第43章 しょうとの再会
あの強烈すぎる「痴漢ホテル直行事件」の衝撃から数ヶ月が経ち、季節は春のやわらかな空気から、少しずつ初夏の匂いが混じり始める季節へと移り変わろうとしていた。
夜の御堂筋。新緑を蓄えたイチョウの並木道が、街灯のあたたかい光に照らされて、どこまでも一直線に輝いている。車窓を少し開けると、昼間の蒸し暑さを優しく洗い流すような、ひんやりと心地よい夜風が車内へと吹き込んできた。
梅田の煌びやかなビル群を背に、ゆったりとしたペースで淀屋橋、本町へと車を南下させていく。整然と流れていく街並みと、アスファルトを滑る心地よいタイヤの音。幾重にも重なるテールランプの赤い光が流星のように前へと伸び、大阪の夜を鮮やかに彩っていた。
あの日、あまりの呆れと怒りで一時は本気で頭を抱えたものの、相変わらず隣の助手席で脳天気に笑っている美咲の横顔を見ていると、あの事件すらも遠い昔のコントのように思えてくるから不思議だ。
季節が巡り、車内に吹き込む風がすっかり初夏の気配を帯びてきたこの頃、僕たちの日常にまた新しい風が吹こうとしていた。
今日も美咲を迎えに来て、これから帰るか、ホテルへ行くか、どうしようか迷っていた。
時間はまだ20時過ぎ。
美咲の今日の服装はそそる。短めの膝上スカートに黒のパンスト……足は太いけど……。上はDカップが際立つ、なんかよう分からんシャツ!
ホテルでいちゃいちゃしながら、ゆっくりできる。コンビニで何か買って、のんびり過ごそうか……。明日は土曜日で仕事も休み。
これはホテル決定だな……。
そんなことを、ひとりで企んでいた。
車からは、美咲が作ったテープの音楽が流れていた。
すると美咲が、目を細めながら言った。
「今、ホテル行こうと思ってるやろ?」
こいつ、僕の心を読みやがったのか?
そう思いながらも、僕は聞き返した。
「なんでわかった!?」
美咲はニヤニヤしながら答えた。
「今日私がスカート短くて、黒いパンストやから……やろ!?」
「なにそれ、完全にもう俺のパターン読んでるやん!」
僕は冗談っぽく続けた。
「もしかして美咲、わざと俺をホテルに誘うためにそんなカッコしてんの?」
すると美咲は、あっさりと答えた。
「うん! そやで。ダー、こんなカッコ好きやろ?」
誘惑するような口調だった。
「じゃ……いつも俺はみーに操られてホテルに行ってるの?」
そう聞くと、美咲はニヤニヤしながら言った。
「そうやで! やっと気づいたか! この変態め!」
確かに。ホテルに行く日は必ずスカートだ。
美咲がパンツを履いているところは見たことがない。ジーンズ姿も見たことがなかった。
こいつ、僕のために毎回毎回スカートやったんや……。
そう思うと、ますますやりたくなった。
男ってホント馬鹿だ……。
僕が言った。
「よっし! じゃ〜今日は5発くらいやるか!」
すると美咲は、むくれ出した。
「その言い方いややから帰る」
その時、携帯電話が鳴った。
携帯を開くと、画面には【金髪アホヤンキー】と表示されている。
僕が携帯の画面を見てしばらく考えていると、美咲が言った。
「だれから? もしかして昔の女!?」
そう言って、僕から携帯を奪い取った。
「きんぱつあほやんきー?」
画面を読み上げた美咲が、続けて尋ねた。
「だれ?」
金髪アホヤンキーと言えば、一人しかいない。
しょうだ。
僕は美咲から携帯を奪い取り、電話に出た。
出た瞬間、僕は第一声をあげた。
「なんやハゲ! 久しぶりやな!」
電話の向こうから声が返ってきた。
「お久しぶりっす! しょうっす! 覚えてくれてますか?」
「忘れるわけないやろ! 忘れたくても忘れられへんわ! お前なんか! 金も貸してるし!」
そう言うと、しょうは申し訳なさそうに答えた。
「すんません!! でも、明日返しに行きます!! 明日空いてますか?」
なんだ? こいつ?
