げた。
「お! 遅いぞ〜! たけとー! 美咲ー! 主役の登場か!?」
すでに顔を真っ赤にした岡下が、ジョッキを片手に大きく手を振っている。
その隣では、さくらちゃんと由奈ちゃんが、嬉しそうに手招きしていた。
「みー! たけとくん! こっちこっち〜!」
二人は僕たちのために席を空けてくれた。
さらに、その奥には、煙草をくゆらせながらニヤニヤとこちらを見ている、ねえやんの姿があった。
僕たちが席に近づくと、ねえやんはフッと煙を吐き出しながら言った。
「なんや、あんたら二人、イチャイチャして遅くなったんちゃうか? さっさと座って飲みや!」
「なんでねえやんがおるんや! ていうか、直樹、お前、勝手に呼んだやろ!」
僕が呆れ笑いしながらツッコミを入れると、当の直樹は悪びれる様子もなく、ケラケラと笑った。
「ええやんか! メンバー多い方が絶対楽しいって!」
まったく、こいつは……。
美咲は「ねえやん、久しぶり〜!」と嬉しそうに手を振り、僕と並んで空いている席に腰を下ろした。
店員を呼び、僕は生ビール、美咲はウーロン茶を注文した。
全員のグラスが目の前に揃ったところで、直樹が力強くジョッキを突き上げた。
「それじゃあ! 久しぶりにこのメンバーが揃ったってことで……乾杯ーーっ!!」
「「「乾杯ーーーーっ!!」」」
ガチャンッ!
景気のいい音が座敷に響き渡り、賑やかな宴が幕を開けた。
最初のうちは、新鮮な刺身の盛り合わせや、炭火で香ばしく焼き上げられた魚をつまみながら、それぞれの近況報告や仕事の愚痴で盛り上がっていた。
「いや〜、でもほんま、こうやってみんなで集まって飲めるの、久しぶりやんな」
岡下がビールを飲み干しながら、しみじみと言った。
さくらちゃんと由奈ちゃんも、笑顔でうなずく。
「ほんとそれ! 女子会もいいけど、やっぱりこのメンバーが一番落ち着く!」
そんな話をしているうちに、酒が進み、話題はいつものように「暴露大会」へと移っていった。
その火種となったのは、やはり直樹だった。
「そういえばさ、この間……」
直樹はニヤニヤしながら、最近の僕のドジや、美咲の相変わらずの天然エピソードを、面白おかしく語り始めた。
すると、座敷のあちこちから笑い声が上がった。
「マジで!? みー、それアホやん!」
「ちょっと直樹くん! 余計なこと言わんといてよ〜!」
美咲は頬を膨らませて抗議した。
すると、隣に座っていたねえやんが、美咲の肩をバシッと叩いた。
「ええやんか。みーはそのままで十分おもろいねんから! ほら、もっと食べや」
そう言って、美咲の皿に刺身を山盛りにしてやる。
ねえやんの姉御肌で面倒見のいい振る舞いに、美咲はすっかり嬉しそうな顔になった。
「ねえやん、ありがとう……!」
すっかり懐いている。
僕は目の前の冷えたビールを喉に流し込みながら、ふと周囲を見渡した。
仕事のことでいろいろあり、自分がこれから進むべき道に迷ったり、気持ちが晴れずにモヤモヤしたりしていた時期もあった。
けれど、こうして気の置けない仲間たちがバカ騒ぎしている姿を見ていると、胸の奥にたまっていた澱のようなものが、スーッと消えていくのを感じた。
岡下の相変わらず豪快な笑い声。
楽しそうにキャッキャと盛り上がるさくらちゃんと由奈ちゃん。
調子よく周りをいじる直樹と、それに豪快なツッコミを入れるねえやん。
そして、隣で「これ美味しいよ、ダーも食べる?」と、僕の皿に料理を取り分けてくれる、愛おしい美咲の笑顔。
――最高の時間だ。
心の底から、そう思った。
6年の歳月が流れ、お互いに少しずつ大人になった。環境も変わった。
それでも、僕たちの根っこにある、この居心地のいい空気感だけは、あの頃のまま何も変わっていなかった。
「なぁ、ダー?」
ふと隣から、美咲が声をかけてきた。
トロンとした甘い目で、僕を見つめている。
「ん?」
「……なんでもない。ただ、楽しいなって思って」
そう言って、美咲は照れくさそうにはにかんだ。
その横顔を見ていると、胸がどうしようもなく熱くなった。
そんな僕たちの様子を見ていた向かい側のねえやんが、突然、口を開いた。
「あんたら、いつ結婚すんの?」
でっかい胸を揺らしながら、あっけらかんと聞いてくる。
……一回でええから、揉ましてほしい……。
そんなバカなことを考えていた、その瞬間だった。
ペシッ!
