第42章 人生の分岐点
いつもの騒がしかった日常も、どんどんと過ぎていく。
そんな中、僕は人生の大きな分岐点に立っていた。
会社には親父の意向で次男が入ってきて、間もなく会社を仕切るようになった。だが、社会経験もない大学生上がりが突然社長として振る舞う様子は、どうにも僕には面白くなかった。
直樹は相変わらずマイペースに仕事をこなしていたが、僕の腹の中には、ずっと不満とくすぶり続ける焦燥感があった。
(それなら、僕も自分のやりたいようにやってやる)
そう心に決め、前々から温めていた「ドライビングスクール事業」へと舵を切ることにした。
社内事業の一部として立ち上げたのが、「WJDS(西日本ドライビングスクール)」だ。
いわば、飛び込み試験専門の自動車学校である。
なぜドライビングスクールなのか――。
話は、僕が18歳で免許を取った頃にさかのぼる。
当時、高校を卒業したばかりの僕には金がなかった。けれど、どうしても車に乗りたくて、免許が欲しかった。
そこで考えついたのが、運転免許試験場での「一発飛び込み試験」だった。
仮免試験は一回千円ちょっとと格安で、何度か受けたとしても、教習所に通うよりはるかに安く済む。
実は、親父に内緒で無免許運転をしてみたり、高校時代の悪友の車で夜な夜なドライブしたりしていたおかげで、車の操作自体には自信があった。
その甲斐あって、仮免試験はたった3回で合格。1万円も使わずに突破できた。
問題は路上試験だった。
決められた何パターンかのコースが、試験当日に発表される。
初挑戦の日、僕は頭にコースを叩き込んで試験に臨んだ。なんとか最後まで走り切ったものの、車から降りる直前、試験官の警察官から冷たく告げられた。
「途中の歩行者妨害、停止線オーバーね。また次回頑張って」
肩を落として車から降りてきた僕に、見た目50歳くらいの、スキンヘッドで小柄なおじさんが声をかけてきた。
「にいさん! 惜しかったね! 何回目?」
「1回目です」
そう答えると、おじさんは目を丸くした。
「1回目で完走!? いいね〜! どう? うちで教えてやろうか? 通るコツがあるから!」
差し出された名刺には、「森田ドライバー養成所」と書かれていた。
森田さんは、僕にこう言った。
「兄ちゃんやったら、免許取るまで5万で見たるわ! 試験代も練習も全部込みや!」
5万円は、当時の僕にとって大金だった。
だが、練習の手間や試験官対策、何より時間を買うと思えば、十分に納得できる金額だった。
「お願いします! コツ教えてください!」
僕は頭を下げた。
そして、次の試験で見事に合格した。
すると森田さんが、思いがけないことを言ってきた。
「5万円の代わりに、うちでバイトせんか?」
僕にとっては願ったり叶ったりの話だった。
こうして僕は、森田ドライバー養成所でアルバイトをすることになった。
そこで、飛び込み試験の進め方や、合格するためのノウハウ、試験特有のコツを徹底的に叩き込まれた。
ただ免許を取っただけではない。今度は、自分が教える側になったのだ。
実際に何人かの教習生を受け持ち、免許取得まで導いた経験もあった。
そのとき身につけた知識と経験が、後に僕自身の事業を立ち上げるための土台になった。
そんな過去の原体験をもとに開設したのが、「WJDS」だった。
ホームページの作成からチラシ配りまで、すべて自分一人で手掛けた。
仕事は、すぐに軌道に乗った。
大阪の平野区にある時間貸しの練習場で、仮免取得までの実技を叩き込む。
相変わらず現役で教えている森田さんとも、顔を合わせるたびに缶ジュースをおごり合った。
あのとき、18歳の僕に声をかけてくれた森田さん。
