第44章 夏の終わり
8月も終わりに近づき、僕の大好きな夏が終わろうとしていた。
しょうが青森に帰ってから、もう1か月が過ぎようとしていた。
しょうは帰り際、「スコーピオンは永遠に不滅です!」と、まるで「巨人軍は永遠に不滅です」と言わんばかりの口調で言い残していった。直樹も、どこか寂しそうな顔で見送っていた。
僕はふと、あることを思い出した。
……あっ。金、返してもらってなかった。
結局、あいつは何しに来たんや……。
とはいえ、めちゃくちゃ楽しんでくれたのだから、それでよかったのかもしれない。
元気で頑張れよ!
僕は心の中で、そうつぶやいた。
後になって美咲から聞いた話だが、実はしょうは、僕と直樹がコンビニに寄った際、美咲に15万円を渡していたらしい。
僕は感動した。
あいつ……。泣けてくるぜ……。
そう思ったのも束の間、美咲はさらに続けた。
しょうくんから、連絡先も渡されたのだという。
美咲も連絡先を聞かれたらしいが、そこはきっぱり断ったそうだ。
あのクソガキ!!
人の女に連絡先を渡すとは、舐めくさりやがって!
さっきまで胸の奥を満たしていた感動は、一瞬にして怒りへと変わった。
そんなことがあったのを知る由もない美咲は、助手席で突然叫んだ。
「海行きた〜い!」
その声につられて、美咲の膝の上に座っていたかりんも叫ぶ。
「うみいきたーい!」
今日は実家近くのショッピングセンターへ行き、夕食も済ませた帰りだった。時刻はすでに20時を過ぎている。
「今から?」
僕が聞き返すと、美咲とかりんは顔を見合わせた。そして、まるで示し合わせたかのように、同時にツッコミを入れた。
「「なんで今からやねん!」」
息ぴったりやないか。
なお、当時は子どもが車に乗る際の安全意識も、今ほど徹底されていなかった。かりんは車に乗るとき、いつも美咲の膝の上に座るのが当たり前になっていた。現在では、法律や安全面から見ても、決して真似してはいけない乗り方だ。
そんな話をしながら、かりんを兄貴の家まで送り届け、僕たちは美咲の家へ向かった。
いつも通る道だった。
途中、僕の出身中学校の横を通り過ぎる。広い運動場の隅にはプールがあった。どこにでもある、ごく普通の中学校だ。
そのプールを眺めた瞬間、ふと思いついた。
「みー!」
ひらめいた僕は、美咲に声をかけた。
「みー、海行きたいの? 海で泳ぎたいの?」
「ん?」
美咲は不思議そうに僕を見た。
「海というか……泳ぎたい? 泳がれへんけど……浮かびたい? みたいな……」
どこか恥ずかしそうに答える。
なるほど。泳ぎたいというより、水に浮かんでのんびりしたいらしい。
「いいとこ、みっけた!」
僕は思わず声を弾ませた。
「浮かぶだけなら十分なとこや。一生の思い出になるかもしれん……。でも……リスクはある」
「なになに?」
美咲は興味津々で身を乗り出してきた。
僕は、ニヤリと笑って一言だけ告げた。
「闇プ〜」
「なにそれ?」
美咲が前のめりになる。
「中学校のプールに、夜中に忍び込んで泳ぐねん!」
僕が得意げに言うと、美咲は目を丸くした。
「マジで!? 大丈夫なん? 見つかったらどうすんの?」
「見つかったら……逃げる!」
僕は胸を張って答えた。
美咲はしばらく考えていたが、やがて口元を緩めた。
「面白いかも……。スリルあるし……」
どうやら、乗り気になったらしい。
やはり、こいつもバカだ。
普通の真人間なら、そもそもこんなことを思いつかないだろう。
しかし、残念ながら僕は真人間ではない。
やると決まれば、話は早かった。
この計画で最も重要なのは、人選だ。何かあったときに逃げ切れるだけの俊敏さがなければ、このミッションは達成できない。
美咲は……この際、仕方がない。
僕には自信がある。直樹も大丈夫だろう。
あと一人。せっかくなら女の子を、ということで、美咲が選んだのは中学時代の同級生、みやだった。