頭を思いきり叩かれた。
「わたしのちち、ガン見すんな!」
一瞬で見抜かれたらしい。
隣の美咲は、露骨に嫌そうな顔をした。
「最悪! 最低!」
そして、僕からすっと距離を取った。
「いや! エロい意味じゃなく……見てみ! あんなちちデカいねんで!? 触りたくもなるやろ、男やったら! なあ、岡下!」
僕は、以前、罰ゲームでねえやんの胸を揉み、グーパンチで本気でぶん殴られた実績のある岡下に話を振った。
すると岡下は、遠い目をしながらつぶやいた。
「確かに、感触は抜群やった……」
その言葉を聞いたねえやんは、なぜか得意げに胸を張った。
「当たり前やろ! わたしのちちは完璧やねん!」
……そこは自慢するんや・・。
しかし、ねえやんの話はそこで終わらなかった。
「で?」
ニヤニヤしていた表情が一転し、少し真剣な顔つきになる。
「あんたら、これからどうすんの?」
僕は、真っ直ぐねえやんの目を見て答えた。
「どうするも……結婚したいよ! そりゃ!」
迷いなく、はっきりと言い切った。
すると、テーブルを囲んでいた全員が、一斉に声を上げた。
「ひゅーひゅーーーー!!」
直樹も、さくらちゃんも、由奈ちゃんも大笑いしている。
隣の美咲は恥ずかしそうにしていたが、その顔には、本当に嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
ねえやんはジョッキを置き、大きな声で言った。
「じゃあ、はよしいや! じゃないと、ほかの男にみー取られるで!」
そう言って、ガハハと豪快に笑う。
そして、とどめを刺すように、もう一度美咲に問いかけた。
「みーは? こいつと結婚したいん?」
美咲は、間髪入れずに答えた。
「したい!! したいけど……」
「いろいろあるねん!」
僕は慌てて口を挟んだ。
「ねえやんには分からん事情が!」
ねえやんは不思議そうに、僕と美咲の顔を交互に見つめた。
「事情て何なん?」
座敷の空気が、ほんの少し変わった。
それまでの賑やかな笑い声が遠のき、美咲が口を開くのを、みんなが待っていた。
やがて、沈黙を破ったのは美咲だった。
「じつは……」
美咲は、これまで二人の間に立ちはだかってきた事情を、包み隠さず話し始めた。
家柄のこと。
親のこと。
どれだけ二人が結婚を望んでも、認めてもらえないという厳しい現実。
僕たちの気持ちだけでは、どうにもならない壁があること。
美咲は、そのすべてを、その場にいる仲間たちに打ち明けた。
話を聞き終えた瞬間、あれほど騒がしかった座敷から、音が消えた。
全員が言葉を失い、重苦しい静寂が漂う。
最初に口を開いたのは、岡下だった。
「実らぬ恋……ってことか……」
しみじみと、そうつぶやいた。
その瞬間!
バシッ!!