あの出会いがなければ、今の僕はドライビングスクールを立ち上げていなかったかもしれない。しかし、これ自体がもうすでに僕の人生を大きく変えていた。この時はまだ気づくはずもない。もしこの分岐点を選ばなければ・・。
仕事は出張がなくなった分、美咲とは以前にも増して毎日顔を合わせるようになった。
最近は、長男のところに姪っ子のかりんが生まれ、よちよち歩くようになってきた。
僕と美咲は、かりんをしょっちゅう遊びに連れ出していた。
天王寺動物園、姫路セントラルパーク、みさき公園、白浜アドベンチャーワールド、海遊館……。
あらゆるテーマパークや施設に、3人で出かけた。
かりんは僕たちのことを、まるで友達のように「たけと」「みさき」と呼び捨てにし、すっかりなついてくれた。
だから、美咲とのデートには、かなりの頻度でかりんがついてきた。
その日も、近くの公園で3人でボールを追いかけ、汗だくになってはしゃいでいた。
周りから見れば、どこからどう見ても幸せな3人家族に見えていただろう。
夕暮れ時になり、僕が声をかけた。
「もう帰ろうか! お母さんも心配するから」
「まだ、みさきとたけとといたい!」
かりんは、かわいらしくわがままを言った。
目の中に入れても痛くないほどかわいかったが、心を鬼にして車に乗せ、兄の自宅まで送り届けた。
かりんを下ろし、美咲の自宅へ向かう道中。
明日は、けんじとりなと4人でアウトレットに行く予定もある。
(今日のホテルは明日でええか……)
ちょっと残念な気持ちを押し殺しながら、明日を楽しみにしようと自分に言い聞かせていた。
しかし、かりんを送り届けたあとの帰り道、助手席に乗る美咲の様子がおかしかった。
そわそわと落ち着かず、何か言いたそうにチラチラと僕の顔をうかがっている。
「なんか言いたいことあるん?」
僕が尋ねると、美咲は申し訳なさそうに、消え入りそうな声で聞いてきた。
「ねぇ……ダー、怒らん?」
「内容次第やな」
「この前……ちょっと電車の中で……痴漢というか、痴漢に遭って……」
「そうなん?」
痴漢に遭ったのに、なんで僕が怒る必要があるんだ?
困惑しながらも、僕は続きを促した。
「で、その痴漢の人と並んで座ってる状況で、ちょっとずつ私のお尻とシートの間に手を上向きにして滑り込ませてきてん……。で、最終的にはお尻揉まれて。最初は何か当たってるだけかな?って思ったんやけど、違くて。思い切って私が『痴漢ですか? やめてください』って言ったら、その人が『そうじゃなくて……あまりにも綺麗だったからつい……』って」
「で?」
僕は眉をひそめ、食い入るように続きを聞いた。
「で、なんか知らんけど、『仕事何してんの?』とか『彼氏いるの?』とか話してるうちに……なんか次の駅で降りる流れになって……。で、『何もせえへんから』っていうからホテル入って……。で、横に座って足触ってきて、キスしようとしてきたから、あたし『何もせんって言ったやん!』って言ったら逆ギレされて……『こっちはもうホテル代払ってんねん! どうしてくれんねん!』って言われて……。それでもやっぱり無理やから!って言ってホテル出てきた……」
――はぁ?
あまりの言い分に、あきれて言葉が出なかった。
パニックと激怒が同時に頭の中で弾けた。
痴漢されて、話しているうちに、その男と二人でホテルに入る……?
AVの世界じゃあるまいし、一体何なんだ、それは。
こいつはバカなのか?
なんでそんなことを僕に言ってくる?
本当に何もなかったなら、わざわざ僕に言う必要なんてないはずだ。
僕の、僕の大事な美咲が、見知らぬ男とホテルに入った――?