みやは少林寺拳法の有段者で、型の部では全国大会の優勝経験もある。身長は150センチほどと小柄で、かわいらしい女の子だった。
こうして、僕、美咲、直樹、みやの4人で、今週末の深夜0時に決行することが決まった。
決行当日。
22時頃から、直樹、美咲、みやの順番で車で迎えに行った。
みやとは初対面だったので、車内ではひとまず簡単な自己紹介を済ませる。その後、近くのファミレスへ入り、作戦会議を開いた。
もちろん、打ち合わせは綿密に行った。
みやが持ってきた大学ノートに、僕は学校の見取り図を簡単に描いた。
この学校には、正門と西門がある。
西門はプールから遠すぎるため、最初から候補から外した。
問題は正門だ。
正門を入ってすぐ左側には、職員室などがある校舎が建っている。警備員がいるとすれば、おそらくこの棟だろう。
一方、正門の右側には体育館があり、その横にプールがある。正門からプールまでは、およそ70メートル。
もう一つの侵入経路は、道路側からだった。
プールは道路に沿って造られている。ただし、道路との間には高さ2メートルほどの網のフェンスがある。
これを越えられれば、正門から入るより圧倒的に早い。
ただし、時間帯によっては車が通る。道路を横切る姿を見られる可能性は十分にあった。
それでも、美咲を連れて正門から70メートルも走るよりは、フェンスを越えたほうがいいのではないか。
問題は、美咲が登れるかどうかだった。
警備員に見つからないよう、正門からプールまで一気にダッシュするか。
それとも、道路側のフェンスを乗り越え、そのままプールサイドへ降りるか。
どちらにしても、簡単な計画ではない。
すると、みやが口を開いた。
「やっぱりフェンスやろ?」
直樹と僕に問いかける。
僕と直樹は顔を見合わせ、うなずいた。
美咲は、なぜかニコニコしている。
「みー! 大丈夫か? 登れるか? 時間との勝負やぞ!」
僕が念を押すと、美咲はまるで他人事のように答えた。
「なんとかなるやろ?」
……こいつ、自分の運動神経を分かってるんか?
僕は美咲の運動神経を知っている。正直、不安しかなかった。
みやも心配そうに美咲を見た。
「みー、大丈夫? みーにかかってんねんで!」
「うん!」
美咲は元気よく答えた。
……何が「うん」やねん!
大丈夫か、こいつ。
そんな不安を抱えながらも、作戦は決まった。
侵入も、逃走も、道路側のフェンスを越える。
車は、道路を挟んだ向かい側にあるバス停の近くに停めることにした。深夜0時ならバスは走っていない。そこから道路を横切り、フェンスを越える計画だ。
時計を見ると、すでに23時30分を回っていた。
全員、水着は服の下に着込んでいる。
ファミレスを出て車に乗り込み、いよいよ学校へ向かった。
この夜は蒸し暑かった。
外に立っているだけで、じわじわと汗がにじんでくる。
まさにプール日和だ。
車をバス停の近くに停め、僕たちは一人ずつ侵入を試みることにした。
最初は、みやだ。
僕たち3人は息を呑み、車内からその様子を見守った。
みやは素早く道路を横切ると、フェンスの前でぴたりと止まった。左右を確認し、誰にも見られていないことを確かめると、一気にフェンスを登り始めた。
そして、あっという間に高さ2メートルのフェンスを越え、プールサイドへ着地した。
その姿は、すぐに外から見えなくなった。
さすが少林寺チャンピオン!
身のこなしが、まるで忍者のようだった。
「次、俺が行く」
直樹が、なぜか小声で言った。
「いけ!」
僕も小声で返す。
直樹は周囲を見回しながら道路を横切り、音を立てないよう慎重にフェンスを登った。無事にプールサイドへ着地し、その姿も見えなくなった。
次は、美咲の番だ。
「みー! いけ!」
僕が声をかけると、美咲は不安そうにフェンスを見上げた。
「登れるかな……」
……いまさらかよ!