大阪に来るのか? しかも明日?
急すぎやろ!
そう思いながら、僕は言った。
「なんで明日やねん! 急すぎやろ!」
すると、しょうは答えた。
「すいません! もうでも青森から大阪まで新幹線のチケット買っちゃって……ちゃんと金も返すんで!」
僕は美咲を見ながら言った。
「明日っていわれても……」
その時、美咲に電話を奪い取られた。
美咲は電話の向こうに向かって、何やら話し始めた。
「あなたがしょうくん? 話聞いてます。明日来るんですか?」
美咲には、横須賀時代のことはすべて話している。
ひなたちゃんと、「ビキニ」のこと以外は。あと、ナンパで有名になったことも……。
だから、しょうのことも知っているのだ。
僕は、しょうが余計なことを言わないか、ただそれだけを心配し、美咲が電話するのを見守っていた……。
あのハゲ……余計なこと言うなよ……。
「へぇ〜そうなんや……」
「うん」
「うん」
何か、しょうと話している。
僕は冷や汗をかきながら言った。
「おい! 電話貸せ!」
手を伸ばしたが、美咲は背中を向けてガードしながら、電話を続けた。
「へ〜それで明日わざわざ大阪にくるんや〜!」
「わかった! ダーにいっとくね!」
「うん」
「新大阪ね! 14時30分ね! わかった!」
完全にノナツミリで約束を取り付けていた。
受話器の向こうから、しょうの脳天気な声が漏れ聞こえてくる。
「うわ〜! たけとさんの彼女さん、めちゃくちゃ優しそうっすね! 明日楽しみにしてます!」
電話を切った美咲は、ご満悦な表情で僕に向き直った。
「ダー! 明日しょうくん大阪来るんやって! 楽しみやね!」
さらに、楽しそうに言った。
「14時30分に新大阪迎えに行ってあげよ!」
「……お前なぁ、あいつホンマにアホなんやから変に期待させんなよ。それに俺たちの今夜の予定は……」
「あ! もう『5発やる』とか言うヘンタイダーにはお仕置きやから、今日はホテルなし! 帰る!」
「えぇぇーーっ!?」
車内に僕の情けない叫び声が響き渡った。
黒パンストにミニスカートという最高の誘惑を目の前にしながら、僕はあえなく撃沈。
すべては、あのタイミングで電話をかけてきた金髪アホヤンキーのせいだった。
こうして、楽しみにしていたホテルでの甘い夜はあっけなく崩れ去り、翌日、横須賀時代の因縁のしょうを迎えるという、またしても波乱含みの週末が幕を開けようとしていた。
オカンのタコしゃぶは、思った以上にみんなで大盛り上がりとなった。
「こんなの食べた事ないっす!」
そう言いながら、しょうが物凄い勢いで貪り食っている。
食卓を囲むのは、長男、次男、親父、オカン、美咲、直樹、しょう、そして僕。いつものメンバーにゲストが加わり、どう考えてもリビングのキャパシティを完全にオーバーしていた。
結局、僕は立ち食いにまで成り下がっていた。
背もたれもない、あの固い木製椅子にはオカンがドカッと座っている。僕に与えられた椅子など、どこにもなかった。
仕方なく僕は美咲の真後ろに立ち、鍋からタコしゃぶをしゃぶしゃぶしてもらい、皿に載せて渡されたものをパクパクと食べていた。
なんだか飼い犬のポチにでもなった気分だった。
そんな情けない僕の存在など完全に無視して、食卓の会話は弾んでいく。
オカンが「しょうくんは彼女おる?」と尋ねると、しょうはタコしゃぶを口いっぱいに頬張りながら言った。
「いますっす! ぶすっすけど! 23歳なのに40歳くらいに見えるんっすよ!」
それを聞いた長男が「その女、ぶっ飛んでんな!」と容赦ないツッコミを入れ、次男が「君はブス専か?」と追い打ちをかける。
「いや! かわいい子の方がそりゃ好きっすけど、とりあえずやれたらそれでいいかなって思っただけっす」
しょうが平然と答えると、次男は「お前もぶっ飛んどるな!」と爆笑した。
「そのツッコミ最高っすね! さすがタケさんのお兄さんっす! 尊敬っす!」
感心するしょうを見て、長男が僕を指さしながら言った。
「こいつ、お前(俺)よりぶっ飛んでんちゃうか?」
「俺はぶっ飛んでない!」
即座に言い返したが、オカンが僕の黒歴史を容赦なくほじくり出してきた。
「家放火したあんたのどこがぶっ飛んでないんや! え!?」
それに食いついたしょうが、目を丸くする。
「タケさん……放火したんすか……! マジぶっ飛んでますね……てか、犯罪じゃないっすか!!」
(お前だけには言われたくないわ!)