頭の中が真っ白になり、血が逆流するような怒りとショックが襲ってきた。
その男を今すぐぶちのめしてやりたい衝動と、「なんでそんなことになったのか」という絶望的な不信感が入り混じる。
「なんでそんなんしたん!? どういうつもりなん!? 痴漢とホテルって……AVの世界ちゃうねんぞ! あほちゃうか!!」
抑えきれなくなった衝動が爆発し、僕は車内で怒鳴り散らしていた。
「その男の連絡先は聞いてるんか!? お前いったい何考えてんねん! 何を俺に伝えたいねん! やってないとか言ってるけど、本当はやったんちゃうんか!!」
止めようとしても、言葉があふれ出た。
美咲は必死に訴えてくる。
「連絡先は交換してないし、絶対にやってない! 信じて!」
そんな都合のいい話を信じられるわけがなかった。
「なんなんお前! 一体どういう神経でそれを俺に話したん!? 頭わいてんのか!?」
「一応……言ってた方がいいかなって思って……。でも! 絶対に何もなかったから!! お願い、信じて!」
美咲は半泣きになりながら、僕にすがりついてきた。
だが、その軽率すぎる行動も、神経も、すべてが許せなかった。
「そんな女、もういらんわ! その男と幸せになったらええやろ!!」
僕が吐き捨てるように怒鳴ったあと、いつもの公園に着くまで、車内には重苦しい沈黙が流れた。
公園に着いても、美咲は車を降りようとしなかった。
車の横で、美咲は何度も謝り続けていた。
「本当にごめんなさい!」
「絶対にやってないから!」
だが、僕は一切顔も向けず、無視し続けた。
「はよ行けや! 浮気女! 尻軽!!」
怒りに任せて容赦ない言葉を投げつけ、「出ていけ!」と突き放した。
美咲は涙を浮かべながら、諦めたように車を降りた。
僕は、ドアが完全に閉まるか閉まらないかという瞬間にアクセルを踏み込んだ。
キュルキュルとタイヤを鳴らし、バックミラーすら一度も見ずに車を急発進させた。
夜のバイパスを、ただひたすらに走らせる。
流れていく街灯の光が、フロントガラスをむなしく通り過ぎていく。
車内には、いつも美咲が作ったテープではなく、無機質なエンジン音だけが響いていた。
(なんで……? なんでなんや……)
ハンドルを握る手が、怒りとショックで震えていた。
これまで、僕は目いっぱい美咲に愛情を注いできたはずだった。
仕事でどれだけ疲れていても、どれだけ遠くにいても、美咲のことだけを思って帰ってきた。
それなのに、なんでこんな裏切りみたいな真似をされなきゃいけないんだ。
しかも、「痴漢されてホテルに行った」なんて、普通あり得ない。
どんな状況になれば、そんな話になるんだ。
悲しさと惨めさと、裏切られたような激痛が、胸の奥を激しくえぐり取っていく。
まっすぐ自宅へと向かう夜道。
いつもなら、自宅に着いたらすぐに美咲と電話で話していた。
「今日は楽しかったな」
「かりん可愛かったな」
そんな話をしながら、次のデートの予定を笑い合っていた。
だが、今日はとてもじゃないが、そんな気にはなれなかった。
僕はたった一人、暗い夜道を、絶望に押し潰されそうになりながら運転していた。
(あした……けんじとりなと4人でアウトレットに行く約束をしてたんだった)
ドタキャンはけんじたちに悪いし、良くないのは分かっている。
でも、あんな女と一緒に並んで歩くことなんて、今の僕にはとてもじゃないが耐えられそうになかった。
「道順的に……最初にけんじを迎えに行くから、二人きりにはならんか……。なんとか形だけは繕えるか……」
公園で11時に、りなも一緒に待っている予定になっている。
断るに断れない状況が、余計に惨めだった。
自宅前に車を止め、エンジンを切る。
静寂が一気に車内を包み込んだ。
急いで二階の自分の部屋に入り、タバコに火をつける。
紫煙を吐き出しながら、ぼんやりと暗闇を見つめた。
5年間、バカみたいに愛して、笑い合って、バタバタと駆け抜けてきた二人の月日。
そのすべてが、たった一つの信じられない出来事で崩れ去っていくようだった。
暗い部屋のドアを開け、明かりもつけずに冷たい床に座り込む。
ついに……別れの時が来たんかな……。
答えの出ない問いと、美咲の泣き顔、そして湧き上がる激しい怒りが、ぐるぐると頭を駆け巡る。
一人きりの寂しい夜が、どこまでも深く更けていった。
次の日、いつも通り、目覚ましが鳴る2分前に目が覚めた。
こんな絶望感満載な日でも、僕の体内時計は狂わないのか……。
だるい身体を無理やり起こして身支度を整え、けんじを迎えに行くために自宅を出た。
僕の家からけんじの家までは、車で7分ほどの距離だ。
けんじも大学を卒業し、今は実家に戻ってきている。けんじが住んでいるのは集合住宅の3階だった。
何度か遊びに行ったことがあるが、けんじのお母さんはすごく気さくで優しく、よく話しかけてくれる人だ。
大の「Xファイル」好きでもある。
車をマンションの前につけて待っていると、けんじが階段を降りてきた。
「おつかれ〜」
そう言って助手席に乗り込んできたけんじに、僕は「おう!」と一言だけ返し、車をUターンさせて美咲の自宅へ向けて走らせた。