コノヤロー。
しかし、ここまで来て引き返すわけにもいかない。
「分かった。俺が肩車するから、それで登れ!」
そう言うと、美咲は嬉しそうに答えた。
「うん!」
二人で車から降り、鍵をかけて外へ出た。
蒸し蒸しとした、湿気のまとわりつく夜だった。
早くプールに飛び込みたい……。
そんなことを考えながら、僕たちは慎重に道路を横切った。車が通ってくる気配はまったくない。
フェンスの前に着くと、僕は美咲に説明した。
「みー! 今から肩車するから、両手でフェンスをつかんで、そのまま俺の肩に足を置いて立ち上がれ! そうしたら簡単に越えられるから!」
「分かった! 肩に立つ!」
……本当に分かってるんやろうな。
僕は美咲を肩車した。
美咲は両手でフェンスをつかみ、上半身を腕で支えながら、慎重に片足ずつ僕の肩へ乗せていく。
まず、右足が完全に僕の肩に乗った。
美咲は右手をフェンスから離した。右脇がちょうどフェンスに引っかかるような体勢になっている。
もうちょっとだ!
僕の右肩に、美咲の全体重がかかった。
そして、美咲は左足もゆっくりと持ち上げた。
……ところが。
僕の左肩を越えた足は、なぜか僕の頭を踏みつけ、そのまま蹴り下げた。
「いたたたあ!!」
思わず声が出た。
しかし、そんな僕の痛みなどまったく気にする様子もなく、美咲は一気にフェンスの上へ上半身ごと乗り上げた。
そのままバランスを崩し、頭からプールサイドへ落下したかのように見えた。
僕は、先ほど美咲に蹴り下げられた首を押さえた。
まるで、かかと落としをかわし損ね、首にまともに食らったような感覚だった。
……あいつ、マジで何してくれとんねん!
僕も急いでフェンスを乗り越えた。
すると、美咲は無事だった。
みやが、プールサイドで美咲を受け止めてくれていたのだ。美咲が頭から落ちてくることを予想していたらしい。
さすが、中学時代からの付き合いだ。
みやは、美咲のことをよく分かっている。
今日の人選は正解だった。
みやを選んだ美咲、よくやった!
……いや、そもそもお前がちゃんと登れていたら、こんなことにはならんかったんやけどな。
プールサイドに降り立った僕たちは、持ってきた荷物や脱いだ服を、大きなゴミ袋にまとめて入れた。
逃げるときに持ち出しやすくするためだ。万が一のことがあれば、ゴミ袋ごと道路に放り投げ、身一つで逃げられる。
準備は万端。
……しかし、美咲という奴は。
文字どおり、人を踏み台にして登りやがった。
しかも、頭を。
最初にプールへ飛び込んだのは、みやだった。
しかし、飛び込んだことすら分からないほど、静かな入水だった。
直樹も驚いたのだろう。僕と直樹は顔を見合わせ、言葉もなく視線だけで確認し合った。
――マジで?
すると後ろから、美咲がニヤニヤしながら言った。
「みやは水泳選手もしてたから、泳ぐのもうまいで(笑)」
僕たちが驚いているのを見て、面白がっているらしい。
僕と直樹は、まだ少し動揺しながらも、ゆっくりと水に入った。
美咲も、ここは慎重だった。
こうして、全員無事に入水完了!