ねえやんの手から放たれた濡れた台拭きが、きれいな回転を描きながら飛んでいき、岡下の顔面に直撃した。
「いってぇ!!」
「余計なこと言うな、アホ!」
岡下は鼻を押さえ、そのまま黙り込んだ。
ねえやんは腕を組み、深いため息をついてから口を開いた。
「それは……かなり高いハードルやな……」
少し考えるように間を置き、続けた。
「でもな、今の時代、どうにでもなる! お見合いの前に、子供先に作ったったらええねん! そしたら親かて反対できんわ!」
ねえやんらしい、あまりにも豪快な提案だった。
だが、すぐに付け加えた。
「でも、本当にお互いに覚悟があるんやったら、やけどな。駆け落ちなんかするよりはマシやと思うで?」
僕は首を横に振った。
「できちゃった婚って……なんか、美咲が可哀想な気がして……。無理やり親に納得させて、結婚に持っていくっていうのも、なんか違うような気がするねん」
結婚したい。
その気持ちに嘘はない。
けれど、だからといって、美咲に無理をさせてまで結婚を実現したいわけではなかった。
親を説得することから逃げて、別の方法で無理やり認めさせる。
それは、本当に僕たちが望んでいる結婚なのだろうか。
すると、隣で美咲が静かに口を開いた。
「私も……それは一回考えた。できちゃった婚が一番早いんかなって……。でも、やっぱりちゃんと親に認めてほしいっていうのが先に出てきて……」
美咲は、まっすぐ僕を見つめた。
それから、ねえやんたちに向かって、少し潤んだ目で笑ってみせた。
その笑顔を見て、僕は改めて思った。
やっぱり、僕たちが望んでいるのは、ただ結婚することだけじゃない。
二人で胸を張って、祝福されながら一緒になりたい。
そのためには、乗り越えなければならない壁がある。
決して簡単なことではない。
それでも、仲間たちの前で「結婚したい」と口にし、お互いの気持ちを確かめ合えたことで、胸の奥には、温かく、力強い決意が芽生え始めていた。
すると、ねえやんは豪快に笑い、グラスを大きく傾けた。
「じゃあ、もう決まってるやん! 二人で頑張って説得するしかないやん!」
その言葉は、それまで少し重たくなっていた座敷の空気を、一気に吹き飛ばすような力強さを持っていた。
悩んでいても仕方がない。
結局のところ、僕たちが進むべき道は一つなのだ。
隣で直樹が、ニカッと笑って言った。
「そうや! タケト一人やないねんから、俺らも手伝えることあったら、なんでも言ってくれ!」
さくらちゃんと由奈ちゃんも、力強くうなずいた。
「そうやで! 私らやって、いつでも味方やからね!」
岡下も、ここぞとばかりに胸を張った。
「ま、いざとなれば俺が……」
そこまで言いかけたところで、ねえやんの鋭い視線が飛んできた。
「……いや、何でもない!」
岡下は、即座に発言を撤回した。
その情けない姿に、みんなが笑い出した。
仲間たちの温かい援護射撃に、胸の奥がカッと熱くなった。
僕は隣を向いた。
美咲は、潤んだ大きな目をぱちくりさせながら、じっと僕の顔を見つめていた。
そして、ふっと柔らかく、これ以上ないほど愛おしい笑みを浮かべた。
「……うん。頑張る」
その一言を聞いた瞬間、僕の中でくすぶっていた不安や迷いのようなものが、スーッと消えていくのを感じた。
逃げたりしない。
正面からぶつかって、親たちを、そして美咲の家族を納得させてやる。
簡単な道のりではないかもしれない。
何度も壁にぶつかるかもしれないし、思いどおりにいかないことだってあるだろう。
それでも、この最高の仲間たちがいる。
そして、隣には、こんなにも一途に僕を信じてくれる美咲がいる。
だったら、どんな壁だって二人で乗り越えてみせる。
僕は目の前のビールグラスをしっかりと握り締め、全員に向かって声を張り上げた。
「おう! やってやろうやんけ! たかが説得や! 俺が探偵で養ったこの話術、見事に納得させてやろうじゃないのよさ!!」
「「おーーっ!!」」
全員の声が、座敷いっぱいに響き渡った。
その一声を合図に、店内の熱気は再び最高潮へと跳ね上がった。
笑い声が飛び交い、ジョッキがぶつかり合う。
宴は夜遅くまで続いた。
親との間に立ちはだかる壁が、消えたわけではない。
結婚への道筋が、はっきりと見えたわけでもない。
それでも、あの夜、僕たちは確かに一歩前へ進んだ。
未来への新たな決意と、決して揺るがない仲間たちとの絆。
その二つを胸に刻んだ、最高の夜だった。