道中、けんじは何かを察知したのか、僕の顔をのぞき込むように聞いてきた。
「なんかあった?」
(あ〜〜やっぱり顔に出てるか……)
そう思いながら、こいつには言っておいた方がいいかもしれないと考え、昨夜の出来事をすべて話した。
すると、けんじは神妙な顔をした。
「あ〜、それは……きついな……」
「やろ? 普通の神経ちゃうで!」
僕が吐き捨てるように言うと、けんじは不思議そうに返してきた。
「でも、みーやってないって言ってんねんから、やってないんちゃうの?」
「いや! でもやらんわけがないやん! 俺がそいつやったら絶対にやるわ!」
「お前やったらね」
けんじは真顔で即答してきた。
納得がいかない僕は、さらに畳みかけた。
「もし! 仮にやで! 万が一やってなくても、そんなん俺に話してどうすんの? 普通話さんやろ? ただの自爆やん」
「気を引きたかったとか、もっとかまってほしかったとか?」
そう言われたが、それはない。
いつも一緒におるし、愛情もいっぱいに注いでいる。注意を引くために、そんなことをするはずがない。
すると、けんじは冗談交じりに言った。
「可愛い彼女を持つと苦労するね〜」
「ほんま、あんな尻軽とは思わんかったわ!」
「尻軽なんかな〜……みー、そんな風には見えんけどな〜」
けんじは、ひとりごとのようにつぶやいていた。
そんな話をしているうちに、公園が見えてきた。
美咲とりなが並んで待っていた。
僕は、二人の目の前に後部座席のドアが来るように車を止めた。
第一声は、りなだった。
「おつかれさ〜ん! 沖縄以来?」
僕に向かって手を振ってきた。
「そうやな……そういえば……」
思い返してみると、確かに4人で集まるのは、あの沖縄旅行以来だった。
二人を乗せ、車を岸和田方面へと走らせた。
道中、車内で話しているのは、りなとけんじの二人だけだった。
りなも何かを察しているのか、あるいは美咲から話を聞いているのか、いつもより明るく場を盛り上げようとしてくれていた。
「まずあたし、雑貨屋さん行きたい! みんなでそこから回ろ!」
りなの提案に、けんじが乗っかった。
「いいね! 雑貨! 俺も賛成!」
僕は冷たく言い放った。
「俺はええわ……こんな尻軽女と一緒に歩きたくないし」
すると、後部座席で美咲が反論してきた。
「尻軽ちゃうもん!」
間髪入れずに、僕は返した。
「痴漢とホテル行くような奴のどこが尻軽じゃないわけ? え?」
美咲は一気に黙り込んだ。
りなが「まぁまぁ落ち着いて……」と僕をなだめ、けんじも「そんな言い方ないよ……」と美咲をフォローした。
だが、僕の苛立ちは止まらなかった。
「ほんまはこんなクソ女、車にも乗せたくないねん! すぐ他の男になびくような女! クソや!」
その瞬間だった。
美咲は、車が走っているにもかかわらず、後部座席のドアのロックを解除して飛び降りようとした!
それを見たりなが叫んだ。
「たけとくん! みー危ない! 車止めてーーーー!!」
僕は急ブレーキを踏んで車を止めた。
止まった瞬間、美咲は車から飛び出し、勢いよく走って逃げていった。
車内で、りなが呆れたように言った。
「あ〜〜あ……みーの逃走癖が始まった〜」
そう、美咲には逃走癖がある。
何か都合が悪くなったり、追い詰められたりすると逃げ出す。実に厄介な癖だった。
りながけんじに向かって、「何してんの? 追いかけて」と視線で合図した。
それを察したけんじは、急いで車を降りて後を追った。
僕は、ほかの車の邪魔にならないように車を路肩に寄せた。
車内に残ったりなが、落ち着いた口調で聞いてきた。
「で、どうするんですか? 元探偵さん」
「どうするもなにも……俺が悪いの?」
「今回に関しては、たけとくんは悪くない! 美咲が悪い! 私はそう思う! でも、あの言い方……あれはちょっと……」
確かに、みんながいる前で、あれは言い過ぎたか……。
そう思っていると、りなは真剣な目で言った。
「実際どうなったかなんて私にも分からんけど、それくらい信じてあげたらいいんちゃうの? 5年以上も付き合ってるんやから」
「信じるとかじゃなくて、そういうのにホイホイ簡単についていくのが許されへんだけや」
「あの子は世間知らずやから、そういう所が良くないけど。でも、それを知っててみーのこと好きなんやろ? そうじゃない?」
「世間知らずなのは知ってたけど……他の男とホテル行くって、道理的にどうなん?」
僕が言い返すと、りなは呆れたように笑った。
「その道理的な行動が分からんのがみーやん! 本当に道理的やったら、そんな出来事、タケト君には言わへんで! それがいいことか悪いことか、ほんまに分かってないから言ったんじゃないん? ただ純粋なだけやねん、あの子は!」
「あいつはドラゴンボールの悟空か!」
僕が突っ込むと、りなはクスクス笑った。
「そうそう! そんな感じ(笑)。だから悪気はないねんて」
仕方なく、僕も車から降りて辺りを見回した。
美咲の姿はない。
100メートルほど歩いたところに公園が見えた。
そこに美咲が座り込んで泣いており、けんじが立ったまま困り顔で見下ろしていた。
(しかし……よくここまで走って逃げたな……子供か!)