そう思ったが、反論すると話が長くなりそうだったので呑み込み、美咲からちびちびと鍋の具材を食べさせてもらっていた。
今日も田島家の食卓は大騒ぎのまま幕を閉じた。
腹いっぱいになった僕たちは、美咲を自宅まで送り届けるために4人で車に乗り込んだ。
途中、タバコが切れたので僕と直樹はコンビニに寄り、ついでにみんなの飲み物と、この後3人で食べる夜食を買い込んで車に戻った。
車内では、しょうと美咲の会話が弾んでいた。
(ほんま……こいつ、よく喋るな。顔は悪くないのに中身がな……)
そう思いながら、車をいつもの公園へと走らせた。
公園に着き、車を止めると、美咲は降り際に寂しそうに言った。
「しょうくんは明日帰るんやね?」
「そうっす……。これでお別れなんて寂しいっす!」
しょうは目をウルウルさせながら、美咲を見つめている。
美咲は「また、大阪来てね! 3人で楽しんでね!」と言って、ドアを閉めようとした。
その瞬間――美咲はクルッと振り返り、僕を鋭い眼光で睨みつけながら言った。
「浮気したら殺す!」
バタンとドアが閉まり、美咲は去っていった。
しょうが青ざめた顔で「最後の美咲さん……怖かったっすね……」と漏らした、まさにその時だった。
後部座席の直樹がニヤリと笑って言った。
「じゃ〜〜いきますか!! 久々に!」
僕には一瞬で意味が分かった。
「行くか!?」
「そら〜行っとかな、しょうの為にも! みーも『楽しんで』って言ってたやん!」
僕もその言葉を都合よく解釈することにした。
これはあくまで、しょうに大阪の夜を楽しんでもらうためであって、僕のためではない。しょうに一度だけでも、あの「パーク」を体験させたくて行くだけであって、決して浮気ではない!
そう自分に強く言い聞かせ、車をパークへと向かわせた。
しょうは首をかしげる。
「え? どこ行くんすか?」
直樹が楽しそうに答えた。
「めちゃ熱いところや。ナンパスポット!」
それを聞いたしょうのテンションは、一気にMaxまで跳ね上がった。
「お〜〜! ナンパっすか! 行きましょう! 大阪の女の子と喋れる〜〜!!」
大興奮のしょうを乗せ、車は思い出の地へ到着した。
パークは相変わらず、昔のままの熱気を孕んでいた。数台の車が路肩に駐車し、それを待つ男たちの車が列をなしている。
(懐かしいな……何年ぶりだろう……)
僕の青春のすべてがここから始まった場所。
ここで尚ちゃんに出会っていなければ、僕はまったく違う人生を歩んでいただろう。
だが、出会ったのだ。そして、美咲とも。
工場地帯の暗がりをクルクルと車で巡っていると、1台の車を発見した。誰も並んでいない。絶好のチャンスだと思い、すぐに横付けした。
助手席の直樹が速攻でパワーウィンドウを下げ、「待たせてごめ〜ん、怒ってる?」と声をかける。
まるで待ち合わせをしていたかのような、軽〜いボケ!