大声でギャーギャー騒ぐことはできない。
それでも、蒸し暑い夜に、ただプールで浮かんでいるだけで十分に満足だった。
気持ちいい……。
みやはプールの隅で、少林寺拳法の型のような動きを練習していた。
直樹はプールサイドに頭を乗せ、仰向けになって水に浮かんでいる。
美咲は、泳いでいるのか、溺れているのか、よく分からない動きをしながらも楽しそうだった。
そして僕は、プールの真ん中で、完璧な浮力とバランスを保ちながら浮き続けていた。
夜空の星がきれいだった。
明日は晴れだな。
何かで聞いたことがある。夜に星が見えると、次の日は晴れるという話だ。
誰から聞いたのかは覚えていない。
それでも、そのときの僕は、なぜかその話を信じていた。
水の流れに身を任せ、ただ漂っていた。
すると、頭が何か柔らかいものに当たった。
……美咲の胸だった。
美咲は僕の頭に胸を押し当て、両腕で僕の両脇を下から抱え込んだ。
「頭、大丈夫やった? ごめんね。頭踏むつもりなかってんで(笑)」
そう言って、クスクス笑いながら僕の顔をのぞき込んできた。
あ〜、もう、そんなことはどうでもいい……。
もっと美咲のDカップを押し付けて……。
そんなことを心の中で考えながら、僕は口を開いた。
「ほんま、文字どおり人を踏み台にする奴やな、みーは」
もちろん、頭の中では、もっとエロいことを考えていた。
そのまま、しばらく美咲は僕を抱えたまま、プールの中を歩き回ってくれた。
あ〜、もう。
二人きりやったら、もう水着を脱がして襲ってるのに……。
……と、もはやエロいことしか考えられなくなっていた。
そんな僕に、美咲が声をかけた。
「ダ〜、上見て〜。星きれ〜」
「知ってる〜」
僕は、さっき思い出した豆知識を披露してみた。
「夜、星が出てたら明日は晴れるんやて」
「そうなんや!」
美咲は、驚いたような声を上げた。
僕は、そこで何気なく付け加えた。
「……知らんけどな」
「知らんのかい!」
美咲のツッコミが飛んできた。
その声の振動が、胸を通じて僕の頭に伝わってくる。
……心地いい。
静寂がしばらく続いた。
気持ちよかった……。
そのときだった。
突然、バタバタと激しい水しぶきの音が響いた。
何事かと見てみると、みやが本格的に泳ぎ始めていた。
それにつられたのか、直樹までクロールで泳ぎ出している。
僕は、この心地いい時間を中断して立ち上がった。
「おい! おまえら、静かにしろ!」
僕が注意すると、二人は同時に動きを止めた。
みやはニヤリと笑って言った。
「もういいやん。誰もこんって!」
直樹まで、訳の分からないことを言い出した。
「来る気配がない。俺には分かる」
……いや、お前に何が分かるねん。
僕の制止を振り切り、二人は再び自由に泳ぎ始めた。
おいおい……。
そう思いながらも、確かに音が響くような場所ではなかった。職員室のある校舎はかなり離れているし、その間には体育館もある。校舎側からプールの様子を直接見ることもできない。
すると、今度は美咲がどこから持ってきたのか、ビート板を使ってバタ足を始めた。
……なんなん、こいつら。
最初の緊張感は、どこへ行ったんや??
僕は、もうどうにでもなれ、と思った。
プールサイドに上がり、思い切り水の中へ飛び込んだ。
バシャーン!
すると、全員の動きがぴたりと止まった。
そして、全員が一斉に叫んだ。
「それはあかんやろ〜!」
「なんで? バタ足よりましやん!」
僕が反論すると、直樹がすかさず言った。
「みーはいいねん!」
みやも続けた。
「音が下品!」
その言葉に、みんなが笑った。
結局、その夜、いちばん大きな音を立てたのは、僕たちの笑い声だった。
昼間の熱気をそのまま残したぬるいプールの中に身を浸していると、肌をなでる水の感触と、ひんやりした夜風との対比がたまらなく気持ちよかった。
プールサイドに背中を預けて見上げる夜空。
遠くを走る車のエンジン音。
そして、耳元で聞こえる水の弾ける音。
忍び込んだことへの背徳感と、見つかるかもしれないというスリル。それらが心地よい刺激となり、静まり返った学校の中で、自分たちだけが世界の中心にいるような感覚に包まれていた。
美咲の柔らかな胸の感触。
頭に残る、蹴られた痛み。
バカみたいに本気で泳ぎ出す仲間たちの笑い声。
夏の終わりの、生ぬるい夜の空気。
僕たちは子供のようにはしゃぎながら、いつまでもプールの中に浮かび、この特別な時間をかみしめていた。