そう思いながら、けんじに駆け寄った。
けんじは困り果てた様子で言った。
「みー……さっきからずっとこのまま……」
僕がけんじに「車戻ってて」と目で合図すると、けんじは理解して車へ戻っていった。
僕は美咲を見下ろして言った。
「おい! みんなに迷惑かけんなよ! 子供ちゃうねんから!」
だが、美咲は何も言わず、うつむいたままだった。
(も〜〜! これが一番困るパターン……どうしろと言うのだ……)
放っておこうかとも思ったが、りなやけんじに何と言われるか分からない。
僕は美咲の前にしゃがみ込み、声のトーンを落とした。
「な〜美咲〜、も〜え〜から戻ろ〜。みんな待ってるから〜な」
すると美咲は、ポロポロと涙をこぼしながら言い返してきた。
「みーみたいな尻軽女……乗せたくないんやろ……」
「もう、そんなんいいから、とりあえず戻ろう」
「もうほっといて……私なんか……」
消え入りそうな声で言う美咲。
マジで放っておいてやろうか! と思いつつも、僕は強引に彼女の左腕を引き上げ、無理やり立ち上がらせた。
「子供じゃないんやから……いくぞ」
引っ張りながら歩かせるその様子は、わがままを言ってぐずる子供を無理やり連れて帰る親そのものだった。
なんなんだ……こいつは……。
僕は大きなため息をついた。
すると、引っ張られながら歩く美咲が、小さな声で聞いてきた。
「私のこと……まだ好き……?」
もう仕方がないので、僕は前を向いたまま、不愛想に答えた。
「好き!」
すると美咲の声のトーンが少し上がった。
「まじで!?」
「ゲロマジ」
そう吐き捨て、そのまま車へと戻った。
車に戻ると、りなが「大丈夫?」と声をかけた。
美咲は「大丈夫」と、にっこり笑顔で返していた。
それを見たけんじは、なぜか「ほ〜〜」と妙に感心したような声を漏らした。
僕が運転席に座り、「じゃ、いきますか〜!」と言うと、りなが懐かしいフレーズで場を盛り上げた。
「イケイケゴーゴー!」
その後、僕たちは予定通りアウトレットに到着した。
最初は少しギクシャクしていたものの、一通りショップを巡り、服や雑貨を見て回るうちに、時間が解決してくれた。
美咲もいつもの明るさとドジさを取り戻し、気づけば何もなかったかのように、みんなでワイワイと大爆笑しながら買い物を楽しんでいた。
最後には、みんなで賑やかに夕食を囲み、最高の一日の締めくくりとなった。
りなと美咲を送り、最後にけんじを自宅まで送り届けて、長い長い一日はようやく終わりを迎えた。
後から本人に詳しく話を聞いて分かったことなのだが――美咲は、本当に何が悪いのか分かっていなかったらしい。
当然、変な行為をすることなんて1ミリも頭になかった。
あの「痴漢」の件すら、途中で世間話をされたことで、「あ、痴漢じゃなかったんだ」と思い込んでいたというのだ。
ホテルに入ったのも、男から「ちょっと疲れたから休憩しよう。何もしないからお茶だけ飲んで帰ろう」と言われ、「あ、お茶飲むだけならいいか」と素直に信じてついて行ったらしい。
なんというか……世間知らずなのか、純粋すぎるのか……それとも、ただの大バカなのか。
僕の愛した女は、本当に手の付けられない、奇跡のような奴だった。