この開口一番の一言で、その後のすべての流れが決まる。
すると、車内の女の子がクスッと笑い、「待ってた! 遅すぎて怒ってるわ!」とノリ良く返してきた。
顔は……A級とB級のラインだろうか。微妙だが、どちらも十分かわいい。見る限り、スタイルも良さそうだ。
僕がしょうに言った。
「お前も後ろの窓開けて一緒に喋れ!」
すると、何を思ったのか、しょうは車から降りて女の子の車の助手席へと回り込んだ。そして、トントンとガラスを叩いて窓を開けさせ、そのままダイレクトに喋り出したのだ。
(しょう……なかなかやるな。さすが横須賀で僕が仕込んだ男だ)
しょうが青森から来ているという話に女の子たちは興味津々になり、場は思った以上に大盛り上がりとなった。
勢いそのままに、みんなでカラオケに行くことになった。
カラオケルームに入っても、大騒ぎは続いた。
しょうは酔った勢いで、さっそく女の子といい雰囲気になり、チューまでしていた。
直樹は相変わらずの圧倒的な音痴を爆発させて熱唱している。
そんな時、僕のポケットで携帯が震えた。
画面には「美咲」の文字。
僕は静かにカラオケルームを出て、廊下で電話に出た。
「今何してるん?」
開口一番の美咲の問いに、僕は一瞬息をのんだ。
素直に言うべきか、誤魔化すべきか……。
迷った挙句、嘘はつかないことにした。
「今カラオケ!」
すると、美咲はすかさず突っ込んできた。
「3人一緒に?」
嘘はつきたくない。
だが、「女の子ナンパしてカラオケ来てるねん」なんて言った日には、間違いなく殺される。
だが、「3人一緒に?」という問いに対して、確かに僕たち3人は一緒にいる。
嘘ではない!
「うん!」
僕がそう答えると、美咲は声のトーンを落として優しく言った。
「しょうくん、楽しませてあげなよ〜!」
(十分楽しんでいる。女の子とチューまでして、なんならこのままホテルに行きそうな勢いだ……)
そう思いながら、僕は答えた。
「まあ、せっかく青森から来たんやから、いっぱい楽しんで帰ってもらうわ!」
満足した様子の美咲は言った。
「じゃ、邪魔したら悪いから切るね〜。おやすみ! 愛してる!」
そう言って電話を切った。
受話器を置き、僕は深く息を吐き出した。
(ほっとした……この安堵感……!)
やったのだ。
僕は嘘をつかずに、この危機を乗り切ったのだ!
自分を誇らしく思いつつも、胸の奥に一抹の罪悪感を抱えながら、僕は騒がしいカラオケルームへと戻った。
夜中2時くらいまでカラオケで盛り上がり、3時過ぎには近くの静かな砂浜へ移動して、みんなで波音を聞きながら他愛もない話を語り明かした。
直樹としょうも、それぞれ女の子と連絡先を交換し、ようやくお開きとなった。
車に戻ると、しょうが興奮冷めやらない様子で言った。
「たくみちゃん! 青森来るって言ってくれたっすよ!」
たくみちゃんとは、さっきカラオケボックスでしょうとチューしていた女の子だ。
「よかったな!」
僕は笑いながらしょうの背中をバンと叩き、運転席に乗り込んでエンジンをかけた。
東の空がうっすらと白み始め、夜と朝の境界線がゆっくりと溶け合っていく。
車窓を開けると、初夏の湿り気を帯びた潮風が車内に流れ込み、遊び疲れて火照った肌を優しくなでていった。
湿ったアスファルトの匂いと、どこか甘い夏の予感が鼻腔をくすぐる。
後部座席では、達成感に満ちあふれたしょうが満足そうな顔でうとうとと船をこぎ始め、助手席の直樹も窓の外の朝焼けをぼんやりと眺めている。
あの過酷な冬を越え、色々な事件を乗り越えて、また新しい夏がやってくる。
静まり返った湾岸道路を走り抜けながら、僕はこれから始まる大好きな夏に思いを馳せていた。




